明日(あす)が来ない。
お疲れ様です
「皆が好きという事は、皆嫌いなのかもしれない」
特にイベントというか、何か特別な事もない休日の午前二時30分
少し家から出て近所を散歩してみる、靴を履いてコートを羽織り道に二、三歩歩き出す
誰も居ない電灯の下
道の雑木林は活力を失い始め、生命力を欠落し始めていた。
曖昧な時間だ、昨日とも明日とも今日とも言い難い時間
曖昧さで言えば逢魔が時も仲間だが、三つに跨って曖昧なのはこの時間くらいだ。
こういう曖昧な時間には何かにあう話が多い、それが犯罪者か、それとも人ならざるモノか
それは会ってみないと分からない事だ。会ったらそれはそれで酒の肴にでもなるだろう。
ふと、路肩の電話BOXが目に入る。随分と旧式だ。
電話BOX、今では携帯電話の登場によりトンと見なくなった、
その株を奪った携帯電話も今ではスマートフォンにとって代わられているのが
世の無常を感じさせるところか
電話BOXに近づいてみる、誰かに電話をかけようというわけではない。
ただ少し気になったのだ。BOXの周りには人影は無かった。代わりにBOXのテーブルの上に
一枚、テレフォンカードが置かれていた。柄は、どこだろう、北欧だろうか。街並みが印刷されている。
テレフォンカードを手に取り、特に意味もなく電話に差し込む。
それで何かが変わる訳でもない、突然笑い声が響いて非日常に連れていかれるわけでもない
ただ、そこには変わらない「曖昧さ」があった。
電話BOXとテレフォンカード、この二つには明日が来ない。
かといって過去が温かく迎えてくれるわけでもない。
今日が厳格な表情で仕分けてくれるわけでもない。
忘れられてしまったから、必要なくなってしまったから、知られていないから。
彼らの存在意義がなくなってしまったのはたったそれだけの事だ。
過去の栄光を語ろうとも過去が無くなってしまった彼らにそれは許されていない。
急速に、この世界時代から彼らは「事実」を亡くしている。
ダイヤルを回す、無意識の内に掛け慣れた実家の番号を入れていたようだ。
何度かの接続音の後、音声案内
「現在この電話番号は使われておりません」
当たり前だ、もう長い間実家は無人なのだから
これで誰かに出られても困るものだ。
いや、それこそ酒の肴にでも丁度いいか。
暫くそこでボウゥとしていると不可思議な事に気づく
一向にテレフォンカードが排出されない。
ああ、壊れたか、などと思案していると
受話器の間からか、か細いノイズが聞こえてくる。
「・・・・・・」
先ほどの音声案内を切り忘れていたのだろうか。
少し気になり受話器を耳に当て「もしもし」と言葉を送る。
特に返答は無い。只のノイズだ。耳の無意識から生まれる事だ。
それに意味を満たせようとする方が酷か。
少し苦笑した。
体の節々が痛む、意味の機械な私たちは結果として明日を迎えに行くことも、来ることも無い。
今日ほど残酷なことは無いのに、今ほど辛いことは無いのに。
無い無い尽くしで我々は、それでもまた明日が来ることを好いている。
「皆が好きという事は、皆嫌いなのかもしれない」
バカバカしい言葉だ、罵倒が出そうになる。
更に、バカバカしい事はそれを罵倒できても否定できない我々が居る事だ。
明日を住処として、言葉を生産するものとして
受話器がそれを発言したことにも気づかず
ただ傍受して怒りを讃えて
すこし、また少し落ち着きを取り戻した。
空が白んできたことに気づく。
もうじき、明日が始まる。
おはようございます