RONDE of RONDE
【Prologue】
日々は廻る。
今日も明日も明後日も。過去だってそう。
大昔から日々は巡り巡って廻り続けている。
命やら魂やらといったものも、その中で廻っているという話はよく聞くが、それは正しくないと考えている。いや、それが正しいと認めたくないと言った方が私にとって正しいのかも知れない。
そもそも『正しさ』とは何か?
誰しも一度はどんな形であれ、それを考えるだろう。
私は今日も明日も明後日も、そして過去でも、それを追い続ける。
◇ ◇ ◇
ゾワリ、と鳥肌が立つ。
そろそろ昼間でも寒くなる時期だ。
頭に被ったトレードマークに触れる。和紙で作られた、少し頼りないそれは、今も十分に役割を果たしていた。
上を見上げれば、満天の星空に浮かぶ幻想的な紫色の月がこちらを見下ろしている。逆に下を向く。
人々が行き交っていたのであろう街は、面影を残しつつも、異様な程の自然に侵食されていた。
窓ガラスは跡形もなく砕け、残っていても小さな破片になっているだけ。綺麗に舗装されていた道からは青々とした草木が鬱蒼と生い茂っており、まるで小さな樹海のようだった。
私は周囲を警戒しつつ、隣の建物へ飛び移る。
およそ人間のものと思えないような脚力での跳躍には、もう大分慣れた。
宵闇を吹き抜けるやや冷たさを帯びた風を頬に感じながら次々と建物を飛び渡る。
すると、遥か前方、朽ち果てているはずの信号機が不気味に点滅している交差点に、赤い炎が揺らめくのが一瞬だけ見えた。
すかさず左の袖を捲り、手首に付けられた腕輪を起動する。
取り付けられている赤紫とエメラルドグリーンの色の結晶のうち、エメラルドグリーンの結晶が仄かな光を灯した。
「……標的発見。東のエリアに潜伏してる。数は不明」
『こちらガーゴイル、標的発見了解。……相変わらずお前は早いな。専用のレーダーとか持ってるのか?』
直接鼓膜を刺激するように、はっきりと声が聞こえた。何度も聞いたその問いに、「その質問、聞き飽きた」と簡潔に返す。
私の目は、そこら辺の人とは比べ物にならないほどにいい。真っ暗闇でもよく見えるし、遠くのものもよく見える。
会話の相手、ガーゴイルは『そうかい』と溜め息混じりに言って、話を続けた。
『ファラッドとラファエルには俺から伝えておくよ。お前は………先に行くか?』
「最初からそのつもり。」
『……ああ、そう。』
通話───という表現が正しいかは分からないが───を切って再び移動を開始する。さっき見掛けたモノを探索すると同時に、私は『場所』を探す。すると、案の定あまり遠くへ行ってはいなかったソレを捕捉した。
「……見付けた」
やや開けた場所で、闇夜を照らす赤い炎を纏った一匹の犬と対峙する。
いや、獣と呼んだ方が相応しいかもしれない。生前は主を見上げていたであろうその瞳も、今や理性を残してはいない。敵意も、恐れも、何も語ることのないそれは、ただ目の前にある物を認識するだけの濁ったビー玉のようだった。
だが、身体は明確な敵対意識を見せる。
よく見れば、中途半端な箇所から炎が噴き出していて、どうやらそれは、身体の欠損を補うためのものらしい。右耳、両足、脇腹、首筋、左目、左前足、尻尾の先。現実のものなら見るに耐えない状態だろう。
「………………。」
牙を剥き出しにした口からは、唸り声は聞こえない。ただ、引き攣った口元だけが、こちらに対して害のあるものだということを物語っていた。
「……ごめんね」
意味もなく、そう言葉を吐く。
本当に、意味などない。目の前の獣は敵で、魂など持たないただの残留思念の器のようなものだろうに。
だから戦う。そのために、私は心を『獣』にした。
弱肉強食を受け入れ、同時に忌み、楽しみ、そして見下す。
燃え盛る怪異と化したそれは、四肢を極限まで使って跳躍する。
一瞬のことだ。今まで七、八メートルは離れた場所にいたはずが、僅か一秒にも満たないほどのスピードで眼前へ迫る。
私は身を横に逸らして牙を逃れるが、怪異の獣が纏う炎が少しばかり髪の毛の先を焦がしたようだった。
どうやら炎は実体を持つものらしい。迂闊に接近しようものなら肌を黒焦げにされるだろう。
「飛び道具」
そう短く言って命令を飛ばした。
左手の腕輪が赤紫色の光の粒子を放ち、やがてある程度の形を持つ。私がそれに手を掛けると同時に、怪異の獣は再び私の喉笛を目掛けて迫った。
だが、勝負は初めから私の勝ちだ。
まだ粒子が消え切っていないそれを、私は構うことなく引き抜く。すると、赤紫色の粒子はまるで羽虫が散るかの如く霧散し、その中から出てきたのは、まるで粒子から色が写ったかのような赤紫色をした銃。
細かい装飾などはなく、ただ弾丸を放つことのみを純粋に求めたようなデザインだ。
それを、身を低くして躱した怪異の獣の脇腹目掛けて叩き込む。無論、炎がない箇所を狙って。
持ち手の底が容赦なく食い込み、怪異の獣はバランスを崩して吹き飛んだ。そのまま勢いに乗って地面を舐める。二、三回バウンドした後に体勢を整えるが、私はその隙を逃さず急接近した。スピードは怪異の獣の比ではない。本当に、一瞬にして接近し、その脇を通り過ぎる。が、攻撃はしなかった。
それでいい。
前方に現れたもう一匹の怪異の獣に向かって銃を撃つ。赤紫色の粒子の火花が散ると同時に、同じく赤紫色の弾丸が怪異の獣目掛けて弾け飛ぶ。
そして一瞬にして、怪異の獣の首から上は綺麗に吹き飛んだ。
「ふっ」
すかさず後ろを振り返るのと合わせて蹴りを繰り出す。それはすぐそこまで迫っていた、最初の怪異の獣へと見事に直撃した。多少足元が熱くなるものの、この程度なら問題はない。
怪異の獣が吹き飛んでいくその様は、蹴りの強力さを表していた。だが、それで死ぬわけがない。だから、私はトリガーを躊躇なく引き絞った。
銃声。
「…………。」
そして、静寂。
近くに何者の存在も感じさせないそれは、しかし、素直に気を抜いたりなどできはしない。
今の二体の行動を見る限り、それなりの知能はあるらしかった。
一匹を囮にして、もう一匹が不意打ちを仕掛ける。
単純ではあるが、怪異の身体能力があっては油断できない。
通信をガーゴイルに繋ぐ。
「……私。」
『ああ、丁度良かった。南のエリアにも怪異が潜伏してたってさ。まぁ処理し終わったらしい。そっちはどうなった?』
「………殺した。」
ですよねー。と、さして驚くわけでもなく言うガーゴイルに、私は南のエリアの怪異を処理したのは誰かを問う。
『……ああ、狂犬だよ』
その一言に、私は顔を顰める。
アレが?どうして?
しかし答えは誰も示してくれない。とにかく戦いは終わった。あとは『場所』を見付けるだけで────と、その時
「あっ」
世界が色を失う。
そして、ガラスのように砕けて散った。現れたのは、明るい暗闇だった。
そして次に訪れた浮遊感。反射的に身を小さく縮こませる。
周りを見れば、四人、私と同じように浮いていて、それぞれが左手首に私のと同じような腕輪をしている。
黒いマントのようなものを纏った焦げ茶色の髪の青年、ゴシックロリータを着た金髪の少女、白いヘッドホンを首に掛けたチェック柄のパーカーの少年、皆に背を向けている、長い髪を後ろで束ねた長身の青年、そして、狐の面を模した被り物をした、私。
皆、それぞれいた場所から……というより、場所が消失して、ここへ集った。
「あら?もう終わりですの?呆気なかったですわね」
そう言って退屈そうに欠伸をするゴシックロリータの金髪少女はラファエルだ。次いで、伸びをしてから寛ぎ始めるチェック柄のパーカーの少年はファラッド。
黒いマントの青年がガーゴイル。
長身の髪の長い青年は、狂犬──もとい、狗亡去。
「よう。お疲れ様」
ガーゴイルがふよふよと重力のない空間を移動してくる。私は「別に」と答えて目を瞑った。
「狂犬の野郎、何で今更出張ってきたんだろうな?……っておーい、どこ行くんだクシナ」
「……眠いの。すごく」
腹の上で手を組み、まるで死人のように闇の底へ沈んでいく。途端、目を瞑って暗闇と化したはずの視界に不愉快な砂嵐が映った。
◇ ◇ ◇
光が見えた。
目が眩んで、立ち竦んでいたその一瞬、体の中が抉り取られたみたいになった。上も下も分からない。
体が、熱い。
……違う。痛いんだ。
そう気付いた時にはもう、声なんて出せなかった。ぼくの隣には、首輪が千切れたその子がいた。
足が、気持ち悪いくらい曲がってて、赤い血がたくさん流れてた。ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、って、短く呼吸してたけど、それもすぐに小さくなっていく。
ぼくも、きっと同じなんだろうなって考えた。
…………やだよ
助けて、パパ、ママ……。
……ああ、でも、この子も一緒なんだ。
なら、大丈夫。この子は強いから、ぼくを守ってくれる。
お腹が、痛い。
口の中が酸っぱくて、鉄の味がする。
ぼくは、死んじゃうのかな………。
………一緒にいてくれるよね、クロ。
………………夜にお散歩なんて、行かなきゃ良かったね。
◇ ◇ ◇
ゆっさ、ゆっさと、体が揺れる。
重い瞼を開けば、そこには金髪碧眼のゴシックロリータがいた。
「……………。」
「そう、真顔で人の顔をじぃーっと見つめるの、やめてくださる?」
「…………。」
「だからって二度寝することないでしょう!?」
ラファエルの文句が寝起きの頭に響く。
うんと背伸びをして、彼女の腕の中を脱した。どうやらそう長い時間は寝ていないらしい。とは言え、既に拠点に近いらしかった。
「おっ、起きたか眠り姫」
「……ガーゴイル、お腹空いた」
「第一声がそれかい………。俺、今日は料理当番じゃないんですが」
「ガーゴイルしかまともな料理作れないでしょう」
私がそう言うと、ラファエルが胸を張って「私だって出来ますわよ!」と言う。
「砂糖と塩を間違えるくせに………ぎゃんっ!?脇腹はっ!!ふぎっ!」
じゃれ始めたラファエルとファラッドをよそに、私は周りを見渡す。私が寝る直前までいたはずの狗亡去の姿を探して。
先程の街ほどではないものの、廃れ果てた街が広がっていた。太陽が眩しく輝く中、彼は私達よりも先を独りで歩いており、その背中はどこか旅人めいた何かを感じずにはいられない。
「クシナ?あ、おーい」
「先に行くわ。」
狗亡去は私が近付くのに気付いて一瞬だけこちらに視線を向けたものの、再び前へと向き直った。
隣に並んで歩く。
「引きこもりにも飽きたの?」
「さて、な。」
「………珍しいわね。狂犬が私達と同じ場所にいるなんて」
狗亡去は口元を歪める。
何が可笑しいのか、笑っているようだった。別に、何を笑っているのかなんて気にはならない。
「……お前は他の奴らとは違って、俺に面と向かって狂犬と呼ぶ。余程肝が据わっているのか、それとも俺に興味がないのか……。」
「前者」
「違うな。」
狗亡去は私を見下ろす。
私の頭二つ分は背丈が違うため、必然と私は見上げる形になった。だが、目は合わせない。他の皆ともそうしているのだが、彼の場合は純粋に目を合わせたくない。理由ははっきりしないが、狗亡去の目は出来る限り見たくなかった。
「……俺の、行動に興味があるんだろう?俺自身に興味は無いようだが。全く器用な奴だ」
「……お互い様。あなただって相当器用よ」
「ふふっ」
どこか楽しげにする狗亡去だが、目は笑ってはいなかった。
私も笑いはしない。笑う要素が何一つないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
「ロンドの空気が変わった」
「……?」
突然そんなことを言い出す。
ロンドとは、先程の空間のことだ。今いるのもロンドだけれど、質がまるきり違う。
だが、ロンドというこの世界は普通ではない。言うなれば死者の彷徨う世界………
否、現世で死んで、魂を失った『器のひとつ』が辿り着く墓場と言った方が正しいだろうか。
死んだ者は魂があの世へ行く。
生身はそのまま現世に残る。
だが、それで終わりではない。肉体という『器』とは別に、もう一つ『器』が存在するらしい。
魂そのものを包み込む『器』。
それは心や感情といったもののことで。
言わばそれらの残留思念なるものがロンドへと流れ着く。しかし、全てが全てそうなるというわけでもないようで、ロンドというのはなかなかに不可思議である。
なぜ私達がここにいるのかは、分からない。
皆、総じて記憶が曖昧なのだ。ただ分かることは、ここで自分達が為すべきことと、その方法、そして、自身が現世で既に死を迎えているということのみ。
「引きこもりには引きこもりなりに感じられることがあるんだよ。最近、ロンドの空気が変わってる。今日出てきて確信した」
「………だから?」
「さて、な」
大事なところは、はぐらかす。
元より興味がないから別にどうということでもないが。私は地面を蹴って軽やかに跳躍する。錆びてボロボロになった街灯を踏み渡り、先に拠点へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇
珍しくラファエルが味噌汁を作ると言い出した。
私はどうでも良かったけど、ガーゴイルとファラッドが揃って「無理だ」とラファエルを説得していた。だがそれは、逆効果だったらしい。
廃れた街の一角にそびえ立つ、元は高級マンションか何かだったであろう建物の最上階に拠点はあった。ガスコンロにオレンジ色のホースで繋がれたガスボンベは剥き出しのままで、水は雨水を貯水して使っている。窓のガラスは溶かして無理矢理一枚の板にしており、歪んではいるが、それなりの役割を果たしていた。
蛍光灯も白熱電球もないため、夜はロウソクやらオイルランプやらで明かりを確保したりしている。
これら資材はどういうわけか街の廃墟の中に定期的に配置されており、それを回収して過ごしていた。
「コンビニの跡地のガスボンベが…………何をやってる?」
「味噌汁作り」
探索から帰ってきたらしい狗亡去にそれだけ言って、私はテーブルに頬杖を付いてラファエル達を見守る。やれ味噌はどこだ、やれ納豆を入れるななど、騒がしく調理をする三人。どうやら食事には時間が掛かりそうだった。
「出来ましたわ!」
自信満々に鍋を掲げたラファエルがテーブルまでやって来たのは、それから二十分ほど経ってからだろうか。
ガーゴイルもファラッドも、やれやれと言った風に席に着く。
「それじゃあお披露目だね。ラファエル、開けて開けて」
「いきますわよ?……じゃーん!…………んっ?」
蓋を開けた途端に漂うのは、味噌汁のようなさっぱりした香りではなく、似ても似つかないスパイシーな香りだった。
「…………カレー?」
「な、なぜですの?!」
ガーゴイルもファラッドも、驚いて目を見開く。当のラファエル本人も、目の前の光景が信じられないようで、目をパチクリしていた。だがそのうち、「作り直しですわーーー!!」とキッチンへと逆戻りして行った。
十五分後
「さぁ!今度こそ完成しましたわよ!!正真正銘、味噌汁ですわ!」
そう言って鍋をドーンとテーブルの中央へと置く。相変わらず蓋をしたままなのは、サプライズ形式で上手にできたことを自慢するためだろう。
「じゃー………、………………。」
「……………。」
そして再び現れた茶色いカレー。
今度はそれほど間を置かずにラファエルは再びキッチンへと逆戻りして行った。
十分後
流石にこれではまずいと察したファラッドが、味噌汁を運ぶ係を請け負うことになった。するとどうだろう。
「み、味噌汁ですわ!完璧な味噌汁ですわ!」
今までのことが嘘のように、味噌汁は味噌汁として現れた。これが通常なら別に驚く事でもない。
それに、大して興味のない私にとっては、お腹の虫を黙らせることの方が最も重要な案件だ。
「ほらほらー、こっちのも運んでくれよ」
「はいはい。ほら、ラファエル」
「言われずとも分かっていますわ」
ラファエルは味噌汁が冷めないようにと蓋をする。
ああ、多分犠牲は増えるだろう。
私も料理を運ぶのを手伝う。
少しでも早く食べたいから。そしてみんな運び終わる頃には、狗亡去はどこかへと姿を消していた。相変わらず独りが好みなようで、食事も後で独りで摂ることが多い。
「ではでは、早速味噌汁を……」
「ちょっと待った!」
すかさずファラッドがラファエルを引き止める。そして先に鍋の蓋を開けた。
「味噌汁、だよね」
それにはガーゴイルも胸を撫で下ろす。ラファエルが色々と文句を言いたげな顔をしているが、それを口にしないのは先ほどの事例のおかげかもしれない。
だが、そのままにしておけば良いものを、ファラッドは律儀にも蓋を鍋に戻してしまった。法則性を考えるとそれは悪手と言わざるを得ないが、私は見て見ぬふりをする。別に味噌汁でもカレーでも、どちらでもいい。
「狂犬は……相変わらずいないか。まぁ、先に食うか」
「では!わたくしの味噌汁のお披露目ですわね!」
「今したじゃん……。」
小さい声で言うファラッドを無視して、ラファエルは自信満々に蓋へと手を掛ける。
そして────
三度顔を出したその茶色いスパイシーな香りの液体に、ラファエルだけでなくガーゴイルもファラッドも、共に嘆いたのは言うまでもない。
【Chapter1】
狗亡去が言っていたことは正しかった。
日を追うごとに実感する。
ロンドは着実に変わりつつあるのだ。だが不思議と、どこかで感じたことのあるように思う。季節の移ろいか、あるいは天気の変化のように身近なものだったように感じるのは、私もこの世界に取り込まれてそれなりに日が経ったからかもしれない。現にここへ来てから、もう一年は経つ。現世の記憶はあまり残っていない。白みがかっていたり、所々が欠落していたりというのがほとんどだ。
「他人への興味が有るか無いかは人それぞれなのに、自分には確実に興味がある。それが万人共通なのは納得いかないな」
「………。」
「だが、お前を見てると納得できる。全く、理不尽なものだよ」
いつか見た世界のような暗闇。
その時に見た、一人の少年を守るために怪異の獣と化した、一匹の優しい犬。その姿が一つだけでなかったのはきっと、その犬の遺した意志の表れだったのだろう。
「俺は、自分にも他人にも興味がある。……お前に対してがいい例だ」
「……そう」
このところ、狗亡去はよくロンドの戦いに赴くようになった。まぁ、私の近くに来る以外、ガーゴイルにもラファエルにもファラッドにも話し掛けたりしない。戦い以外なら、多少の嫌味の応酬をファラッドとしているが。
彼の変化はロンドの変化と何か関係があるのかもしれない。
「お前は、自分にしか興味が無い人間の鏡だな。……そんなんだから前も、ああなったんだ」
「前も……?」
どういう意味か、尋ねようと後ろを振り向く。だが、そこには誰もいなかった。
肝心なところではぐらかす。
彼は、私の興味が私以外に向くようにわざとそうしているのではないかと、そう思う。
そして私は、そう思い至った時点で伸ばしかけた興味を単に無に還す。そうすることが、私という個人の意思の中で決定事項となっていた。
「私は……」
───何故死んだのか。
声には出さず、ただ心の中で繰り返す。
何故?どうして?どうやって?何があった?何をした?何をされた?どんな形で?
止めどなく溢れる自分の死に対する疑問が、常に私の意識を奪う。唯一解放されるのは、戦っている時だけ。
その舞台たるロンドは今、変わりつつある。
相も変わらず暗いのはよくあることだが、今回は夜だからではない。
空を見上げる。
かなり分厚い雲の層が、光を遮断しているのだ。
今立っている建物の下を見てみれば、ラファエルがただポツンと丁字路の真ん中に佇んでいた。私の目で見ればはっきりと見えるのだが、実際だとかなり視界が悪いだろう。
ラファエルの周りに、雷が丸くなったような光の球が複数、バチバチしながら漂っているのが見えた。
ラファエルは雷を扱う。
冗談ではなく、本当に。
魔法………かどうかは、私は知らない。興味もない。
……と、ラファエルの前方から四つの黒いモノが接近してくるのが見えた。距離にして約三百メートルほど。向かい側、斜め右にある低い建物の屋上に陣取るガーゴイルも、そしてその左にあるビルの二階部分の窓から様子を窺っているファラッドも、四体の接近にはまだ気付いている様子はなかった。
腕輪の通信回線を全体に繋ぐようイメージする。
「ラファエルの正面、今は約二百メートル先に四つ」
『来ましたわね』
『しくじらないでよ、ラファエル』
『おいおいファラッド、下手なこと言うと吹き飛ばされるぞ?』
『そん時はアンタも一緒だよ、ガーゴイル』
緊張感もないような会話がされる中、ラファエルが動く。
雷の球体がラファエルの前で収束され、サッカーボール程の大きさにまで膨らんだ。
『総員、対ショック、対閃光防御、ってね!』
ファラッドが楽しそうにそんなことを言う。
私は私の頭の上にある狐のお面を模した被り物で目の前を覆う。帽子のようなものだから、穴などはない。
『蹂躙なさい、雷の刃よ。脱落者の愁いを晴らしなさい。』
ラファエルの声が響く。
声色はどこか、怒りにも似た何かが感じられた。
『完全破壊の閃光!消し炭にして差し上げましてよ……。ふふっ、あっははははははははは!!』
狂気的なその笑い声はやがて、凄まじい轟音と爆風によって掻き消される。四体の黒い怪異がなす術なく灰燼と化す姿は、想像に難くない。現にそうなっているだろう。
大気を揺らすその振動は、目の前で大規模な落雷でも起きているのではないかと思ってしまうほどで、実際、ラファエルはそれと同じ事をした。精度と威力は桁違いではあるが。
光が止んだのを察して、目を開く。
相変わらずの暗闇がそのにあったが、先程とは違い、目の前にあったはずの一本道がすべて瓦礫の山へと姿を変えていた。破壊の跡の根元にはラファエルが佇んでいて、晴れやかそうに背伸びなんかをしている。
『はぁ、スッキリしましたわ。これで怪異の始末は完了ですわね』
満足そうに言って瓦礫の山に背を向けるラファエルだが、しかし、その直後に一匹の獣が彼女の右隣へと肉迫した。
『───えっ』
──避けられない。
誰もが一瞬そう考える。
だが、私は違った。
二メートルはあろうかという怪異の獣。しかしその牙は、ラファエルの喉笛を捉えることなく空を切る。どういうことかと言えば、単にラファエルが怪異の獣の進行射線から逸れたわけで。
世界がスローで再生される。
それも私の目のおかげ。
そのスローな世界の中、狗亡去がラファエルの背中を押したのがはっきりと見えた。次に行われることはもう分かりきっている。
「……。」
スローな世界が途切れる。
それと同時に、怪異の獣は一瞬にして腹から真っ二つになった。
◇ ◇ ◇
怪異が彷徨うロンドには、ランダムな期間で現れる空間の歪みの中に飛び込むと行くことができる。
場所も時間もその時によって違う。
ただ、怪異を殺して、その怪異が生まれる原因となった場所………つまり怪異になる以前の、生前の人間や動物が死を迎えたその場所を探し出すということだけは、どこの世界も一緒だった。
「ここか」
「さて、今回はどんなもんかな」
場所は大体、腕輪が方向を示してくれる。
通信中と同じ、緑色の結晶が光の奇跡を見せて導いてくれる。
そこは、森の中だった。
と、一瞬にして周りの景色がガラスのように砕け散る。無重力が体を包み込み、上と下の区別が消え去った。
目を閉じる。
そして暗闇に浮かび上がった不愉快な砂嵐の中に、私達の意識は吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇
お腹がすいた。
腹の底が千切れそうなほどの空腹感。
最初に感じたのはそれだった。
何かがいつもと違った。
まるで、自分が当事者であるかのようだ。
……お腹がすいた。
他の兄弟達も、きっと同じだろう。
お腹がすいた。
おなかがすいた。
オナカガスイタ。
お母さんはどこ?
お父さんは?どこ?どこに行ったの?
これはまずい。
本能がそう伝える。
そう。マズイ。
あまりの空腹に、思わず口にした草や小石を、体が吐き出そうと反応する。
だが何故だか、何も出ない。
……ああ、喉に、詰まったんだ。
苦しい。
でも動けない。動く力なんて、残されていない。
苦しい。
苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいくるしいくるしいくるしいクルシイクルシイクルシイクルシイ
◇ ◇ ◇
「……っ!!」
目を覚ますと同時に、酷く咳き込む。
今のは何?
今までと全く違う。自分とは違う、何者かの苦しみ。それがまるで自分のことのように、生々しく伝わってきた。
「お目覚めかな、眠り姫殿」
狗亡去の顔が目の前にあった。どうやら、壁に背中を預けるような形で寝ていたらしい。
「………。」
「随分と気分が悪そうだな」
「……何が、起こったの?」
私の問に、狗亡去は口元を可笑しそうに歪めるだけ。
それで確信する。この狂犬はなにかを知っている。だがそれを教えてはくれないことも同時に理解した。
「くくっ、俺がお前に……延いてはお前達に言えることは一つだ。足掻いてみせろ」
それだけだ、と言って狗亡去はどこかへと歩いてゆく。
私はそれを追おうとはしなかった。追ってはならない。頭の隅で何故かそう警告する自分がいるのだ。
周りを見渡す。
見れば、そう遠くない場所にガーゴイルもラファエルもファラッドもいた。まだ目を覚ましてはいないものの、苦しそうな様子は一切ない。
「何が……何で……。」
そんな、いつも通りで、いつもとは違う思考の渦に、私は呑まれていくしかなかった。
【CHAPTER2】
あれ以降、狗亡去はどこかへと姿を消した。
ガーゴイルとファラッドはそれほど気にしている様子はないものの、ラファエルは助けてもらったお礼を言えていないということで、かなり気にしているようだった。
私はといえば、そこまで目立つ変化はない。だが、強いて言えばロンドで怪異を殺して場所を見付けた後に発生するビジョンの中で、私は当事者と同じ苦しみを味わうようになったということだ。
それが何を意味するかは私にはまだわからない。が、最近怪異が更に異質になっていることと関係があるのかもしれなかった。
『ダメだ!僕のマップで見ても、二十はいる!』
『もう!きりがないですわ!完全破壊の閃光も、そう何回も使えませんわよ!』
『広範囲に散ってるし、範囲攻撃じゃ燃費悪いしな!狂人ならともかく、獣相手じゃスピードが足りない!』
「私が行くわ。」
赤紫色の銃に、同じく赤紫色のマガジンをセットし終え、真下に広がる廃墟の街並みを鋭く睨む。
すると、枯れた川に架かる橋の上を、狂人と獣が合同の団体で進軍しているのが目に入った。
即座に移動を開始。
屋上から屋上へ、街灯から街灯へ飛び移り、高速で標的の元へ迫る。
ゆっくり対峙などしている暇はない。進軍する怪異達の正面へ降り立つと同時に地面を蹴る。先頭の狂人二体にそれぞれ一発ずつ赤紫色の弾丸を撃ち込み、続いて後ろの獣五匹を狙った。
中央の一匹の頭を銃で思い切り殴る。瞬時のことに僅かな狼狽を見せた四匹のうち、銃を持っている右手側の二匹を先に撃ち殺す。左手側の残り二匹が同時に肉迫してくるものの、スローな世界では無駄の一言でしかない。
彼らの真横に避けて出て、そこから弾丸を一発撃つ。
最初の一匹の頭を貫通した赤紫色の弾丸は、その先にいる二匹目の獣の喉笛を見事に引き裂いた。
残るは最後尾の狂人一体。
前衛二体と変わらぬそいつは、緩慢な動きで私の首をへし折ろうと迫ってくる。スローの世界でもそれなりの速さなのだから、通常ならなかなかのスピードなのだろう。
けれど、それだけだった。
慈悲などあるはずもなく、赤紫色の弾丸が頭に風穴を開ける。
「制圧。ファラッド、ここから近いのは?」
『その橋にもう三体向かってる!』
『やっぱり凄い速さですわね、クシナは……。』
『正直、勝てる気がしないな』
賞賛への返事もそこそこに、私は次の標的を待つ。
と、その時だった。
景色が、ガラスが砕けるように消え去ったのは。
「なっ……!?」
浮遊感を感じるよりも早く、不愉快な砂嵐のビジョンが見えるよりも先に、私の意識は切り取られた。
◇ ◇ ◇
痛み、苦しみ、嘆き、憎しみ、悲しみ。
沢山の感情や感覚が、一度に身を焦がす。もはや悲鳴が声に出ることはない。
私は、俺は、僕は、理解不能な領域に立って、理解不能な苦しみを味わう。
◇ ◇ ◇
「はぐっ……!う、ぁ……!!」
視界が歪む。
痛みと苦しみの余韻のせいで、足から力が抜ける。
「今、のは……」
一瞬にして味わった苦痛。
本来それは、戦いが終わった後で感じるはずのもので。
『クシナ!?どうしましたの!?今の呻き声は………』
「問題……な、い…!」
『嘘つけ!待ってろ、今行く!』
『待ってよガーゴイル!敵が沢山そっちに行ってる!』
『はぁ!?タイミング悪すぎるだろッ!!』
言うことを聞かない、震える足に鞭打って何とか立ち上がる。前を見れば、敵はすぐそこまで迫っていた。
動けずとも、銃ならやれる。
「二丁銃」
言葉に反応して、腕輪の赤紫色の結晶が輝くと同時に、今まで手にしていた銃が赤紫色の粒子へと還った。
そしてその粒子が新たに形成した二つのそれを手荒く引き抜く。
「的に……なりなさい……!」
銃身の長いそれは、パシュンッ、パシュンッと軽快な音を鳴らしながら次々と弾丸を飛ばしてゆく。二発を体に受けてもまだなお立ち上がろうとする狂人に、最後の弾丸を見舞ってやったところで私は異変に気付いた。
「ちっ……」
『クシナが囲まれた!』
『何ですって!?』
その通りだった。既に後方には数十体の怪異達の群れがいた。前を見れば、今倒した三体を踏み越えて更に数十体。
ありえない数だった。
ただでさえ、多かったというのに、この異常な数は一体何なのか。
「………ふん」
ああでも、心底どうでもいい。
銃口を地面へ向けたままトリガーを引く。
炸裂音はしなかった。その代わりに、赤紫色の粒子が銃を覆う。その状態で腕を持ち上げ、それぞれ銃口を今度は左右を挟む敵の大群へと向けた。
そして───
「───消えて」
トリガーを再び引く。
その瞬間、左右の銃から放たれたのは、赤紫色の弾丸───ではなく、赤紫色の粒子そのものだった。とは言えど、その密度は限りなく濃く、まるで漫画やアニメのビーム兵器である。ラファエルの完全破壊の閃光ほど広範囲ではないものの、それと同等、あるいはそれ以上の熱エネルギーを持っていた。直撃をくらった怪異は片っ端から塵も残さず消滅し、そうでなくとも凄まじい熱風で一瞬にして体が炭になる。
その瞬間、その一角だけが、異様な赤紫色に染まったのだった。
◇ ◇ ◇
どれほど経っただろうか。
橋の上で、時折やってくる少数の怪異を遠距離から確実に仕留めつつ、ロンドが終わるのを待つ。ガーゴイル達もまだ健在らしく、ファラッドからの状況報告が頻繁に行われていた。
『その敵で最後!』
『はぁ、はぁ、さっさと……消えなさいッ!』
バツンッ、という雷の走る音を最後に、怪異は全滅したらしかった。
はぁっと息を漏らす。
疲労感が凄まじい。大半はあの突然の苦痛のせいだ。未だに足の感覚があやふやで、立とうとしても千鳥足になる。
「一体……どうなって……」
「───知りたいか?」
「!!」
突然、目の前に現れたのは、狗亡去だった。
見上げてみれば、その顔は見たことのないような狂気に歪んでいる。
「……狂犬」
「はははっ、これはこれはお姫様。なかなか良い顔になったな」
何故だろうか。狗亡去の顔が、声が、言葉が、いちいち神経を逆撫でするようで気持ちが悪い。
気付けば私は、狗亡去に銃口を向けていた。
何かが噛み合い始める。
何かを思い出せそうになる。
「おやおや、そんなことしたら危ないだろう?」
狗亡去が私の銃に触れる。その途端、世界は色を失って、粉々に崩れ去った。
「っ!?」
「そう急かすな。後でたっぷり遊ぼう、紅紫娜」
ゾクリ、と
背中が泡立つ感覚お覚えると同時に、私の意識は闇へと沈んだ。
【Chapter3】
お前はそうやって俺を見下すんだ
誰かがそう叫んでいる。
私は必死に否定しようと言葉を探す。けれど、口をついて出るのはいつも「違う」だけだ。
何が違うって?お前は俺を見下してた。事実だろう!
違う
俺のことを嘲笑って
違う
俺の願いを踏み躙って
違う!
俺の命を軽んじた!
違う!!
違わない!!だからお前は俺を殺した!!
お前がやったんだ!他でもないお前が、俺の命を蹴落とした!一番悪いのはお前だ。最後はお前が全部やったんだ。お前のせいだ!!
違う、違う違う違う違う違う違う違う違うッ!!
「───違うッ!!」
「じゃあ、何が本当なんだ?教えてくれよ!ハハハハハハハハハハッ!」
不愉快極まりない。
この無重力も、砂嵐のビジョンも、この男も。
だから私は殺す。
私は、怪異を殺さねばならない。
◇ ◇ ◇
「さあ、続きをしようか。紅紫娜ぁ!!」
もはやここがどこかなんて分からなかった。
ノイズの走ったビジョンのように、空間があちこち歪んでいて、その歪みにたえられなくなった箇所が砂時計の砂のように上から下、または下から上、右から左、左から右へと崩れていく。
私と、ガーゴイル、ラファエル、ファラッドが対峙するのは狗亡去。だが彼は、とてつもなく巨大な怪異の上に乗っていた。
包帯だらけの巨大なミイラのようなその怪異に、ガーゴイル達三人は狼狽する。
「こ、これってどういうことですの!?」
「何で狗亡去が……」
「それよりあのデカイのは何さ!?」
狗亡去は他の三人に見向きもせず、ただ私を睨んでいる。その口元は、心底楽しそうに微笑んでいた。
「……私がアイツを殺す。三人は大きい方をお願い」
私がそう言うと、皆揃ってギョッとした顔になる。
「よく分かんないけど、あれが怪異だってんなら、やるだけだな。」
「だよね…」
「あの……クシナ、どういうことですの?」
「わからない。でも、狗亡去は敵だから。殺さなきゃ、殺される。だから」
そこまで言ったところで、ラファエルは溜め息を吐く。
「なるほど、つまり……なるようになれ!ですわね!」
そしてそう言って、完全破壊の閃光を準備し始めた。
他の二人も同じく臨戦態勢へと移る。
そんな私達を見ていた狗亡去が、巨大な怪異の上を退く。それを合図に、戦い《カオス》は始まりを告げたのだった。
◇ ◇ ◇
クシナが狗亡去の元へ向かった。
残った僕らは、同じくその場に残された巨大な怪異と対峙するわけで。
『敵の解析、終わりまして!?』
「まだまだ!表面の布みたいなのが邪魔で解析眼が通らない!」
『ラファエル、お前の電撃で燃やせないか!』
『やってみますわ!』
少し離れた場所で、ラファエルの周りに雷の球体が生み出されるのが見えた。もはや暗いか明るいかなどどうでもいい。暗い場所と明るい場所とがごちゃごちゃになっているからだ。
と、巨大な怪異が動く。
『ファラッド!逃げろ!』
「ぎゃあ助けてぇー!」
『やらせませんわよ!完全破壊の閃光!』
振り降ろされる怪異の巨大な腕が、凄まじい轟音と閃光に呑み込まれる。当然、目など開けられるはずもなく、爆風から身を守るだけで精一杯だ。
『やりましたわ!表面だけ……といきませんでしたけど、片腕を消し炭にしてやりましてよ!』
恐る恐る目を開いて見れば、五十メートルはありそうな怪異の左腕の、肘から先が綺麗に無くなっていた。怪異の表面、包帯のような布も、所々焼け焦げている。相変わらずラファエルの雷撃は凄まじい威力を誇っていた。
『いや……喜ぶにはまだ、早いみたいだぞ』
無くなった腕の黒い断面が、まるで泡ようにぶくぶくと膨張し始める。同時に、表面の布が黒いシミに侵食され、爛れる……というよりは溶けたと言う方が正しいだろうか。
スライムのようなドロドロの物体が出来上がる。
『ファ、ファラッド!ガーゴイル!一旦私の元へ集合してくださいまし!特にファラッド!あなたは全く闘えないのですし!』
「う、うるさいなぁ!しっかりサポートしてるじゃん!」
『つべこべ言わないでさっさと……きゃぁぁぁ!?何ですの、あれ!?』
『おいおいおい、冗談キツイって!!』
突然、スライム状になっていた巨大な怪異が、水の入った袋が破けたように一斉に黒い津波となって押し寄せてきた。僕には人並外れた身体能力など存在しない。完全にサポートしかできないのだ。
となれば、流石に今度こそ逃げる術はない。
「クッソ!」
『両手上げろファラッド!!』
ガーゴイルがそう言った。
聞こえた声が、通信のものだけでなかったのは気のせいではないだろう。僕は言われた通りにすぐ両手を上へと伸ばした。伸ばしきったその瞬間、僕の体に衝撃が走ると同時に、足が地面に別れを告げる。
「間に合った!」
「た、助かったよ」
風を切る音が、ゴウゴウとうるさい中、ガーゴイルの声がはっきり聞こえるのは腕輪の通信のおかげだ。
僕は今、ガーゴイルに持ち上げられて空を飛んでいる。黒いマントがまるで鳥の……もっと言えばコウモリの翼のようにバッサバッサと羽ばたいていた。
「ラファエルは……」
「ほら、あそこだ」
ガーゴイルが向けた視線の先を探ると、クシナのように街灯と街灯とを、ケンケンパするように飛び渡っているゴスロリを見つける。
ガーゴイルは体を傾けてラファエルの元へと滑空し始めた。
「よかった、無事でしたのね」
「何とかね」
ラファエルと一緒に、真下に蠢く黒い波を眺めつつ、僕らは三人でどうするかを考える。
「全く、クシナも狂犬も何を知ってるんだか」
「猛烈に嫌な予感がしますわ」
「それよりこの状況、どうするのさ」
「さてな、この黒いやつを何とかするのが先決だろうけ…………どーーーーーッ!?」
廃墟の屋上から、ガーゴイルも下を盗み見ようとしたが、しかし、その顔の直前ギリギリを黒い一本の触手が通過していった。
尻餅をついて驚くガーゴイルに向かって、その触手は振り落とされる。
「ッ!!」
間一髪で横に転がり、それを避けたガーゴイルは、立ち上がるよりも空中へ出ることを選んだ。地面を蹴って後ろへ跳躍すると同時に翼を羽ばたかせて空中へ身を乗り出す。それを追って振りかぶられる触手を難なく回避しつつ、腰に携えた剣を抜き放った。
「つぇあ!!」
瞬く間に触手は三等分に切り落とされる。
その切り落とされた部分が、液状になって落ちていった。
「ガーゴイル、後ろですわ!」
「んな!?」
不意に現れたもう一本の触手。
ガーゴイルは完全に後ろを取られ、そして、まるで羽虫でも叩き落とすかのような触手の一撃をモロにくらった。
「ガーゴイル!」
落ちてくる彼を、僕は何とか受け止める。気を失っているようだったが、まだ生きていた。
万事休す。
そんな絶望的な言葉が頭を掠める。
「ええい、鬱陶しい!全部消し炭にしてやりますわ!!雷よ────」
ラファエルがそこまで言った、その時だった。
巨大な影が、僕らの上を覆う。
「────なっ」
僕とラファエルは言葉を失って、真上を覆うソレを見た。
───巨大な化け物の口。
それがどういうことかを悟る頃には、もう逃げることも、攻撃することも不可能だった。
僕らは、巨大な怪異に喰われた。
◇ ◇ ◇
火花が散る。
私がトリガーを引いた数だけ、その弾丸が弾かれる。戦いは射程の長い私が有利ではあるものの、狗亡去は一向に追い詰められている様子を見せない。
「辛そうだな、紅紫娜。だが、その程度で壊れるなよ」
「お前は……!!」
「はははははっ!苦しいだろうな、得体の知れないその真っ黒な感情に身を焦がされるのは!だが、その程度俺だって味わった」
「ッ!」
構わずにトリガーを引き絞る。
だがどれだけ撃とうとも、狗亡去はそれを手元の黒いナイフ一本で切り落とし、身のこなしで躱す。
「憎いか?だが俺だって憎いさ!お前が!お前が俺をここまで貶めた!!」
「そんなの、知らない!!」
姿勢を低くして狗亡去の懐へと突っ込む。そして至近距離から弾丸を当ててやろうとトリガーを引こうとした。が───
「そんなものが!」
「!?」
スローな世界の中、一瞬だけ狗亡去の動きが私に追いついた。その一瞬のうちに、私は鳩尾に蹴りをくらう。
息が詰まる。
スローな世界が終わり、私は突撃する時とは逆の向きに吹き飛んだ。
なぜ、こうも追い詰められるのか。
「立ちなよ、紅紫娜。まだまだこれからだろうに」
「うぐっ……!」
どうして
「……それとも、やっぱりその程度なのか?」
なんで
「俺を失望させないでくれ、哀れなお姫様」
留まることを知らない殺意が、ふつふつと込み上げてくる。どうしようもない憎悪が、そいつを殺せと訴える。
「私、を……」
私を見る、その哀れむような目が
「私のことを………」
満足そうなその笑みが
「見下すなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
どこまでも、気に入らないッ!!
叫びに呼応して、私の体を赤紫色の粒子が包み込んだ。それに構わず地を蹴り前へと踏み出す。
今までとは比較にならないような、比べるのが馬鹿らしく思えるようなスピードで再度、狗亡去の懐に喰らいつく。スローな世界の中、狗亡去の笑みが僅かに引き攣っていた。
私は、構えた右腕を横に振る。
「ぐッ………ぬあああッ!?」
世界のスピードが通常に戻る頃には、狗亡去の左手首から先は、無くなっていた。
驚愕と苦痛に歪む狗亡去の顔を、私は冷ややかに見る。
「うぅぐぅ……!くっ……くくくっ……あっははははははははは!!」
狂ったように笑い出す狗亡去だが、その目は憎しみを込めて私を見ていた。
「お前って女はいつもそうだ!いつも、いつもいつもいつも!自分に都合が悪くなると理不尽な力を持ち出して……!だから、嫌いなんだよ………お前はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「うああああああああああああああああああああああああ!!」
互いに正面から突っ込む。
いつの間にか刃が付いていた二丁の銃を体の前で交差する。弾倉にもう弾はなかった。装填する暇も、するつもりもない。
刃と刃が甲高い音を奏でる。
私が刃を弾いた勢いに乗って後退した狗亡去は、その手に持つナイフを投擲した。何とか避けたものの、頬に一筋の赤い線が浮かび上がる。
「今回こそ、決着を付けてやるんだ!!俺が勝つ!そしてお前を本当に笑って見下してやるッ!!絶対にッ!!」
「前回とか今回とか、そんなわけのわからない理由でッ!私は死なない………お前が死ねぇぇぇぇッ!!」
「うらあああああああッ!!」
狗亡去の周囲に黒い粒子が漂い、やがて数多の黒いナイフが生み出される。それが、打ち出されて私へ迫った。
数が多すぎる。
捌ききれずに、いたるところにナイフが突き刺さった。悲鳴を咬み殺す。
物理的な痛みや苦しさにはもう慣れた。怪異の見せる悪夢のおかげで。
とはいえ、流石にこれは効いた。ガクリと、膝をつく。
「………勝負……あったみたいだな、紅紫娜」
勝ち誇った顔で、狗亡去がナイフを私の方に向けた。
……それを投げれば、私は死ぬのだろう。
「もう、言うことなんざ………ねぇよ……安心して、死ね……!!」
───────だが。
「───死ぬのは、お前ッ!!」
両手の銃を構えてトリガーの引いた。
途端、腕輪の赤紫色の結晶が砕け散る。そこから溢れた粒子が銃へと吸い込まれた。
そして、銃口から放たれた粒子の激流が、世界を赤紫色に染め上げる。
「どう、してだ……?なん、で────────!」
粒子に呑まれる直前、狗亡去が何かを言おうとした。
………だが、私にはそれは聞こえなかったし、聞く気もなかった。
【Epilogue】
ロンドが終わる。
今までのような小さな終わりではない。ロンドという全てが、崩れるのだ。
そして、決定的な何かが崩れる感覚と共に、景色が砕ける。
そして訪れるのは、相変わらず明るい暗闇と、感じなれた浮遊感。
「………………………………………。」
周りを見る。
だが、誰もいなかった。
みんな、死んでしまったのだろうか。
……きっと、そうなのだろう。
目を瞑る。
どこまでも暗いその暗闇に、不愉快な砂嵐のビジョンが見えた。
私はこれから見る記憶の持ち主を知っている。
今、殺した。
現世でも死んで、ロンドでも死んだ男だ。
……他の皆も、そいつと同じく二度目の死を迎えたのだろうが。
目を開く。
目の前にあるのは、今までとは違う、赤紫色の砂嵐のビジョン。私は吸い寄せられるように、それに触れた。
◇ ◇ ◇
……笑い声が聞こえる。とても、楽しそうな。
けれど、俺は全く楽しくない。むしろ、悲しくて、哀しくて、仕方ない。同時に思うんだ。
殺したい。純粋に。
でもそんなことできるわけがない。
助けを求めるように視線をあちらこちらへ向ける。すると、一人の女の子と目が合った。
驚いた。私だった。
俺は彼女に助けを求めるような視線を送る。けれど………
『………はぁ』
『っ』
どうでもいい、とばかりに視線を手元の本へと向けた。俺は心底落胆した。気付いているはずなのに。どうして?
何故助けてくれない?なんで、そんなに無関心でいられる?
……お前も……俺を見下すのか……。
なら俺は─────
お前も殺したい。
神は俺にもチャンスを与えてくれた。
ロンドなるこの世界で俺はそいつに逢った。
死に場所が一緒だったのだ。不思議ではない。
幸いにも俺には記憶がある。そいつには、ない。
なんという幸運だろうか。だが、まずは少しだけ遊んでやろう。感覚で分かるのだ。いつ、動けばいいのか。どんな異質なものに手を出そうと、俺は俺の目的を果たす。
今度こそ、殺してやる。
他でもない、俺の手で。
◇ ◇ ◇
「…………。」
全て、思い出した。
そう。全て。
「そう……。そういうこと……ね」
砕けたはずの赤紫色の結晶が、僅かに輝く。
気付けば右手に、いつも使っていた赤紫色の銃が握られていた。それを持ち上げて、自らの頭へと銃口を押し付ける。
「────私の悪夢も、これで……………」
─────トリガーを引く。
「終わり」
乾いた炸裂音が、どこまでも虚無な暗闇に響いて、赤紫色ではなく、深紅の花を咲かせたのだった。
綴
諍いの日々に続く