死んだ魚の話
死んだ魚を見ていた。
綺麗に並んだその腹が、朝日を受けてきらきら光るのを、
垂涎の眼で見つめていた。
たくさんの人間の足が、死んだ魚の前を通り過ぎ、わたしは何度も追い払われた。
次の日にはまた、新しい死んだ魚が並び、わたしも何度も舞い戻った。
わたしはいつも腹を空かせて、市場に並ぶ魚を見ていた。
腹を空かせて、悲しくて。
淋しいまま死んで。
目が覚めたら、人間になっていた。
前のわたしが猫だったと知ったのは、ずっと後のことだ。
わたしは美しい。
豊かな黒髪は、波打つように艶やかで、
唇は、薔薇のように紅い。
人々はわたしを誉めそやす。
そんなとき、わたしは自分に値札が付けられて、
市場に並ぶ魚になったように感じた。
わたしはもう腹を空かせてはいない。
わたしはもう寒くはないし、悲しくもない。
心だけが猫のままで、淋しいままで、
あの市場の前で膝を抱えている。
わたしは髪をピンクに染めて、唇にピアスの穴を空けた。
わたしは市場に並ぶ魚ではなくなった。
人々はわたしを、撥ね物の魚のように扱った。
結局は、死んだ魚のままだった。
いちどだけ、気紛れな漁師が、わたしに撥ね物の魚をくれた。
いちどだけ、巨人のような手がわたしを撫でた。
その温もりだけを憶えている。
引き摺るように歩く帰り道の路地裏で、目の端に何かが蠢いた。
猫だ。
飢えて痩せ細り、目やにで瞼が半ば塞がっている。
もうすぐ死ぬ、猫だ。
「なんだおめえ、腹ァ減ってんのか」
あの時の大きな手を思い出し、わざと荒っぽい口調で声をかけた。
買い物袋の中から魚を取り出そうとして、戻した。
ハンカチに牛乳を浸して、猫の口元に持っていく。
猫は、案外力強く吸い付いた。
この猫は、明日にも死んでしまうかもしれない。
けれど、今この目に映るわたしは、市場に並んだ魚ではない。
「おいで」
わたしは大きくもない、ゴツゴツとしていない。赤く塗られた爪の手で猫を抱いた。
小さなぬくもりを感じながら、わたしは家路を急いだ。
あなたの新年にも、小さな光がありますように。




