百七話 落馬
イルムは強かに打った背中と、焼き鏝を当てられた様な左肩の痛みに呻く。痛みに耐えて目を何とか開こうとするも、暗闇に慣れた筈の瞳には何も映らない。代わりに、背中に続いて地面にぶつかった頭が、がんがん鳴る。
耳には数々の揺れる怒鳴り声が聞こえるが、耳から反対の耳へと通り抜けてしまって内容が全く分からない。
少しして、身体が引っ張られる。後方へ運ばれているのだと、すぐに気付いた。
その頃には意識がはっきりして視界も回復する。まず左に目をやれば、左肩から伸びる矢とその矢羽が、存在をうるさいくらいに主張していた。
「まだ抜かんで下さい。傷が熱を持ってますので、酒で冷やさなければ」
自身を運ぶゴブリンの一人がそう気遣う様に声を掛ける。そして「掛けますよ」と言われた後、矢が刺さった肩が濡れていくのを感じた。
「ぐうっ……!」
酒が傷に滲みる。それまでのじくじくした痛みを、ぴーんとした鋭い痛みで上塗りされた。
耐えられない程ではないが、激痛には変わりないものを味わされている内に、前線からはすっかり離されていた。何人かが纏まって駆ける、どたどたという重なった足音が聞こえてくる。
やや苦労しながら首を回すと、都市クロムで引き入れた“鼻つまみ”の渾名を持つ元刑吏の人間、ヤンが複数人のゴブリンを連れていた。
刑吏の経験から蓄積された医療知識と技術を買われてナリカラ総督府に雇われた彼は現在、弟子となったゴブリンと共に従軍医としてイルムに連れ回されている。
「射たれたと聞きましたが、真でしたか」
ヤンはイルムの左肩に生えた矢を見て目を丸くするが、手は処置の動きを澱みなく行う。服を裂いて青白い左肩を露出させると、傷の状態を観察し、鏃の形を推測した。
ほとんどの矢は鎖帷子を貫通しやすい様、鏃が返しの無い真っ直ぐな形をしている。だが、もし返しがある場合は抜く際に肉を引き千切る事になり、治療の難度が大幅に上がってしまう。
「返しは無いと見た。骨に当たっているかもしれんが、貫いてはいない。そのまま抜ける」
矢を凝視していたヤンは小さく安堵の息を吐く。幸い、矢は変哲も無い通常の物だった。
やがて弟子のゴブリンに縄で矢を引き抜く様に指示を出す。そして布をイルムに噛ませた。
露わになっている左肩へ再び酒が掛けられ、その間に矢へきつく結んだ縄を二人のゴブリンが一気に引いた。ぱっと血の露を飛び散らせて、矢がイルムの肉体から飛び出す。
「ん゛ん!」
くぐもった苦悶の叫びも飛び出たが、誰もそれに気を回す事なく治療行為が続けられた。
「止血薬を」
「どうぞ」
ヤンが求めた物をゴブリンが手渡す。それは液体が入った小瓶である。イルムの血の気が薄い左肩に空いた小さな赤い穴へ、小瓶の中身が注がれた。
「ぎっ……〜〜! ……ぺっ。何、これ? 血止めなら油?」
暴れそうになる身体を自ら抑え込んで染み込む激痛を堪えたイルムが、噛み締めていた布を吐き捨てて疑問を挟む。こんな状態でも旺盛なる知識欲は健在らしい。
ヤンは律儀に答えた。
「松を木炭にする際に得られる乾留液の上澄です。確かに傷の処置は葡萄酒で洗い、熱した油で傷を焼いて止血するのが一般的ですが、こちらの方が効きます」
説明しながら清潔な布を傷口に当てて包帯を巻く。ヤンの治療は経験則によるものが多分にあったが、事実として木タールには一定の殺菌作用がある。
また、傷を焼いて止血する焼灼止血法は、火傷から来る感染症の危険を伴う。その為、現在のヤンが行う沸騰油を使わない方法の方が遥かにマシな治療であった。
処置を終えたヤンが溜息の様に言葉を吐く。
「外科医として開業する筈がどうして従軍医に……」
「ゴブリンに医術を教えるなら実地の方がいいでしょ? ナリカラ軍に医者はほとんど居ないんだし、使える人材を無駄には出来ないよ」
今もヤンのお陰で助かったしと、イルムが笑みを浮かべた。ヤンは小さく眉根を寄せたまま、一礼して後方へ下がる。
緑旗軍の陣からやや後方に離れた場所は、臨時の治療所としてイルム以外の負傷者が途切れる事なく前線から運び込まれており、ヤンと見習い外科医のゴブリンらに暇は無かった。
「さて……指揮は出来ずとも姿は兵士達に見せないと。士気が落ちているのは確実、なら早く復帰して兵を安心させなきゃ……」
イルムが治療の際に破かれた服を脱ぎ捨て、その下に隠れていた袖無しの鎧下と、同じく胴体のみを覆う袖無し鎖帷子を露わにさせて立ち上がろうとする。
そこへ馬蹄の音が聞こえてきた。
ここで少し時間を遡る。イルムが矢を受けた時だ。
「総督閣下、御落馬!」
誰かの叫びが星の無い夜空に響き渡る。この落馬という言葉が、激しい動揺と混乱を招いた。
「落馬だと!?」
「一体何があったんだ!?」
「射たれた! イルム閣下が射たれた!」
「何だって!?」
瞬く間にゴブリン達が冷静と真逆の状態へ陥る。なお悪いことに、矢を受けて落馬したという情報が広がるにつれて、落馬の事実が最悪の凶報へと形が歪んでしまう。
「総督閣下が討たれたらしいぞ」
「まさか!」
「だが、閣下が後方へ運ばれたのを見た奴が何人もいる。ただ事じゃねぇのは確かだろ」
「ど、どうすんだよ」
後方でもこんな会話が為される有り様で、前線では当然収拾がつかない状態である。
突撃中の出来事だった為に、部隊長格の者達は進むか退くか分からないまま狼狽えるばかり。その隷下にいる兵士も、同様かそれ以下の恐慌状態だ。
そんな状況を敵がわざわざ見逃す理由は存在し得ない。敵勢はここぞとばかりに猛撃へ出た。
「魔族の大将を討ち取れぃ! 魔王の子の首を取れ!」
そう叫びながら刃や穂先をぎらつかせて、夜闇の襲撃者達が突貫する。夜襲を受けた時に戻ったかの様に、南軍のゴブリン達は呆気なく崩されてしまった。
本来この混乱を収める筈の、緑旗軍の司令官であるエレクレはこの時、戦線中央には居ない。というのも、襲撃が起きた時点で彼の天幕付近にまで敵が迫っており、軍を統制するどころか周囲の兵を纏めて抗戦する事で既に手一杯だったのだ。
それはイルムが落馬し離脱した時点でも然程変わっていない。
兵を統率する上級指揮官が居なくなってしまった結果、ただでさえ夜襲の混乱でちぐはぐした戦線の中央がイルムの離脱と共に崩壊した。
四分五裂のゴブリンらへ襲い来る敵勢を、何とか止めようと奮戦するはアミネのみである。
一ツ目馬の背の上から矢継ぎ早に魔法を撃ち出し、氷や土の壁で妨害しつつ雷と氷の矢で牽制しているが、余りにも多勢に無勢が過ぎた。
アミネ本人が討たれる様子は微塵も無いが、味方はそうではない。アミネが止め切れなかった討ち漏らしが、恐慌に染まったゴブリンの背を切り裂き、貫いていく。
「矢の一本でくたばる御人ではないでしょうが……指揮にすぐさま復帰とはいきませんか」
流石のアミネもこの状況に愚痴を紡いで唇を引き結んだ。
「あの魔族は囲むに留めろ、狙うは魔王の出来損ない息子ただ一人!」
将と思しき者が叫んだ指示で、外套と鎖帷子姿の敵兵がざざっと動く。盾と槍を構える歩兵がアミネの周囲を埋めた。その後ろを大勢の兵が駆け抜ける。
小さく舌を鳴らしたアミネが焔の塊を手から放ち、包囲する歩兵へぶつけて彼らを吹き飛ばした。だが、すぐに倒れた者を踏み越えて新たな歩兵が穴を埋めてしまう。
手出しはしないが、それ故に隙なく固める敵兵の姿に、彼女は珍しく眉をへの字に曲げた。面倒な事になったという顔で自分を囲む盾の壁を眺めつつ、両手に魔力を集束させる。
しかし、それが放出される事はなかった。
突如として天幕の町の奥から、松明の群れを連れた一頭の馬が闇を切り払う様に現れる。松明が照らすのは薄紅色の帽子だ。
そして先頭に立つ馬の背に乗るは、氷柱を思わせる冷たく鋭い瞳の女性である。
「紅冠隊、突撃。不埒者共を撃滅せよ」
そう静かにエルガは配下の狂戦士達へ、地獄を作る命令を下した。
歓喜と興奮が入り混じった蛮声が沸き起こり、薄紅帽子を被るゴブリンらが手斧を振り上げて駆けだす。その中には他の者より帽子の色がやや濃い者が幾人かいた。
紅冠隊がまだ赤帽子であった頃、あらゆる生物の力の源泉は血にあると彼らは信仰しており、その血の力を取り込むべく帽子に討ち取った敵の血を染み込ませる慣習が存在していた。
しかし、エルガによって赤帽子が滅ぼされ、その文化も血染めの帽子と共に焼き捨てられる。
その後、エルガ親衛隊として紅冠隊が創設されると、元赤帽子の戦士達は、血に塗れた民俗宗教からオルソド教へ改宗した上で紅冠隊へ入隊。
血染めの帽子に代わって紅花で染めた帽子が支給された。また、赤帽子の血生臭い習俗も、戦功に応じて帽子の色を濃くするという独自の報奨制度へ取って代わる事となる。
そしてこの制度によって、先のホラケルトの戦いで土塁を一番乗りで超えた戦士を始め、特に功有りと認定された者達の帽子は、桃色に近い色からより鮮やかな紅色に近付いていた。
色濃くなった帽子を被る者もそうでない者も、ここで戦果を上げてどんどん帽子の色を濃くしてやろうと、目をぎらぎらさせて敵勢へ踊り込む。
木製の盾が砕かれる音や剣がへし折られる音に、肉と骨を断たれる音を混ぜた戦場音楽が盛大に奏でられ始めた。
二百弱に過ぎない小勢である事を一切感じさせずに、しかも数に勝る敵勢相手に分散までしておきながら、一方的に暴れ回る紅冠隊の姿に、アミネが一つ息を吐く。
「はえ~。……あれ? エルガ様が前線に出たという事は……あー、イルム様は本営へと蹴っ飛ばされましたか。後でこってり絞られるやつだ。ご愁傷様です」
本営の方向へ小さく礼をしてから、彼女は周囲の敵兵を見渡した。明らかに紅冠隊の登場で動揺している。
更に野営地の外側で灯りの大群が二つ左右から接近しているのが遠目に見えた。
アミネが自身の瞳に強化魔法を掛けて視力を底上げすると、右の群れには青い旗に城の紋章が縫い込まれた旗が、左には狼の横顔を描いた旗が視界に映る。
それはロムジア氏族主体の青旗軍とサディンの軍勢が、緑旗軍の野営地を迂回する形で敵の背後へと回ろうとする姿だった。
その時、耳障りな角笛の音色が響き渡る。
角笛を合図に敵は引き潮の如く一斉に引き揚げ始めた。アミネを囲んでいた歩兵隊も盾と槍を向けつつ後ろ歩きで下がっていく。
撤退に移った敵勢に対し、未だ混乱が残る南軍側は十分に追撃の態勢を取る事は出来なかった。唯一即座に追撃に移れる戦力は紅冠隊のみ。敵の撤退によりエレクレが緑旗軍全体の統制に着手したが、混乱を収めて軍を立て直すのに多少の時が必要だった。
最早、後の事は全て青旗軍七百とサディン勢八百に託す他なかったのである。




