プロローグ
遅筆ですが、宜しければお付き合い下さい。
雨によって張り付いた髪を頬から剥がす事すらせず、一人の女は暗い階段を駆け上がった。
泥だらけのパンプス、ずぶ濡れのスーツに身を包んだ女は息も絶え絶えながらもその口元はどこか楽しそうに歪んでいる。
漆黒の長い髪と同色の服を纏い、更に同色の靴を履いている女は誰がどう見ても全身真っ黒だったが、整った顔立ちと真っ赤に染まったカッターシャツの襟元に、右手に持つ熱を持たない鋭利な塊が街往く人々の目を釘付けにし、人々の目を置き去りにした。
休む事無く階段を駆け上がり続けると、錆びたドアが女の前に現れた。
女は躊躇する事なくドアノブを掴むと、一気にドアを押し開けた。
女の視界に飛び込んできたのは、降りしきる雨と闇を削って光り輝く街の姿。
いつも何も感じる事無くこの街で生活してきた筈だったが、何故だか女は初めてそれが美しく思えた。
それは、初めて意識して見た事によるものなのか、それとも、世を儚む思いから来るものなのかは判らない―――。
ただ、この光景を"あの子"にも見せたかった。
鳴り響くパトカーのサイレンを耳障りに思いながら、女は引き寄せられる様にフェンスに近寄った。
自然と下を向けば、色取り取りの傘がスクランブル交差点を右往左往し、まるで傘がダンスを踊っている様に感じて女は口元に微笑を浮かべた。
「最後の最後まで…あの子を助けられなかった。敵を討つ事すら出来ず、なんて無様なのかしら」
赤く染まったカッターシャツを握り締め、女は自らの手に握られた血塗れのナイフに目線をゆっくりと落とす。
恐怖に歪んだあの女の表情が脳裏から離れない。
本当ならばあの瞳から光を消し去り、その魂を常闇に葬ってやりたかった。
だが、それも叶わぬものとなった。
「…もしも私に"次"があるなら、私はもう迷わない。私はもう、怖がらない」
女はフェンスに更に近寄ると、それに足を掛けた。
冷たい風が吹き、まるで女を誘うかの様に空に舞い上がる。
そして…
「あの子が居ないこんな世界、もう要らない」
瞼を閉じ、女は迷う事なく闇に飛び込んだ。