百六話 一矢
突然の敵襲に南軍は慌てふためいた。
攻勢に出て以降の南軍は勝ち続き。現れる敵も多くは小勢ばかりであったし、何しろザリャン氏族はナリカラ軍だけでなく、南から攻め上る新たな大敵キーイ大公国に苦戦している。
その為、自分達が急襲を受けるとはまるで思わなかった。
加えて大軍故の安心感が慢心に繋がり、弛緩した空気が軍全体に漂っていたのだ。結果、まんまと夜襲を受けて、誰もが泡を喰ってしまったのである。
馬上の人となったイルムは、緩い角度の斜面を見下ろし、蛍火の様に動き回る無数の灯りを苦々しく見ていた。
エレクレ率いる緑旗軍の陣に敵が突っ込んで来ている様だが、やはり奇襲をまともに食らったとあって、緑旗軍は大いに混乱しているらしい。戦上手で知られるエレクレといえども、寝込みを襲われては流石に敵わない様だ。
敵味方共に夜目が効くゴブリンではあるが、不意を突かれた事による混乱で、南軍はかなりの不利に陥っている。当の緑旗軍どころか、他の部隊も襲撃に激しく動揺しており、戦闘態勢への移行にも手間取る体たらくだった。
「まだ兵が揃わないの?」
イルムの鋭い形にさせた瞳と僅かに下がった口端から苛立ちが滲む。
「も、申し訳ありません。未だ混乱が収まらず、どこも鎧どころか武器も持たずに右往左往している者ばかりでして……」
よろしくない状況を報告する部隊長格のゴブリンだが、彼の姿も鎧下一枚に槍のみという格好で、軍の混乱振りが見て取れる。舌打ちを堪えたイルムが、無理矢理気持ちを変えた。
「ティラムズとギオルギを、攻勢開始時点で後詰めとして本隊から切り離しておいて正解だったかな。じゃなかったら、ティラズムの安危を前に冷静を欠いたエグリシ氏族ゴブリンの混乱がもっと酷くなっていたかも。それより今の方がマシだ」
そう自分に言い聞かせるイルムは、アミネへ顔を向けた。
「単騎駆け、いけるよね?」
「えー」
アミネは当然の様に渋る。
「兵を集めるのにまだ時間が掛かる。今動ける戦力はアミネぐらいなんだよ。紅冠隊は本陣の守備としたいし、アミネなら単騎で戦えるでしょ?」
彼女はあからさまに、面倒だという顔をして背中を丸めた。それにイルムが右手を突き出し、指を三本立てる。
「臨時褒賞、給金の三割増し」
途端にアミネの顔付きが精悍なものに変わった。
「もう一声」
「ぐ……」
イルムは三本の指を四本に増やす。
その瞬間、屍食鬼の女従者が肩を回しながら歩き出した。人差し指と親指を丸めるとその指先を口で咥え、指笛を吹き鳴らす。
一ツ目の年老いた馬がどこからか駆け寄り、アミネの前で止まると鼻息を盛大に噴いた。
彼女は軽やかに一ツ目馬に飛び乗る。
「ではエレクレ殿の援護に行ってきますー」
いつもの気怠げな表情で振り返ってそう言うなり、手綱をぱしりと鳴らしてその場を駆け去っていった。
「やれやれ……俗物女屍食鬼め」
少々疲れた面持ちでイルムが後頭部を掻く。
攻撃を受けている緑旗軍の陣へ、本営から送り出せた戦力はアミネを除き、未だ皆無であった。
金属音や何かを殴る様な鈍い音が、そこら中で響いている。緑旗軍の野営陣地は完全に戦場と化していた。
ズボンだけの半裸で斧を振るうゴブリンの胸に槍が突き刺さり、膝から崩れたゴブリンはそれきり動かなくなる。鎖帷子の上に暗い色の布を纏ったゴブリンが、兜以外の防具を装備していない兵の喉を切り裂いた。
土色や灰などの目立たぬ布で身を包む事により、月明かりで鎧が反射光を出さない様にした兵士達が、恐慌に近い状態のゴブリンらを次々と襲う。
一部では鎖帷子に半球型兜の完全武装のゴブリン達が頑強に抵抗していたが、多くは満足な武装も無く咄嗟の軽武装で、しかも孤立している者達も少なくない。
エレクレ率いる緑旗軍は、南軍の中でもロムジア氏族の青旗軍に次いで兵の質が良い部隊だったが、今はその面影も見られない程の乱れっぷりである。
その惨状の中へ、一騎の騎馬が飛び込んだ。
紫電と氷の穂先が宙を駆けて、布を羽織る敵兵に突き刺さる。ばりっと紫の電光が一瞬現れ、消えると同時に真っ黒焦げの焼死体が出来、他方では氷の槍が幾人かの身体を地面に縫い止めた。
「ナリカラ総督副官のアミネ、参上ー」
「おお! 副官殿だ!」
やる気が一切なさそうな名乗りに、緑旗軍のゴブリンが歓声を上げる。
アミネの参戦で士気を持ち直した緑旗軍は、大半が鎧無しの締まらない格好ながら、徐々に軍勢としての体裁を立て直した。槍先を揃えて壁を作り、その側面を剣や斧を持つ戦士が支援する。
「流石は戦巧者のエレクレ殿の兵。一度立て直せただけでもう軍隊として再機能してますよ」
ほんの少し感心を表したアミネは、視線を緑旗軍の兵士達から敵兵へ移す。剣を振り被って来た敵を紫の稲妻で魂ごと焼き焦がし、弓矢を構える狙撃手には、先手で氷柱の矢を撃ち込んだ。
まるで砲台の様に馬上から淡々とした様子で敵を屠る彼女だが、ただ倒すだけでなく敵勢の観察もしっかり行っている。
「うーん。数は八百……いや一千ってところですかねー。よくもまぁ、それほどの数が隠れて接近出来たもんです、ねっと」
群がる敵兵を炎で薙ぎ払うアミネが、ふと顔を上げた。規則的な地響きを僅かだがしっかり感じる。
「あっちゃー。トロールまで来ますか」
大きな鷲鼻が目立つ毛むくじゃらの巨人が、布の小屋を蹴散らしながら丸太そのものの大棍棒を担いで現れた。十体程度と数は多くないが、乱戦状態の今ではこの上なく危険な相手である。緑旗軍も持ち直した士気が揺らいだ。
「ト、トロールだぞ」
「怯むなぁ! おい、弩砲を要請して来い。投槍兵も集めろ! 急げ……あ」
怯える兵を叱咤していた部隊長の視界から、明度が著しく下がる。目を上に向ければ、丸太が降って来ていた。ほんの一瞬で地面に赤い染みと肉塊だけを残して、部隊長のゴブリンがこの世から消える。
哀れなゴブリンを一人叩き潰したトロールは、再び棍棒を持ち上げた。
「……」
無言のアミネが両手に紫電を迸らせたその時、鬨の声が背後から沸き起こる。やる気の無さ以外伝わってこないアミネの無表情が、にやりと歪んだ。
「ナリカラ総督閣下御到着! 者共、奮起せよ!」
松明を掲げるゴブリンの怒鳴り声が響き、これに喊声が返った。一ツ目馬に跨るイルムが、鎖帷子姿のゴブリン達を引き連れて姿を見せる。
「掛かれ!」
イルムを先頭に救援の兵が突撃を開始した。
槍を携えた歩兵の数歩先を行く、小さな盾を左腕に付けたゴブリンらが、小振りの手槍を逆手で肩の上に持ち上げる。
「投槍、放て」
剣を振り抜いた指揮官の命令を合図にして、投槍が一斉にトロール目掛けて投げられた。怯んだトロールが咄嗟に腕で顔を庇う。
硬質の長毛に阻まれ、投槍は巨人の体躯を浅く刺さした程度に止まるも、トロールの動きが止まったところを、ゴブリンの戦士達が距離を詰めて斬り込んだ。
巨大な太鼓腹に斧が入り、極太の首に剣が突き立てられる。濁った野太い叫び声と共に、剛毛の山が崩れ伏した。
「よぉし、弩砲無しでもトロールを討てる。投槍兵は続けて敵歩兵を掃討せよ。構えて、放て!」
イルムの弾んだ色合いの号令を受けて、投槍兵が背負っていた何本もの投槍から一本取り出し、思い切り投げ飛ばす。緩やかな弧を描いた小さな槍は、敵兵の身体に深々と突き刺さり、一度の攻撃で敵の最前衛を半壊させてしまった。
「このまま突っ込め! 緑旗軍が完全に立て直す時間と、青旗軍及びサディン勢による包囲までの時間を稼ぐんだ!」
野営地に深く侵入していた敵先鋒を崩した今、更に痛撃を与えて一度敵味方共に仕切り直す形に持っていこうと、イルムは剣を振り翳して突撃の先頭に立つ。
夜天を引き裂かんばかりの雄叫びが噴出し、ゴブリンの少軍勢が各々の武器の鋒を前方に向けて突貫を開始した。
敵中に飛び込んだイルムは、怯えが見える腰が引けた小柄な敵兵の首を、馬上からの一太刀で刈り取り、剣を脂混じりの血で濡らしたまま次の獲物を探す。
騎乗では隙になりがちな左脇腹を警戒する意味もあって、身体を正面にして左側へ視点を向けた時、前の方から一つの叫びが聞こえた。
「魔王の息子の死に場所を開けろ!」
その言葉の意味を脳が思考し始める前に、彼の身体を小さくない衝撃が襲う。
イルムの左肩に矢が立っていた。
ぐらりと彼が背中から倒れ掛かる。その身を重力にがっしり掴まれ、イルムは跨る愛馬から地面に引き摺り下ろされた。




