Summer '68
ブラックホールのどん底で奈落の底を見つめているナウ。
人生には意味がないし未来には希望がない。いっそこの20ドルのピーナッツ缶を開けてすべてを終わらせるか。
ピーナッツアレルギーの詩
「うわあああ!」
「キャアアア! ……あら、坊やじゃないの!」
坊やという言葉に反応して振り上げたシャベルをあわてて下げる。
「母さん! 無事なの!?」
「無事も何もありゃしないわよ。強盗かと思って叫んじゃったじゃないの。まったく驚かさないで頂戴。ていうかあんた、何その格好。病院抜け出してきたの? 何やってんだい……」
美白パックを外しながら母が答える。
「な、なんで返事しないんだよ。ノックしただろ?」
「音楽聴いてたからね」
耳からイヤホンを外す。すぐにシャカシャカと音が漏れ出してきた。
「……」
緊張の緩和からどっと疲れが沸いてきた。
「とにかく、よかった……」
シャベルを手放し母を抱き寄せるネク。ほのかな香水と母の匂いが懐かしい。危うく実の母を生きているうちに殺すところだった。「母さん……ごめんよ……」
落ちたシャベルは冷たい金属音を響かせる。母の注意を引くほどに。今、血にまみれたシャベルは母の視線に晒されていた。
「……坊や……。馬鹿ね……まったく」
体を引き離し母が顔を覗き込んでくる。険しく自愛に満ちた母のまなざし。今まで気づかなかったが顔のいたるところにしわが目立つ。毎日顔を合わせているからこそ変化に気づかなかったのかもしれないが、母のしわは少なくないショックをネクに与えた。
「母さん……」
ネクを見つめる母の、なぜか視線は険しい。
「坊や……正直に言って頂戴……。一体誰を殺したんだい」
「だから言ってるだろ母さん! 僕は誰も殺しちゃいないよ!」
「隠さなくてもいいのよ坊や。私たちは家族でしょう。正直に話して頂戴。殺したのは山田君かしら? あなた小学生のときいじめられてたからね」
「いつの話だよ! それに山田がいじめてたのはDBだ!」そう言ってDBを指差す
「どうもー」
「あらDBちゃん、こんにちわ。それで? じゃあ一体誰を殺したの?」
なぜか頑なにネクを殺人者に仕立てたい母は一向にネクの言い分を聞いてくれなかった。
「もう……だから! 死人が歩き回ってるんだよ! ほら! テレビもつかない!」テレビのリモコンのボタンを連打する。チャンネルが変わるたびに砂嵐が吹き荒れた。「な!?」
「ふうん……。それじゃあ坊やはなにかしら。父さんが蘇ってその辺をうろつきまわってるって言いたいのかしら?」
「……」
ネクの父はネクが幼い頃に死んでいる。父の記憶はほとんどない。父の残したいくつかの遺品と言葉だけが父とネクをつなぐ架け橋だった。
「父さんは火葬だろ。できるわけない」
「……そうね。うちも土葬にしておけばよかったわね。そしたらあの人とまた会えたんですもの」
母は父の死で涙と奥ゆかしさを使い果たしたのか、ネクの前では豪快な母だった。そんな母だが、父の話題になると当時の若かった頃の母になる。貞淑で理想的な日本人女性。父の死以後の母はまた別の母なのだ。
「それで? 誰を殺したの?」
「いつまでこの話題を続けるんだよ! とにかく逃げるから準備をしてくれ!」
「逃げる? 逃げるってどこに行くんだい?」
「スガモプリズンだよ。途中でホームセンターによるけど」
「あら自首しにいくのね。でも、馬鹿ね坊や。いきなり刑務所だなんて」
「……もういいよ。とにかく支度してくれ。DBは適当に何か使えそうなもの探してくれ。俺は着替えてくるから。それじゃあ十分後に集合だ」
「あいわかった」どたどたとDBが去っていく。「それからお母様」と、思ったら戻ってきた。
「弁護は僕に任せてください。十二人の怒れる男を十回は見てる」
「……あれは陪審員の話だろ? いいから早く行け」
「ううん、いけずなんだから」どたどたとDBは去っていった。
「それじゃあ僕は着替えてくるよ」
「そうね。ねえ坊や」
「なんだい母さん」
「やっぱり、本当なのよね。死人が歩いてるって」
「でなければ僕は本物の犯罪者だ」
「そうね、坊やは昔から嘘をつけない子供だったわ」
「わかってたならどうして」
「冗談でも言ってなきゃやってられないわ。朝起きたらいきなりサバイバルだなんて」
「……」
「父さんならこんな時どうするかしらね」
それはネクが教えて欲しいことだった。いつも困難にぶつかると父を思い浮かべる。想像の父はすべてを完璧にこなすがネクにはそれができない。判断をたがえない想像の父はネクにとって超えられない存在であり、コンプレックスになっていた。
「……わからないけど、きっと僕たちを助けてどっかに逃げてたよ。ついでに……DBとか拾ってね。迫り来る敵をばったばったとなぎ倒し、至近距離からの爆発にも負けない。どんなに怪我をしても血まみれでも僕たち家族のために戦ったと思うよ」
ネクの欠けた父の像はブルース・ウィルスで補完されていた。
「……どうかしらね。さぁ着替えてらっしゃい。いつまでも辛気臭い病院服なんて着てるんじゃないわよ」
「わかったよ。それじゃあ後で」
ネクの部屋。
病衣を脱ぎ捨てる。何に着替えるか迷ったがDBの「一番着慣れたものでいいんじゃない」の発言からワイシャツにスーツのズボンにした。
「なんでネクタイまでしてんの?」
先ほどから後ろでひっきりなしに箪笥を開け閉めしているDBが声をかけてきた。言われてみればたしかに首にネクタイを巻きつけていた。まったくの無意識だった。習慣として体が覚えてしまっているせいだろう。
「……これはあれだよ。……。いざというときに敵の首を絞める」
「……」
「使い方によっては拘束にも使用できる。まったくネクタイは万能だね」
首を振り物色に戻るDB。
「言っておくが俺の部屋の箪笥には薬草も能力値を上げる種もないぞ。他を探せよ」
「何もないの知ってるからね。ネクの部屋だけは調べたことなかったんだ。って……おいおいマジかよ……嘘だろ……」
箪笥から何かを見つけたDBはそれを手に取りネクに見せる。
「こんなレア物持ってたなんて知らなかったぜ。懐かしくて死にそうだ」
DBが持っているのは人形。ネクたちが子供の頃にやっていたヒーロー物の人形だった。王道的なヒーローではなくいわゆるダークヒーローということが当時の多感な少年たちにヒットした。当時といってもネクたちの世代の一昔前ので、放送当時、ネクたちは幼稚園入学した頃だ。
「ああ……地獄から蘇りし男キャスター・マイルド……地獄の番犬ヘルハウンドを従え人に裁けぬ悪魔を裁く。名を、友を、家族を失った彼に未来は無い。しかし彼は今日も戦う。彼の名は……」一息間をおいて「ゴー! ブラッドウッド!」
「なんでそんなに詳しいんだ? 世代じゃないだろう」
「正気かネク? ブラッドウッドはそれまでのヒーロー物と違い綿密に練られたプロットと重厚な世界観が話題を呼んだアンチヒーローの旗手だぞ!? 王道的な勧善懲悪を否定し生々しく人間を書いたそのストーリー性の高さは子供だけでなくむしろ大人も楽しめたという……」
「もうわかったよ!」
「しかし意外だなぁ。ネクにもこんないい趣味があっただなんて。感動だよ」
「いや、違う。これは……」DBからブラッドウッドを受け取る。「父さんからもらったんだ」
手に収まったブラッドウッドは不機嫌そうな顔だった。裏返しにすると背中に紐がついている。引っ張ってみた。中のぜんまいが作動し懐かしい音声が流れる。
「かかって来い化け物共。ブラックウッド様がミンチにしてやるぜ」
父がブラッドウッドを持って帰ってきたときは一晩中おおはしゃぎだった。かすれるよな記憶の中でその日のことは覚えていた。それから何をするにもブラッドウッドと一緒だった。壊れもせず、忍耐強いブラッドウッドはネクに付き合っていた。成長して他の玩具は処分したがブラッドウッドだけは捨てずに取っておき今に至る。捨てられなかったのは父との思い出が印象付けられていたからだ。そういえばブラッドウッドを持って帰ってきた晩、父に何かをいわれた気がする。
「なんだったかな」
が、ネクは思い出せなかった。
「おいおい、嘘だろ……」
懐かしさに浸っていたところに、驚愕に満ちたDBの声が割って入った。
「『ミンチにしてやるぜ』はクレームがついて初期出荷の人形にしか搭載されていないんだ。レアもレア。激レアだよ」
希少品と言われてもネクにはぴんとこない。ネクにとっては今でも単なる父の形見のようなものだ。それ以上でもそれ以下でもない。「ふうん? そうなのか」
「どうだろうネク、そのブラッドウッド──」
「やらないぞ」
「話しは最後まで聞け。そのブラッドウッドの貴重性は理解しただろう。それは全世界の愛好家が血眼になって探している一品だ。われわれはその重要性を認識し、ブラッドウッドの保全に勤めなければならない義務が発生する。もちろん所有者は君だが僕にも保全のための監督を任せてもらいたい」
「つまりどういうことだ」
「君が死んだらブラッドウッドはもらう」
「……」
DBの目が妖しく光る。
「俺が死んだら真っ先にお前を食ってやる。もういいからとっとと準備しろ! そろそろ出発するぞ」
十分後、三人は車庫に集合した。結局たいした武器は見つからず、ネクは軽量性と攻撃力のバランスが取れているバットを、DBは遠距離用にアイドルCDと白兵戦用にハンマー、ナイフを装備した。あとは適当に食料を詰め込み準備を終わらせた。ネクのリュックの中にはもちろんブラッドウッドが入っている。
「それじゃあ母さん。これからホームセンターに行って物資を調達した後刑務所に行くよ。言われなくてもわかってると思うけどとにかく噛まれたり引っかかれたりしないように。感染経路がわからない以上、攻撃以外の傷も注意してくれ」
「わかったわ坊や」
「よし……それじゃあ車に乗ってくれ」
運転席にネク、後部座席に母とDBが乗った。鍵を差込み、ひねる。排気ガスの重低音がリズムを刻む。
「よし、DB。シャッターを上げてきてくれ」
「えっ?」
「シャッター。開けてくれよ。出れないだろ」
「いやいや。行きませんよ?」
「じゃあどうやって出るんだよ? 出られないだろ!? 母さんに開けさせるわけにもいかないしお前が行くしかないだろ!?」
「何で僕なんだよ! ネクが行けばいいじゃないか!」
「俺は運転手だからできない相談だな」
「僕が代わるよ」
「お前免許持ってないだろ!」
ネクとDBの口喧嘩を冷ややかに見つめる母。
「大体ネクは──」「大体DBは──」
「さっさとアクセルを踏みなさい」
やがて静かな声が二人の口論を差し止めた。小さい頃から何度も叱られてきた経験上、条件反射的に黙ってしまう二人だった。
「いやだからシャッターが……」
「シャッター? それがどうしたのかしら。今がどんな状況かまるでわかってないわね。危険を冒してまでご丁寧にシャッターを開ける必要なんてないの。どうせローンもないんだし、さっさと突き破りなさい」
有無を言わせぬ母の圧力。だがしかし、そのとおりだった。
「少しオツムが硬かったようだ。じゃあ行くよ! しっかり掴まれ! ああシートベルトはちゃんとつけてね」
エンジンをふかし車に血をめぐらせる。興奮したように車体が揺れた。血のめぐった愛車は今にも走り出しそうに体をうずかせる。ネクはブレーキから足を離し、アクセルに乗せる。わずかな抵抗を試みたアクセルは、すぐに従順になり、やがて目一杯踏み込まれた。タイヤのこすれる音と体にかかる重力。轟音とそれに続く夏の光。青空の下に出た車は快調そうに道路を走った。