四十話 退却
ザリャン氏族軍の攻勢に、ナリカラ軍は悪戦苦闘していた。両翼は押し込まれ、中央は前衛が辛うじて持ち堪えている状態である。そんなナリカラ軍に、かぁんかぁんと何度も叩かれる鐘の音が響いた。
ナリカラ軍の将兵は思わず顔を見合わせる。鐘が叩かれる事が意味するのは“総退却”であった。
そんな馬鹿なという驚きと、やはりかというどこか冷静な思考を綯交ぜにしたゴブリン達は、一拍全ての動きを止める。だが、その一瞬の静寂を沸き上がる雄叫びが引き裂いた。
地に伏す竜へ槍を突き立てた騎士の旗と共に、五百ものゴブリンが縦列で前進する。彼らを率いて先頭に立つ、赤目ロバに騎乗した大柄で厳ついゴブリンが声高に叫んだ。
「殿はこのギオルギが請け負っておる! 皆退けぇい!」
「ギ、ギオルギ殿……!?」
戸惑うエグリシ氏族諸侯を押し退ける様に、ギオルギ勢は縦列から横列へと隊形を変える。そしてギオルギが鍔の無い剣をさっと振り上げた。
「掛かれぇ!」
ギオルギ勢が武器を掲げて前線へ突っ込む。後方で戦力を温存していたギオルギの手勢は、戦闘で大なり小なり疲弊しているザリャン氏族兵を一蹴した。
まるで騎兵に蹂躙されたナリカラ軍の様に、今度はザリャン氏族軍がギオルギ勢に蹴散らされる。痛撃を受けたザリャン氏族軍前衛は士気崩壊を起こして敗走していった。
「今ぞ! 諸侯は退け!」
ギオルギの声に諸侯軍は、はっとして静止状態から動き出す。エグリシ氏族の将兵が一斉に敵に背を向けて、退却を始めた。
中央のエグリシ氏族諸侯軍が退いていく頃、両翼も鐘の音を聞いて撤退の態勢に入る。
「総退却の退き鐘が鳴らされた! 退けい退けい!」
指揮を執っていた戦士ゴブリンらが、配下の兵に戦闘の放棄を告げ、退却を促す。
当然逃げようとするナリカラ軍を追撃するべくザリャン氏族軍が追い掛けるが、ギオルギと同じく味方を逃がす為の殿軍が立ち塞がった。
「“向こう傷”のゲガルクニクだ! 死にたい奴から来るがいい!」
血が滲む布を頭に巻き付けたゲガルクニクが、無事である方の目を鋭くさせる。
「つまらん負傷で時を無駄にしたわ、この恨み、ここで晴らしてくれる。者共、続け!」
敵騎兵による損害で一時後退していたゲガルクニク勢は、応急処置を終えたばかりのゲガルクニクを先頭に突貫した。
オルベラ氏族最強の猛将が、怒りを込めた攻撃を叩き込んでザリャン氏族軍の追撃を挫いたのと同様に、右翼のロムジア氏族も氏族長アスピンザ自らが剣を振るって、ザリャン氏族軍へ斬り込む。
しかしロムジア氏族軍には、ザリャン氏族兵の他にファハンやバグベアといった強敵が押し寄せており、中々撤退に移れずにいた。
下手に撤退すれば退却が敗走となってしまい、軍が崩壊する可能性がある。何とか一撃を加えて、後退する隙を作らねばならなかった。
「退がりつつ戦えてはいるがのう……このままずるずると敵を引き摺っていては、撤退し損ねて敵中に孤立しかねん」
アスピンザは胸の内に懸念を抱えたまま、眼前のバグベアを斬り捨てる。次にその隣にいるファハンの攻撃を避けて反撃の体勢を取った時、ファハンが振り回す連接棍が、別のバグベアに当たった。
「あ」
「あっ」
思わずそのファハンとアスピンザが間抜けな声を上げる。
ここに来て、連接棍の欠点が出た。連接棍は強力な打撃を繰り出せる一方で、リーチの長いこの武器を振り回す事は味方や自分を傷付ける可能性がある。
この為隊列を組む集団戦闘では使えず、得意の個人戦闘でも乱戦時は味方に当たらない様注意する必要があった。
だが、ナリカラ軍が撤退の動きを見せた事で焦りが募ったのか、ザリャン氏族軍は無理に前へ出ようとして、統制の取れた攻撃があまり出来ていない。
興奮した敵味方が入り乱れる状態では、意図せず味方に攻撃が当たってしまうのも無理は無かった。
仲間を吹っ飛ばされたバグベア達が、怒髪天を衝くとばかりに毛を逆立て、そのファハンを怒鳴り付ける。
「何やってんだテメェ!」
これを境にファハンとバグベアの間で、言い争いが始まった。
「貴様らが入り込んで来るからだろうが!」
「無駄に振り回してんじゃねえよ! 危ねえわ間抜け!」
「黙れ、腐れ毛玉!」
「んだとぉ! やるか糞ったれの一ツ目が!」
元々接点が少なかった上に、荒くれ者のバグベアと独立意識の強いファハンはかなり相性が悪い。アスピンザの目の前以外でも、戦闘の合間に反目し合うバグベアとファハンの姿があった。
「俺の獲物だ、横取りすんな!」
「知るか! 自治を取り戻すには手柄がいるんだ!」
挙句には露骨に戦果の奪い合いまで起きている。
ロムジア氏族にとっては絶好の機会に見えたが、それでも二倍の敵から離脱するには今少し足りない。多少楽にはなったが、依然として危機的状況だった。
その時、地面を震わせる馬蹄の音が沸き立つ。
「突撃ぃ!」
黒地に赤い線が斜めに交差する旗を掲げて赤目ロバに跨るゴブリンの騎兵が、ロムジア氏族に食い下がるザリャン氏族軍へ突進した。
彼らはエグリシ氏族諸侯が保有する騎兵戦力から抽出された虎の子の騎兵隊である。その数、百騎。
対してナリカラ軍右翼に殺到していたザリャン氏族軍は優に千を超え、騎兵隊の眼前に広がる敵兵だけでも数百は居る。
が、持ち前の衝撃力を遺憾無く発揮する騎兵に掛かれば、二、三倍の兵力差は誤差同然であった。
数がいるだけで密集して突撃に備えてもいない、ばらばらなザリャン氏族兵を、まるで藁束であるかの様にその命を刈り取っていく。
深々と敵軍に食い込んだ騎兵隊は、士気を砕かれ壊乱するザリャン氏族軍前衛を追い散らし、その間にロムジア氏族は本陣への退却に移る事に成功した。
前衛を崩されたザリャン氏族軍であったが、すぐに後詰を進めてナリカラ軍の騎兵隊を引き返させる。
現在、ナリカラ軍の撤退は半ば順調であった。
左翼のオルベラ氏族はスピタカヴォルが素早く退いた為、ノリスも滞りなく後退。殿のゲガルクニクも、右翼から駆け付けたナリカラ軍騎兵の援護を受けて、退がりつつある。
中央はギオルギの奮戦でエグリシ氏族諸侯は大半が本陣まで退がっており、右翼ロムジア氏族も既に弓兵がギオルギ勢の援護を行なっていた。
被害の大きい部隊はそのままモシニスク城を目指すが、まだ余力のある部隊は弓兵隊、弩兵隊を中心に本陣に留まり、殿軍の撤退支援を準備している。
しかし、順調と言っても全体を見ての話で、局所に目を向けると退却と同時に戦意を喪失して敗走している部隊や、味方を押し退けて逃げる恐慌状態の部隊も見受けられた。その影響は徐々に大きくなっていく。
それが目に見える形になったのは、兵器群を廃棄する時だった。
イルムは予め用意させていた柴を使い、敵に鹵獲される事を防ぐ為に投石機と弩砲を焼き捨てる準備を命じる。
だが準備を命じたにも関わらず、いきなり兵器群から火の手が上がったのだ。
「は? ちょっと!? 火を点けるのが早すぎる! 一、二発は援護射撃してもらわないと!」
悲鳴の様な声でイルムが叫ぶ。
予定では殿軍の撤退を支援してから火を放つ筈であったが、混乱によっての行き違いか早とちりで支援前に柴を積み上げ、兵器群を燃やしてしまったのだ。
これがナリカラ軍の混乱を助長する。
殿軍を支援していた弓兵隊と弩兵隊が背後で炎が出現した事に動揺し、更に間の悪い事に……いやそこを突いて来たと言うべきか、ザリャン氏族軍の騎兵隊が敵味方が混濁する中を掻き分けて現れた。
敵騎兵出現に支援部隊の士気が大きく揺らぎ、ぼろぼろと崩壊し始める。
「っ!? 持ち場を離れるな! 殿の戦友を見捨てる気か!」
イルムの叱咤が虚しく響いた。クムバトが敗走する兵を纏めようと、決死の形相で本陣を出て行く。各指揮官も部隊を統制しようと、腰が引けている兵をどやしているが効果は薄い。
幸いな事にロムジア氏族は持ち前の練度の高さから整然と退却し、既に生き残った兵全てが本陣に到着。オルベラ氏族のゲガルクニクも味方騎兵の奮闘で後退出来ている。
だが、援護射撃が途切れてしまった事で、中央のギオルギがまだ前線から離脱出来ずにいた。
そして、ザリャン氏族軍の三百程度の騎兵隊は、敵を食い止めながら後退する殿軍ではなく、動揺激しい弓兵と弩兵の元へ向かう。
敵騎兵の目標が明確に自分達であると分かったゴブリンの兵士達は、とうとうなけなしの戦意を投げ捨てた。
「逃げるな! 友軍を見捨てるな! おい止まらんか!」
兵としての体裁を無くしたゴブリン達は、指揮官の叫びと敵騎兵に背を向けて走り出した。射手部隊の崩壊は本陣にまで波及する。
撤退するギオルギ勢への追撃を跳ね返す為の戦力となる筈だった本陣に集合した残存部隊が、勝手にモシニスク城へと撤退し始めたのだ。
「何をして……!? ああもう! 指揮系統がばらばらの連合軍だとこうなるか……!」
イルムは自身が跨る一ツ目馬の鞍に拳を叩き付ける。ナリカラ軍の総退却は、組織立った撤退から潰走へと転がり落ちていった。




