ニーチェ哲学の私的解釈 神は死んだ。我らは超人が生まれることを願う
ニーチェの哲学の中核とされている、「超人」と「永劫回帰」の思想について、こういうことを言っているのであろう、と解釈した文章です。
04.5.30記
ニーチェといえば、「ツァラトゥストラかく語りき」で語られる超人と永劫回帰がその中心思想となろう。
その超人思想は、ファシズムを生む土壌となりナチスに利用されたという側面もあるようだが、ニーチェの唱える「超人」は「神」に対立するものとしての「超人」である。
ニーチェはキリスト教を嫌悪した。
此岸(此の世)ではなく、彼岸(あの世)に理想を求める。
此の世は不完全な汚濁にみちた世界だが、神の国は理想の世界である。
神の国におもいをはせ、あこがれる事によって、汚濁に満ちた此の世に耐えていこう。このキリスト教の教義を、ニーチェは弱者の哲学とした。
ニーチェは言う。「神は死んだ」と。
理想の神の世界に思いをはせる。それは死の哲学である。
此の世が、この大地こそが全てなのだ。大地に大いなる意味を見出す。それは生の哲学である。
そして死した神に変わって、「超人」こそ、人間が目指すべき理想である。
超常的な存在を思惟するのではなく、この人間を、人間自身をより高く、より強いものとしていく。その過程、戦いこそが人間のなさねばならないことである。
しかし、存在するものは此の世だけ、とすることは、ニヒリズムの陥穽におちいることにもつながっていく。
このニヒリズム、虚無主義を超克するものとしてニーチェが用意したものが永劫回帰の思想である。
ニーチェの哲学においては、既に神の世界はない。この世界が全てである。
神の永遠につながるものはなく、この時間と空間によって構成された宇宙が全てである。
宇宙に永遠はない。しかし、この宇宙を構成する物質は増えもしなければ減りもしない。
その物質の濃淡の変化、バリエーションによって、宇宙の中の万物は生々流転する。
が、その生々流転する万物が、宇宙を構成する物質の変化に過ぎないのならば、今、その人が生きている今は、永遠にも等しい永劫の時の流れのあとに全く同じ、今が再現する。
今、この宇宙で起こっていることは、再び起こる。永劫の流れの中で、万物は回帰するのだ。