第2話
春の柔らかい風と彼女の透き通るような瞳のせいだろうか……
心と体が浮かされているようだ。
「リンっ? リ〜ン! ていっ」
両手で頬を掴まれた。今までになく彼女が近い…… 綺麗な髪と透き通る瞳、こちらを見るあどけない顔、意識すると顔が赤くなりそうだ。女性を女性として意識したことなんて今までになかった。
『君に見惚れていた。なんて言えないよな。ふっ』
なんて自分に対して思っていた。
「いや、ユイがそのままの服では学校に行けないなと思ってさ」
「あーっ! 制服ってやつね! リンが着てるみたいな」
「うん、ユイ…… そろそろいいかな…… ? 少し…… 恥ずかしい」
「ん? ひゃっ……」
ユイ自身リンの顔を覗く距離が段々と近くなっていることに気づいていなかった。
二人とも一旦目を逸らし頬を染めていた。
「でも…… 学校は行ってみたかったな。へへ」
落ち着きを取り戻したユイは寂しそうな笑いと共にシュンとしていた。
「いや…… でもバレないように行けば騒ぎにはならないと思うよ。大丈夫、案内するからそっと行ってみようか?」
普段の自分なら決して口にしないであろう答えだった。
だが結果的にユイの落ち込んだ後の可愛い笑顔が見られた。
「わぁ! ははっやったぁ!えいっ」
嬉しさと勢いの余りにリンに飛びついてしまったことに後から気付いたユイだったが今離れる訳にはいかない。自分でもどうしようもなく顔が熱く赤くなっていることに気付いていた。
『リンは優しい、今まで会った誰よりも。そして静寂な雰囲気と癒される抱擁感、彼を…… リンをずっと見ていたい。そばに…… いたい』
「ゆ…… ユイ?」
「少し…… 待って、嬉しいの、今離れたらきっと泣いちゃう」
『抱きしめ返したい。抱きしめ返してあげたい。でも今のそれは多分どちらも自分の下心だ。こんなにも強いであろう彼女が今は弱々しい。今の彼女のこれはあざとさなんて微塵もない…… 一体どれだけの苦労を重ねたのか』
いつしか彼女はリンの胸の中で泣いていた。夢が一つ叶ったのだ。小さな夢だが大きな夢でもあった。
「リンっ…… ありがとう。ありがとう…… 本当に嬉しい……」
『離れたら泣くと言っていたのに離れなくても泣いてしまった。泣かせてしまった。もう周囲の視線は気にしない』
そっと彼女を抱きしめ返した。
震えていた。だけどとても温かい、彼女の体温と心拍、息遣い。彼女は今、嬉しさの方が強いのだ。
リンは自分の心拍の変化にも気付いた。心臓も熱い。胸の辺りに感じる熱さは彼女の息と涙のせいだけなのだろうか……
本当に、初めてのことばかりだ。
自分より少し低い身長の彼女の頭に顔をあて、今だけは彼女を感じようと、弱かった力を優しさの限り強く抱きしめた。
「ふふっリンは優しい…… こんなに優しく抱きしめてくれたのはお母様以来…… とても温かい」
「別に…… 誰にでもこんなことする訳じゃ……」
恥ずかしくてこれ以上言葉が出ない。
「うん、わかってる。嬉しいよ…… リン、少しそのままでいてね」
彼女の右手が離れた瞬間、言葉に表しようもない寂しさと離したくないという思いが走る。
初めて感じた人の体温だからか、自分自身のわがままかはわからないが離れた瞬間はとても寂しくて寒さすら感じた。春の快晴、暖かい気温、綺麗な桜に震えるユイ。
戸惑いが最高点に達した。
ギュっ!
強い衝撃と嬉しそうに笑う彼女が再び手を戻して抱きしめてきた。今度の彼女は先ほどまでにない体温だった。
――数十秒前。
『透明化の魔法ならリンと学校を見て回れるかな?』
「リン、少しそのままでいてね」
右手をリンから離した瞬間に、自身の手がとても寒く感じた。リンの体温に慣れ過ぎたのだろうか。
『だけど、ならどうしてこんなに心臓が動揺しているの? 手を離しただけでどうしてこんなに寂しいの? リンが抱きしめ返してくれて嬉しかった。安心した。とっさの私のわがままを優しく受け止めてくれた。リンは優しいだけじゃない。心が…… 暖かくて温かいんだ』
一通りの考えがまとまると周囲の人間の視線を確かめるため感知魔法を使用した。周囲の視線が完全になくなったところで透明化を発動した。
『よし、これでリンと体の一部さえ離さなければ透明化は維持できる。だけど…… もう少しだけ…… もう少しだけリンを抱きしめていたい。右手が、どうしようもなく震えて寒い。体は熱いのに離れたくない。これは私の下心だ。
だけど心に嘘はつけない』
思うより先にリンを両手で力強く、感じられるままに抱きしめた。
『今度は恥ずかしい…… やってしまってなんだけれど言葉が、言葉がみつからない……』
「ユイ…… ありがとう。今ユイが離れそうになった一瞬、すごく寂しさを感じた…… だからまた……」
ユイが更に力を込めた。
「ゆ…… ユイ苦しいよ」
「ふっふふふふふ……」
嬉しかったのだ。リンと全く同じことを思っていたことが。
「リンと同じこと考えてたんだ私、私だけ恥ずかしい思いするとこだったよ。リンの馬鹿、私の……バカ」
『今日だけで何回リンの優しさに救われただろうか』
『今日だけでユイの笑顔に何回救われただろうか』
――ありがとう。本当に君と残りの時間を過ごしたい。
二人は同時にお互いの存在を確認し合えた。
「リン、今は二人だけの空間を創ったよ」
「二人の空間?」
「魔法をかけたの」
「それは…… 凄いね」
「えっへんっ! 信じてる?」
「うん。ユイの言葉は信じるよ」
「…… サラッとそんなこと言われたらさすがに恥ずかしいよ……」
『抱かれながらそんなこと言われたら…… 反則だよ〜リン……』
再び熱が上がる。
「と…… 透明化の魔法だよ、私達は今この世界から半分だけ隔絶された。私と私の一部となる物は透明になり他者からは認識されない。だけど」
近くの木を指差した。
「この木に触れることはできるけど、私が消そうと思わなければ消えないし触れられていることさえ気付かない」
落ちてきた桜の花びらを手ですくう。
「逆に私の認識で私の一部にした物は私を認識できるし姿も見える。だからここはリンと私の世界なの。だから…… その…… 今日は…… 私の手を離さないで欲しいの」
「わかった。ユイの手は離さない」
男らしい一面とリンの優しい声にキュンときてしまった。
「り…… リンのバカぁ」
ユイはパンク寸前だった。
「だけど、だけどもし俺がユイの手を離してしまったら今度はユイが俺を見つけて欲しい」
『もう…… リンは反則すぎるし可愛いすぎるよ。ここは素直にならないともちそうにないや』
「うん、約束する!」
素直にその言葉が嬉しかった。
自分の思い上がりではなかったことに。リンを見つけて、また抱きしめたい。抱きしめてあげたいと強く思った。
「いつものユイに戻ったね。そろそろ学校に行こうか」
「うん! ねぇリン…… また私がくじけそうになったら抱きしめてもいいかな?」
リンはユイの上目遣いにそれどころではなかった。しぐさの一つ一つからユイを意識してしまう。
「う…… うん」
「ご…… ごめん嫌だよね。突然こんなこと言われてびっくりだよねほんと、私もびっくり。へ、へへへ」
バッ!
手以外が離れそうになったユイを再び抱きしめた。
「嫌じゃない、嫌なんかじゃないよ……」
『だけど今はこれ以上の言葉がみつからないんだ』
涙を堪えるのに必死だった。
リンの気持ちにすぐ気付いたユイは背伸びをしながらリンの頭を撫でて呟いた。
「私達の空間だから泣いてもいいんだよ。リン…… リンの涙は私しか見ていないから。私が見ていてあげるから。リンの抱えている悩みはまだわからないけど、私が必ず解決してあげるから、その時は泣かずに済むよリン」
リンの涙はユイの優しさからだった。死という恐怖を一切考えもしなかったがユイという存在がいるだけでこんなにも涙がとまらなかった。
リンの少しの涙がユイの頬に流れてきた。ユイは再び抱きしめてくれたリンの行動を考えていた。
驚きもあったが誰かにここまでしてもらったことはあっただろうか…… こんなにも必死に守ってもらえた感覚は今までに経験したことがない。
『―― ありがとう…… リン』
『―― ありがとう…… ユイ』
しばらくして落ち着きを取り戻した二人は手を繋ぎ学校へ向かった。