第2話 悍ましき過去
焦燥感半分。少女に出会えた安堵半分の心が、一気に極寒の絶望一色に染まってゆく。
「いえ違います。俺空谷です」
明後日の方角を見つめる俺は、いつものように冷たい拒絶の言葉を口にしていた。
断らなければ、なんて考えるよりも先にだ。
まるで、反射のように言えてしまう自身がとても悲しくなった。
「え、あ、あの……」
「違うんです。俺はあなたの知るスィエルって人なんかじゃないんです。初対面なんです。申し訳ない」
感極まるほど会いたい人が違った。
その衝撃は俺には計りきれない。
だからこそ、言葉を尽くして、否定を重ねた。
ショックを受けた心に無数の傷をつけるような行為かもしれないが、それでも首を横に振った。
なぁなぁにして、偽ってもみろ。
後で自身の首を絞めて、誤魔化しきれずに今以上に傷つけることになってしまうのだ。
「ぇ……冗談、ですよね……?」
縋り付くようなその瞳。
そこにあるのは、砂漠で唯一のオアシスを見つけたような、狂気すら孕んだ期待だ。
悪い冗談だったと。また会えたなと微笑む『スィエル』を。
「冗談じゃないですけどっ!? 俺本当に人違いなんですってば! その人があんたの何者かは知らないですけど、俺は本当にこの世界に初めて来て、初めてあなたに会ったんですってぇっ!」
心がズタズタになっているのに、心臓は嫌になるほど落ち着いている。
普段してきた否定で、落ち着きでも取り戻したっていうのか。
今までとは違う涙で瞳を濡らす少女に、見てられなかった。
だが、最悪な事態が頭をよぎる。
今以上に泣いて、偽物と怒りと悲しみに叫ぶ少女の姿を。
だから、道化でも演じるように素っ頓狂な声を上げ、悲劇を無理やり喜劇へと塗り替える空気感を作ろうと努める。
それだけが、人違いを量産する俺にとって唯一の逃げ道。
間違う人に申し訳なさを少しでも抱かせないために、ハイテンションにツッコミを入れるのだ。
「そ、そんなはず、ないです……っ! だって、あなたはスィエルじゃないですか……っ! その瞳も、二つの髪色も、ちょっとだらしない服装もっ! 全部全部……っ!」
「そう、言われたってなぁ……これが俺なんですって……スィエルじゃないんですって……っ!」
独自性があるはずの特徴の一致に、俺は言葉を詰まらせる。
その度に思う。この姿が、こんな見てくれが、二人もいてたまるかと。
「嘘……! 嘘だよ……っ! スィエル……っ! スィエルだよ……っ! スィエルなんだよぉ……っ!」
啜り泣く彼女に心の苦痛は増えていく。
虫歯めいた鋭く疼く痛みに、鈍器で殴打されたみたいな、鐘の如く響く痛みが加わったのだ。
だが、強まったのは精神的な痛みだけではない。
「ぅ、お? ちょっと、あの……ぎゅーが強くないですかね? も、もうちょっと痛いと言える強さになってるんですけど……っ!」
「やだ……っ! 絶対にやだ……っ! そんな嘘言わないで……っ! もう二度と……離れないでぇ……っ!」
彼女の必死な訴えと共に、身体に絡みついた細い腕は、見た目と相反し強力な締め付けを発揮する。
それは、左右の腕が脇腹とがっちりと合い、外側からの圧力に軋む音を響かせている。
この細い腕のどこにそんな力があるんだ。火事場の下力だろうか。それとも、もう離れはしないとさせる意地か。
今にも砕けようとする身体からの警告音だと感じた俺は、マイルドな表現で込められた力を緩めるように促した。
けれど、返ってきたのは、お門違いな懇願だった。
そうすべきなのは、スィエルとかいう身勝手な失踪野郎で、この俺じゃないっていうのに。
だが、拒めば拒むほど、彼女は必死に俺ではない俺を追い求めてくる。
ーーダメだ。今回の相手は強敵すぎる。
というより、俺は子供の相手が苦手だ。
大人の相手なら理解されずとも、言葉を貫けば退散してくれる。大人の対応というやつだ。
だが、子供ではそうはいかない。大半が親が親代わりの誰かになる。
そうなれば離れたこと、離れようとすることに必死になって止める。
きっとこちらがどんなに言葉を尽くして否定しようと、その誤認は覆らないやつだ。
そうして、ごちゃごちゃと厄介事を増え、いつしか大爆発してしまうのだ。
声を張り、感情を激化させ、体を張っててもする阻止に、癇癪だとは言えなかった。
『人違い体質』という問題を放棄している俺にも責任の一端がある。
原理がどうあれ、原因がどうあれ、だ。
「あのなぁ……! 何回言われようと、俺は空谷 新居吾なのっ! どれだけ言われたって、スィエルじゃない俺にはどうすることも……っ!」
「ーーなら、離れないようにしてあげる」
呟かれた言葉に、俺の背筋に恐怖が伝う。
今の今まで、少女は怒りや悲しみが激しさを乗せて言葉を吐き続けてきた。
だが、先の言葉にはない。
まるで、諦めに似たものを感じた。
抱きしめている手も緩む。顔を俯かせ、こちらを見つめるのをやめている。
だが、肩の震えは未だ健在で、言葉を吐き終えた口は強く強く閉ざされていた。
白い奥歯を噛み締める音が、こちらに届くぐらいーー。
「ま、て。待て待て待て……っ! せめて対話を……っ!」
俺はゆっくりと離れ、両手を左右に振って平和的な解決を求める。
どれだけ喧嘩や戦闘に縁遠い俺でも、彼女が今からなにをしようかわかった。
何をどうやってそうするかはわからない。
だが、強引な手段を用いてこちらを望むようにしようとしている。
事実やら感情やらを、一切合切無視してーー。
なら、俺が取れる解決法は一つ。
解決法……というより、穏便に片を付ける方法がある。
「ーーと」
「俺は俺なんですってばぁーっ! だから、もうこれ以上、人違いしないでくださぁーいっ!」
「あ! ちょっとっ!」
背中に突き刺さるあの子の呼び声を、無理やり脳からシャットアウトする。
全力で走るほど、肺に吸い込む空気は冷たく、罪悪感で胃の奥がせり上がってくる。
あの子の元から離れるのを、選択するしかなかった。
罪悪感の豪雨に塗れ、心が無数の切り傷が刻まれようと。
これが俺にできる最低限。彼女をこれ以上を悲しませないよう、できる最適解なんだ。
「なんで、だよ……っ!」
思わず、うちに秘めたる弱音を吐き漏らす。
「なんで俺には、人を悲しませるしかできないんだ……っ!」
腕を振り回し、足を前へ進めて俺はどうしようもない現実を嘆くしかない。
喉元まで登ってきたヘドロみたいな自己嫌悪。
吐き出そうにも口の中で張り付き、口を閉ざせば砂利を噛み締めたような不快感を覚える。
どうにもならないこの嫌な感覚だけが口の中を、喉の奥を支配する。
「人違いだと……!? ふざけんじゃねぇ! テメェの体質で迷惑かけてるってのに、なんでテメェはただの一人も探し出せねぇんだよ……っ!」
小学生のとき、転校してきた少女の口述を頼りに故郷の街の中を何度も巡って探した。
ーーでもいなかった。誰一人としてどこにいるかわからず、俺をその人と間違えた。
なんどもなんども過去の話を聞かされた。一言一句、もう忘れられないように。
「なんで見つけられねぇんだよっ! たった一人の大切な人間をっ! なんで俺に間違えられちまうんだよっ! なんで俺はそんな大切な人間になれないんだよっ! 大切な人間に間違われるだけの人間なんだよっ!」
中学生のとき、入学してきた俺を上級生の友人を、行ったことのある場所を片っ端から探し回った。
ーーでも見つからなかった。上級生の皆が俺を友達の名で呼び、否定する俺を罵った。
お前じゃない。偽るのは何故だ。彼を返せと。
「なんで俺は偽物でしかないんだよっ! なんで俺は俺として友達を作れなかったんだっ! 否定したかったんじゃない、拒みたかったわけでもない。俺はただ、俺だって言いたかっただけだっ!偽りたくないだけだったんだっ!」
高校生のとき、やけに熱心に歓迎してきた先生も生徒も校長までもが、俺をその誰かの名を呼んだ。
俺はその熱意から、全員の記憶を頼り探った。
記憶を頼らず、二年間の夏休み、冬休みを費やし、全国を回って探しもした。
ーーでも見つからなかった。高校では孤立し、友達はできなかった。すでに、『彼』の友達だったからだ。
「なんで俺は、誰の一人も大切な人を見つけられないんだ……! 俺は、誰の一人にも大切な人ではないことを証明できない……俺であると、証明できないんだ……っ! 俺が『俺』であることを証明する方法を、俺は一つも持っていないんだ! 俺の声も、顔も、心でさえも、別人の似たものでしかないんだ……っ! 俺は、俺であると、胸を張っていいきれないんだ……っ!」
できたのは、インターネット上の関係。
友達と呼ばず、仲間と呼ぶ、四人の関係だけなのだ。
そんな仲間にも、一度は間違えられた。
必死に否定し続けて、どうにか仲間だけには俺として関わってくれた。
彼らの大切な人ではないと証明はできなかった。
「俺は……なんで、俺には……」
喉にへばりついたヘドロが、呼吸を邪魔する。
痰が絡まるような感覚に、咳が止まらない。
走れば走るほど、自分が何者でもなくなっていくような感覚に、吐き気が止まらないのだ。
次第に疾走から徒歩へ、そしてその足は止まった。
膝に手を置き見下げた地面に、俺の汗が豪雨のように垂れ落ちる。
「ぅえっ、ほ……おほ……ぅ、ぇえっ!」
加えて、過去の記憶が過り、限界を超えた悍ましい感覚に嗚咽混じりに咳き込む。
透明な唾液で地面を汚しながら、周りを見渡した俺は、
「な、んで……?」
過去の不条理の吐露したように、今目の前で起きている光景に力無く嘆く。
変だ。
この異世界は変。明らかに異常。何かがおかしい。
さっきまで人がいないように見えていた。いやいなかった。いるはずがなかった。
だが、今では見える。見えてしまっている。
代わりに見えないものがある。家だ。家がないのだ。
あれだけ色鮮やかで、視界をどこへやっても見えていた家が、周囲一体に無くなっていたのだ。
呼吸がままならず、身体を揺らして取り込む空気。
だが、上下に揺れる視界はぼやけたまま、前方で地べたに座る少女たちを目視している。
そう、いなかったはずなのだ。
黒い煙を確認し、緑色の少女を見るまでは見てこなかったはずだ。
なのに今はいる。あのときの少女のように座り込んでいるのだ。
なくなった色とりどりの家の色調に合わせるように、髪色も瞳の色も、服の色までも統一された少女たちが。
つい、数分前までは、一時間かけてでも人と出会うことを望んでいた。
だが、高鳴る鼓動には、今や異世界への喜びや願いが叶った嬉しさなど一つもない。
脳裏に浮かぶ最悪の事態。それが刻一刻と差し迫っている恐怖一色なのだ。
先まで流れていた汗は冷や汗に変わり、体感温度を急激に冷え込む。
そしてそれは、俺の視線に気づいた彼女らの表情の変化で、加速していく。
俺の視線が触れた瞬間、彼女たちの死んでいた瞳に、一斉にドロリとした歓喜が灯ったのだ。
「あ……」
赤色の少女が小さく声を漏らし、その瞳に狂おしい輝きが宿る。
「ね、ねぇ……あれって……」
青色の少女が声を震わし、俺を指差しで周囲に確認を取る。
「嘘、どうして……っ!?」
黄色の少女が両手で口元を押さえ、溢れ出す感動から瞳に涙が浮かんだ。
「おかえりになったんだ……っ!」
桃色の少女が力一杯手をこちらに振って、自身の存在を知らせてきた。
「スィエルっ!」
皆が一斉にその名を呼んだ。誰一人名を聞こうともしなかった。
また、誰もが俺を、他の誰かと間違えたのだ。
誤った認識が伝播してゆく。徐々にではなく、一斉に。
誤解など解けるはずもない。
俺は自身に備わった望んでいない異常な体質の効力に、どこまでも無力だった。
声を発し、違うと言えない。
行動や結果で否定しようにも実らない。
どれほど『違う』と叫ぼうと、周りの耳は俺の声ではなく、他の誰かの声を聴いているのだ。
元いた世界でも、ここでも変わらない。そうして、世界から俺という輪郭が削り取られていくのだ。
俺は、もう限界だった。
そのときだ。ふと頭に過った。どこまでも低く脳内に流れたのは、誰でもない自身の声だ。
『逃げてしまえ。全てから』
思い出した。
中学生の頃、周りから罵られる最大の理由を。
最後の、最後で逃げ出したのだ。
見つからない焦燥に、周りからの期待からの呆れへ変わりゆく状況に。
知ったことかと、一度役割を放棄した。
状況は一度の過ちへ劇的に変化する。
それを1年目に放棄し、残る2年間でそれを痛感した。はずだったのに。
俺はまた放棄を選んだ。頭に過ってしまったときにはすでに選んでいた。
あの子たちが浮かべる聖母のような微笑みに耐えきれず、俺はかつて犯した、そして一生繰り返すであろう最悪の過ち――『逃避』を、再び選んだ。




