十話 彼女の一日
黒っぽい濃い栗毛の髪と、雪のように白い肌を持つ一人の女性が、掘っ建て小屋のすぐ側で、二本の棒に張られた縄にぶら下がっている魚を、一つ一つ何かを確認するように触っていた。
そこには人の手ほどの大きさの魚が、一本の縄を通して十匹程度干され、それらが三列に並んでいる。
「もう充分だな」
ポツリと呟いた女性は、以前イルムと渡し守として出会った彼女だった。
彼女は三十匹強ある干し魚の乾燥具合を確認し終えると、振り返って扉が開かれた小屋の中にあるものを見つめる。それはイルムから別れ際に貰った、上質な麻製外套であった。
「……売るに売れないこれをどうするべきか……」
彼女はこの外套を、イルムの好意通り風に飛ばされてしまったぼろ布の代わりにしようかと最初は思ったが、すぐに他人に見られる度に盗品かと勘繰られる面倒を予見し、扱いに困ってしまったのだ。
身に付けても売っても、城壁の外で生活せざるを得ない人間が持っているには過ぎた品、一悶着あるに決まっている。
そう考えてずっと小屋の中に置きっ放しになっていた。
「……まあいい」
彼女は吊るされた干し魚を二列降ろして、背負い籠に入れる。
残る一列を小屋の中に吊るすと、籠を布で覆い、縄できつく縛り付けてから籠を背負い、さっきまで干していた魚とは別に天井から吊られていた干し鮭を手に取った。
前に失くしてしまったぼろ布とは別の布を被った彼女は、小屋を出ると簡単な鍵を閉めてすぐ近くの都市へと向かう。
町をぐるりと囲む城壁が見えてくると、同時に城壁の側に小汚い天幕やあばら家が密集しているのが見える。
都市に入ることができるのは、市民や冒険者、商人など身分がはっきりしている者に限られており、そうでない流れ者などはこうして城壁の外側に貧民街を形成して生活していた。
もちろん都市内にも貧民というべき者がいるが、城壁外の貧民とは違い、彼らは都市によって身分が証明され、教会や市民から施しを受けられる「正規」の貧民である。
そんなことになっているのは、もぐりの貧者が入り込むのを防ぐためという理由があるのだが、効果のほどは不明だ。
なぜなら――
貧民街を横目に城門へ着いた彼女は、城門前に立つ鎖帷子姿の番兵に、籠とは別に手で持っていた干し鮭を渡す。
受け取った番兵は通れと一言言うと、彼女から視線を逸らした。彼女は足早に城門を通る。
これに番兵の後輩らしき若い衛兵が駆け寄った。
「ちょ、ちょっと。通していいんですか!? 身分の証明してないじゃないですか!」
番兵の男は面倒臭そうに答える。
「良いんだよ、誰も損しないからな。あいつは無事中に入れる、俺は付け届けを受け取る。それだけだ」
「付け届けっていうか、賄――」
「いいか、若えの。綺麗事だけじゃ生きていけない奴は必ずいる。訳は知らんが、外で暮らしてるあいつにも、何かと金はいるだろう。なら町で物を売るしかない、だからああいう方法で入るわけだ」
「……生きていくために、ですか」
「俺たちだって、神様が作られた生き物を生きるために殺して食ってんだ。人間は生まれた時から罪深い、だから人間は罪滅ぼしとして働くんだって教会で教わるだろ? 清らかでないのは皆一緒なんだよ」
衛兵は複雑な表情で黙り込み、やがて持ち場へ戻った。
城門でそんなことがあったとは露知らず、彼女は真っ直ぐにある場所へ向かう。
到着したのは中央の市場……から少し離れた路地だ。そこには既に待ち人がいた。
「いつもどうも、今回は何匹だい?」
壁に寄りかかっていた細い目をした男が、問い掛ける。彼女は無言で籠を降ろし、縄を解いて覆い布を外し中身の干し魚を見せながら、小さく十九と答えた。
「相変わらず罠漁だけでよく獲るね、まだ十は家にあるんだろう?」
彼女は男の感心したような声に、何ら興味を示さずに右手を突き出す。男ははいはいと言いながら、革袋を取り出すと中から大判銅貨を四枚掴み、彼女に渡した。
「ちょいと色を付けておいた、でさ……って早い早い」
彼女は銅貨を握ると男に構わず、すたすたと立ち去る。男は呆れたようにため息を吐くが、苦笑を浮かべて手を振った。
「あんたの干し魚は評判良いんだ。一度くらいウチの店に来なよ、安くしとくから!」
しかし、彼女は振り向かない。何時もの様に。
銅貨を懐に仕舞い、手ぶらになった彼女は、教会に立ち寄った。中へ入ると、壁に掛けられた斜めに交差したX字型の十字架が目に入る。
彼女はしばらく十字架を見つめた後、目の前で斜めに十字を切ると、跪いて両指を組み祈りを捧げた。やがて徐に立ち上がると、ゆっくりとした足取りで教会を出る。
教会前では貧者達にパンを配る施しが行われており、彼女は迷うことなくその列に加わろうとするが、祭服と大帯を身に付けた副輔祭――神品である輔祭を補助する者――と見られる人物が彼女を呼び止めた。
「もし、敬虔なる方。よろしければこちらを」
さっきまでオルソド教の奉事、奉神礼をしていたであろう副輔祭の男は、自身が持つ籠からパンを一つ取り出してみせる。
「貴方は真の貧者であられる。他の貧者は貧しさを信仰に繋げもせずに、ただ施しを頼りに生きているだけですが、貴方は違う。教会を訪れる度に深く祈られ、信仰に生きておられる……感動致しました、そんな御方を並ばせるなど出来ません」
熱く語る副輔祭からさっとパンを取った彼女は、一礼してその場を離れた。
「単純だな、お陰で苦せずに済む」
彼女の俗っぽい呟きは、誰にも拾われずに消える。
懐に固いパンを仕舞い込み、早歩きで賑やかな街中を進んでいると、彼方此方から様々な情報が耳に飛び込んできた。
「最近、東方の砂漠の国々が魔族に攻め込んでいるらしいぞ」
「ああ、通りで東から入る鉄やら麦やらが、値上がりし始めてるわけだ」
「デレヴニャ村近くでゴブリンを見かけたってよ、ここんところ多いな」
「冒険者の方々! 旅のお供に当店の液薬は如何ですか? 偽物が溢れる中、当店が抱える錬金術師が開発したものだけは本物です! 冒険者組合や魔術師組合の承認も近い本物の万能薬ですよ!塗り薬に包帯なんて物は過去の物になりますとも!」
「おい、聞いたか? イーゴルの野郎、路地裏で寝こけて身包み剥がされたってよ」
「あの“鋭鋒“のイーゴルが? 名うての冒険者が落ちぶれたもんだな」
「いや怪しい奴を追いかけてたら、いつの間にか眠ってたとか」
「なんじゃそれ」
彼女は聞こえてくる話に無関心な様子で、帰路につくべく城門を目指す。だが、ふと視界に気になるものが映った。
見窄らしい黒い服を着ているものの、貧民ではないらしい男が、道に落ちている馬糞などの汚物をごみ挟みで拾って背負い籠に入れている。
その男に向かって幼い子供達が、馬糞を投げつけていた。男の丸い背に汚物がぶつかり、飛び散って衣服を汚すが、男は諦めた顔で黙々と汚物を拾う作業を続ける。
「……」
彼女は立ち止まって、男を目で追った。しばしそうした後、下卑た歓声を上げて馬糞を投げる悪童達の元へ向かう。
すぐに子供らは自分達に近付く者に気付くと、眉間を寄せて彼女を見上げた。
邪魔をするならお前にもやるぞと、脅そうと口を開くが、その口からは脅しの言葉ではなく短く情け無い悲鳴が出る。
大人も震え上がる氷の瞳が、悪童達を見下ろしていた。その迫力に堪らず蜘蛛の子を散らすように逃げ出した彼らを、彼女は鼻で笑うと再び城門へ向かって歩き出す。
汚物塗れの黒衣の男は目を見開き、茫然としながらも彼女に向けて、深々と頭を下げた。
が、彼女は見向きもせずに城門を潜る。
遠くから川のせせらぎが僅かに聞こえる小屋へと戻った彼女は、屋内の隅に埋めておいた皮袋を掘り出した。懐から銅貨を出すと、ずっしりと重いその皮袋に入れ、元の場所へ埋め戻す。
水桶で手を洗うと再び懐に手を入れ、パンを取り出した。彼女はそれを持ったまま、藁に布を被せただけのベッドに腰掛ける。
その時、無造作に置かれた麻製外套が目に入った。不意に、彼女の脳裏へイルムの顔が映る。
“あ、あの! 本当に不躾な事言ってごめんね……ただ君みたいに美しい人は亡き母上以来初めてだったから、その……”
「……」
イルムと別れた際に、背中へ掛けられた言葉を思い出し、彼女は眉を顰める。
他人と深く関わることを避けてきた彼女にとって、特定の人物を想起してしまうなど初めてだった。
「……疲れてるのか?」
彼女は外套を睨み付け、パンをそのまま齧る。
「……固」
焼き締められたそれは、彼女の歯を弾いた。




