四十九話 ナリカラの朝
リオニ城の最も奥まった場所である、かつて王族の住まいだった区域。その一部分を占める寝室にて、整った見た目のゴブリンが寝台から起き上がる。
バグラティオニ大王の子孫の一人、ティラズムはしょぼつく目を擦りながら昨日までの出来事を振り返った。
ティラズムの元へナリカラ帰還の話が舞い込んで来たのは、叔父の一周忌として一年祭を二日後に控えていた時である。
ナリカラを統一した偉大なるバグラティオニ大王の血を最も色濃く受け継いだ王族、その家長であった父は既に世を去り、一時的に跡を継いでいた叔父も齢六十とゴブリンとしては高齢であった事もあったのか、昨年にティラズムの父を追う様に病に倒れ亡くなっていた。
そしてティラズムが家長となっている時に、王族悲願のナリカラ帰還の話がやって来たのである。
叔父の一年祭を終えてから、早速ティラズムはカシィブ公領より供回りを連れて父祖の地ナリカラへと向かった。その後、ナリカラ北東部が赤帽子に襲撃された事を受けて、東回りにスブムンド公領を通ってナリカラ北部に入る。
特に妨害や事件も無く、無事にナリカラ北西部の主要都市ディアウヒへ辿り着き、大歓迎を受けつつリオニを目指した。そして昨日、リオニにてイルムと相対したのだ。
ナリカラ軍の総司令官としてナリカラ総督府に迎えられた後、ティラズムは事前にイルムから提示されていた帰還条件である呪詛状の撤回を公表する。
これによってオルベラ氏族は社会的に追放されていた状態から解放され、諸氏族との融和と交易が進められる事となった。
――既に百年以上経っている事をいつまでも引き摺る必要は無いだろうに。
ティラズム自身、オルベラ氏族へ思う所は少なかった為にさして問題も無く呪詛状撤回を終えている。
次に行われたのは王子帰還を祝う晩餐会だったのだが、喜びに満ちたエグリシ氏族諸侯を始めとするゴブリン達の飲めや歌えの大騒ぎで、揉みくちゃにされたティラズムは耐えきれずに中座する事となった。
当の諸侯らは泥酔していた為、ティラズムの中座にも気付かぬまま飲み明かしている。
気を利かせたイルムの手配で、長旅と式典や宴の疲れを癒す様にと今の部屋へと通され、ティラズムはそのまま泥の様に眠ってしまった。
そうして昨夜までの記憶を辿っていると、扉が遠慮がちに叩かれる。
「入って構わない」
彼は相手が入室の許しを請う前に入室を許可した。頭を下げたまま入って来たのは、ティラズムが連れてきた侍従達だ。無論全員ゴブリンである。
彼らは部屋の窓を塞いでいた扉を開いて陽光を取り込んでいく。
窓へ向かわなかった一人の侍従が、一杯の薄い葡萄酒が乗る盆を恭しくティラズムへ差し出した。ゴブリンの王子は当然の様に酒杯を手にして中身を呷る。
意識を完全に覚醒させたティラズムが寝台を降り、その周りを侍従達が取り囲んで素早く召し替えた。絹の寝間着から円柱帽と綿の長衣姿となったティラズムは食堂へと向かう。
するとそこには丁度食堂に入ったばかりらしいイルムがこちらに振り向いていた。
「これは……おはよう、中々の偶然だね」
小さく眼を見張ったイルムだったが、身体を向き直して挨拶をする。ティラズムも挨拶を返した。
「おはよう、食事を共にしても?」
「勿論」
二人は机を挟んで向き合う形で朝食を摂る。机上には小さな壺に入った発酵乳製品に、ナリカラでキトリと呼ばれる細長い緑色の瓜と人参を刻み胡桃で和えたもの、そして卵とチーズが乗った船形のパンなどが並べられた。
キトリは水気が多く薄味だが小気味良い歯応えがあり、薄味を人参と胡桃が補っている。
見た目は簡素だが新鮮な生の野菜は都市部では高級品、戦士ゴブリンでも口にするのは難しく平民ゴブリンからすれば生野菜料理は銀で出来ているも同然だ。
「ところで、昨日はカトリコス総主教の姿が見えなかったが、何か訳が? てっきり総司令官就任の場に居るものかと」
ティラズムは口に入れたパンを飲み込んだ後、イルムへナリカラの最高宗教指導者であるカトリコス総主教の話を振る。
「今の総主教猊下は老齢であられるし、わざわざ総司令官就任の場に御呼びするのも……ねぇ?」
「確かに、政治的にも微妙だ。余計な野心を抱く者が出かねない」
魔族との敵対は避けるべきという現実的な視点はティラズムも持ち合わせていた。今ナリカラ独立を叫んだところで、人間諸国と魔族の間で孤立し人魔両者から叩き潰されるのは目に見えている。
故にゴブリンの王子という現ナリカラの世俗的最高権威とカトリコス総主教という宗教的最高権威を引き合わせるのは、政治的な刺激が強過ぎるとして憚られた。
権威はともかくも、ナリカラの最高権力者はナリカラ総督たるイルムなのだから。
「波風は立てたく無いよね……実は顧問にも権力の二重化を懸念されていて、総司令官殿の軍権をどこまで認めるかはまだはっきり決まっていないんだ」
「まぁそれは仕方ない。ああそれといちいち殿を付けなくても良い、総督としての立場からの王族に対するせめてもの敬意だろうが今のナリカラには不要だろう。歳も近いし、お互いに常の態度でいたい」
ティラズムは一度言葉を切る。柔らかな笑みを浮かべてから、彼は口を再び開いた。
「総督は書物好きと聞いている。私も詩集などを読むのが好きで、気が合いそうだと思っていたんだ。友と呼べる者も少ない私には総督がそういった者であるのは嬉しい事だよ」
これを聞いたイルムも笑みを返す。心底嬉しそうに。
「本当!? それなら是非友人としてもよろしく! 」
勢いよく立ち上がって右手を伸ばしたイルムに、ティラズムは笑いながら席を立ってその手を握り返した。
以後二人の会話は大いに弾む。
互いに読んだ事のある書物を語り合う内に、最近読んだ物で何が良かったがという方向へと話が向かった。その時、イルムはある一冊の本を挙げる。
「まだ読んでいる途中なんだけれど、かの賢王レオンが残した戦術書が凄くてね」
「賢王レオン……聞いた事がないな」
「あー、人間諸国の間でも知っている人は限られているから仕方ないか。僕が最近手に入れた本も少し古い言葉の物で、誰も読めずに売り払われた写本っぽかったし」
そう言うとイルムはかつてクロムの町で手に入れた戦術書『賢王レオンが記した戦の術』について語り始めた。
賢王レオンは四百年近く前に存在した人間の王で、彼よりも更に古の王が残した戦術書を加筆、再編集を行った物が『賢王レオンが記した戦の術』だ。
元々の戦術書には戦術の他に訓練と軍規を徹底させる事の重要性が説かれていたが、賢王レオンは野営地を塹壕で囲うなどの陣地についてや小部隊を纏める下士官の重要性などを付け加えている。
イルムが先のモシニクスの戦いにおいて、土盛りと逆茂木の陣地を構築したのもこの書物を参考にしていたからであった。
「それでね、賢王レオンは単に戦術を説くだけでなく、国は農民を守る軍と軍を養う農民で成り立つとも説いているんだ。これに基づいて僕はナリカラに開墾令を布告したんだけれど、どうしても時間は掛かるね。でも上手くいけば一万規模の軍を自由に動かせる様になるよ」
食糧事情が良いとは言えない現状のナリカラでも、ゴブリン達はその膨大な人口による大兵力を保有している。開墾が進み食糧生産が安定すれば、財政や兵站の都合で編成出来なかった数万の大軍を揃える事も十分に可能だろう。
「だが時間を掛け過ぎるのも良くない。この内乱は早々に片付けないと人間諸国の介入を招きかねない」
真剣な表情をするティラズムの言葉にイルムも深く頷いた。
ザリャン氏族との戦いが長引いた場合、争いから逃れようとナリカラの外へ逃散する鉱民や平民が急増し続ける。
そうなれば当然食い繋ぐ為に人間諸国の領域で略奪を働く難民のゴブリンが増え、人間諸国によるゴブリン掃討が行われる様になり、果てにはナリカラへの侵攻へ発展してしまう怖れがあった。
そして内戦状態である今のナリカラが、人間諸国の攻勢を跳ね返せるかは不透明だ。
「人間諸国に対しては慎重に、ザリャン氏族に対しては性急に、難しいけれどやるしかない」
イルムの呟きに似た言葉に、今度はティラズムが大きく頷いた。




