初めまして…とは言わないよ
意識を取り戻した少女は羊水に浸っている様な安心感と共に、果てない絶望感に襲われた。
あの子の居ない世界になんて、生きていたって仕方がないのに。
身体を包み込む冷たくもなく温かくもない水はとても澄んだ色合いをしており、網膜に映った美しい七色の泡を見つめて少女は流れに身を委ねていた。
水の中に居るのに息苦しさは微塵も感じない。
まるで魚になった気分になり、足に尾鰭でも付いているのでは無いかとふざけた気持ちで見てみれば、そこにあったのはなんの変哲もない人の脚だった。
しかし、少女はある事に気がついた。
脚が縮んでいるのだ。
そう、自慢ではないが昔から日本人離れした脚の長さだという認識はあった。
もう一度少女は己の脚を見る。
意識がはっきりとしてきたせいか、脚は縮んでいるというよりかは子供の脚の様に細く短く、まだ成長途中の様に見てとれた。
今度は己の手を見てみる。
やはり、白く柔らかそうな手は脚同様一回り程小さくなり、こちらも成長途中の様に見えた。
訳も分からず全身を見てみれば、ある程度あった筈の胸は悲しい程小さくなり、他の女性が羨ましがったあの美しいくびれは寸胴鍋の様に変貌し、元々長かった髪は足首の位置に匹敵する程に伸びていた。
何度触っても結果は変わらず、少女は言葉を失った。
凹凸のまるでない身体、それは、子供特有のもの――。
女の身体は、十数歳に満たない子供になっていた。
しかし、少女はそれ以上考えるのを止めた。
全てどうでも良いのだ。
己が子供になろうが老人になろうが関係ない。
これが生まれ変わりというものだとしても、また己は躊躇せず闇に飛び込むだろう。
無意識に強ばっていた身体から力が抜けていく。
瞳に映り込む屈折した柔らかな青白い光が、地上がすぐそこにあるのだと少女に告げる。
それに無意識に手を伸ばしていた事に少女は気付いたが、浮上していた筈の少女の身体がゆっくりと沈み始めた。
次があれば――。
あの時、そう思った己が馬鹿らしく思えた。
あの子の居ない世界で生きていける筈がない。
消えたい、消えるのだ。
何も考えなくて良い世界へ、喜びも悲しみも存在しない、自我さえも無い世界へ。
文字通り消えるのだ。
己はあの子と同じ場所には行けないだろう。
それだけが、少し悲しかった。
眼前の光が遠ざかり始め、視界に映る己の手が虚しくたゆたう。
全てを終わりにしようと少女が瞼を閉じ掛けたその時、少女の視界が虹色の泡に支配された。
!?
それと同時に視界に飛び込んできたのは、骨張った男の手。
突然現れたそれに驚いた刹那、少女の細腕がその手に掴まれた。
泡の生まれて死に行く音が耳一杯に響き、右腕に加えられる強い力に左手を無意識に伸ばしたが少女のその行動は無駄に終わった。
重力に逆らう様に強引に引っ張られ、少女の身体は冷たい外気と柔らかな光に晒される。
世界に、少女は生まれた。
水を吸った長い漆黒の髪が重く、顎から滴り落ちる水がくすぐったいが少女の意識は掴まれた右腕を伝って己の腕を掴んでいる人物を捉える。
少女と同色の長い漆黒の髪、滑らかな皺一つ無い肌と形の良い高い鼻と薄い唇、そして、見る物全てを焼き切ってしまう様な美しい紅蓮の瞳がこちらを見つめていた。少女は息を呑んだ。
目を見開き唇が僅かに震えている事にも気が付かず、少女は視界に広がる男から目が離せない。
男は微笑を浮かべ、己が濡れる事すら厭わず少女をその腕に閉じ込めた。
背中と後頭部に大きな掌と確かな熱を感じ、少女の心臓が一瞬高鳴る。
更に力が込められ抱きしめられるが、少女は逃げる事無くされるがままだ。
さらりと男の髪が流れ落ち、少女の漆黒の髪と溶け合う様に重なった。
少女は消えたいと願った。
しかし、男の紅蓮の瞳に映る退行した己の泣き顔と男の瞳を見た瞬間、少女の思いは劇的な変化を遂げる。
「…我が愛しの妹よ。我と共に永久の時を生きてくれ」
男の願いに、少女の大きな瞳から大粒の涙が零れた。