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名もなき刃は歴史を殺す  作者: 秋田葉冠
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Case.2 ロンドン塔の王子たち

Case.2 ロンドン塔の王子たち


目が覚めると、見慣れた天井がそこにあった。

白く、継ぎ目のない天井。

染みも傷もなく、時間の経過を拒むような平面。


しばらく瞬きをせず、それを見つめていた。

天井を見ているというより、確認していると言ったほうが正しいかもしれない。


今日も、ここにいる。

それだけを確かめるための、短い時間だった。


呼吸は安定している。

心拍も平常。

身体に違和感はない。


起き上がり、床に足を下ろす。

冷たさが足裏から伝わるが、不快感はなかった。


この部屋に余計なものはない。

簡素な寝台、壁に固定された収納、最低限の生活用品。

窓はないが、時間に合わせて照明の色温度が変わる。


朝だ。


顔を洗い、鏡を見る。

そこには男が映っている。

身体は鍛えられているが、その他に目立った特徴はない。

身長も、表情も、顔つきも、平々凡々な様相だった。


だが、それでいい。

名が残らない仕事に、顔は必要ない。


――タイムリープが実現した世界。

それは革命的な発明であったと報道されている。


人類はついに、過去へ到達する手段を得た。

正確には、「過去を観測する」手段を。


観測者は精神を過去に跳ばすことで、出来事をまるで映画を観るかのように追体験できるようになった。


ただし、精神を跳ばすには膨大なエネルギーと莫大な費用がかかる。

そのため、限られた研究者だけが、失われた都市や断絶した文化、謎に包まれた事件を解明するためにタイムリープを利用していた。


だが、すぐに問題が発覚した。


当初、過去の観測はタイムパラドックスを引き起こさないと考えられていた。


だが、観測者の存在は、微細だが確実な影響を残していた。

未来の情報が、ノイズのように滲み出していたのだ。

そして稀に、それを受け取ってしまう人間が現れる。


未来を見る者。


今の世界線の未来。

そして、自らの選択によって変わる、もう一つの未来。


二つの未来を、同時に理解してしまう者。


その差を認識した瞬間、世界は揺らぐ。

因果が分岐し、現在が成立しなくなる。


変異点。

私たちはそう呼んでいる。


研究者でもなく、観測者でもない。

狂った歯車を直すように、変異点が発生する前に修正する人間――それが、私だ。


身支度を整え、訓練用のスペースへ向かう。

そこでは一般的なトレーニングに加えて、対人格闘や各種武器の取り扱いを徹底的に叩き込まれる。

何年も、何度も同じ動作を繰り返してきた作業だ。


最後にスーツを纏う。

機動隊が着る防護具のように、全身が黒い装甲で覆われている。

だが起動すれば、光を歪め、輪郭を曖昧にする。


透明化。

過去の世界を歩くために与えられた、最低限の装備。


私はスイッチを入れ、入念に動作を確認する。

姿勢を変え、腕を振り、気配を消す。


問題なし。


訓練を終えた頃、短い通知が届いた。

呼び出しだ。

行き先と時刻だけが表示されていて、内容は書かれていない。

それでも、世界が一つ動きかけていることだけは分かる。


私はスーツを解除し、静かにトレーニングルームを出た。

また一つ、過去が待っている。


――――――――――


廊下の突き当たり。

指定された部屋の前で認証を通すと、無音で扉が横に滑った。


中は簡素な会議室だった。

机と椅子が二つ。

壁の一面にはディスプレイが取り付けられている。


すでに、オペレーターが待っていた。


年齢も性別も分からない。

その声と態度は、いつも一定で、個性らしいものを感じさせない。

彼らもまた、名を残さない側の人間だ。


「着席を」


短い指示に従い、椅子に腰を下ろす。

ディスプレイが起動し、地図が映し出された。


テムズ川の周辺。石造りの建築物。


「今回の変異点発生候補は、1483年。場所はロンドンです」


画面が切り替わり、ロンドン塔が強調表示される。


「対象は、エドワード五世および、その弟リチャード。いわゆる“塔の王子たち”」


私は黙って頷いた。


「既存の観測では、叔父であるリチャード三世が即位後まもなく二人を密かに殺害した可能性が高いとされています。

ただし、これは確定史実ではなく、我々の世界線で得られた観測結果に過ぎません」


オペレーターは続ける。


「王子たちの遺体は公に発見されていません。そのため、史実上は“消息不明”とされ続けています」


ディスプレイに、年代記や記録の断片が浮かぶ。


「今回の観測条件から、この史実が変動する可能性があります」


曖昧な波形が映し出される。


「この年代、この場所で、世界線が動きかけている兆候が検出されています。ただし、誰が、いつ、未来を理解するのかは分かりません」


未来を見る瞬間。

それは、過去に行かなければ分からない。


「任務内容は明確です」


「現地に入り、史実との差異を観測。

変異点が発生した場合、その原因となった人物を排除してください」


私は短く答えた。

「了承した」


ロンドン塔。

1483年。


また一つ、答えのない任務が始まる。


――――――――――


石造りの床に、足音が吸い込まれていく。


ロンドン塔は、思っていたよりも静かだった。

権力の中心であり、恐怖の象徴であり、そして監獄でもあるはずの場所は、今この瞬間に限って言えば、異様なほど秩序立っている。


私は回廊の影を進む。


石壁に刻まれた傷、長年の補修跡、磨り減った段差。

ここは何百年も前から、人の出入りを拒まず、そして逃がさなかった場所だ。


だが――


塔の奥へ進むにつれ、私の中に小さな違和感が積み重なっていく。


重苦しい牢の空気はない。

少なくとも、私が見ている場所は、一般的な牢獄のそれではなかった。


扉は重いが、鍵はかけられていない。

窓は高く狭いものの、外光は差し込む。

簡素ではあるが、寝台も机も用意され、食事の痕跡も新しい。


王子たちは、ここにいる。


私は壁際に身を寄せ、部屋の中を観察した。


年長の少年――エドワード五世。

まだ幼さの残る顔立ちだが、姿勢には王として教育された痕がある。

机に向かい、書物を読んでいる。


弟のリチャードは、窓辺で木製の玩具を弄んでいた。

時折、兄の方を振り返り、何か話しかけようとしては、思い直したように口を閉じる。


二人とも、怯えてはいない。


少なくとも、「死を待つ者」の顔ではなかった。


――史実と、違う。


私はその事実を、淡々と受け止める。

だが、違うこと自体は問題ではない。


過去は、常に観測誤差を含んでいる。

重要なのは、それが世界線を壊すほどの歪みかどうかだ。


足音が近づく。


私は即座に壁と一体化する。


扉が開き、一人の男が入ってきた。


リチャード三世。


背は高くない。

華美さもない。

報告書にあった「歪んだ怪物」のイメージとは、あまりにも違う。


彼は二人の王子を見ると、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。


「勉学は進んでいるか」


穏やかな声だった。


エドワードは立ち上がり、礼をする。

「はい、叔父上」


王としてではなく、甥として接している。

それが演技でないことは、声の調子から分かる。


リチャード三世は机の上に視線を落とし、書物を確認した。

そして、誰にも聞こえないほど低い声で言う。


「……これ以上は、ここに置かない」


その言葉に、未来を覗いた痕跡はない。


私は息を潜める。


――この男は、未来を見ていない。


それだけは、確信できた。


――――――――――


夜は、音を奪う。


ロンドン塔の上空には雲が垂れ込め、月は姿を隠していた。

見下ろせば、街の灯りが遠く揺れている。

生きている者たちの営みが、ここからは別世界のように見えた。


エドワード五世は、窓枠に手をかけていた。


石は冷たく、硬い。

その感触が、今ここにいる自分が現実の中にいるのだと、否応なく教えてくる。


エドワードは病弱だった。

だが、聡明であった。


長い時間をかけて、彼は考え続けてきた。


自分がここにいる理由。

ここに“生かされている”意味。


――自分が、生きているからだ。


生きている限り、

自分は象徴になる。


望まれていなくとも、

利用され、掲げられ、奪い合われる。


耐えられなかった。


そして――


世界が、反転した。


――未来。


生き延びる未来。

名を捨て、国を離れ、

遠い地で静かに年を重ねる。


だが、何度挑み続けても、時代は動かなかった。


次に、死ぬ未来。


自分たちの死が悲劇として語られ、

血に染まった王権が生まれる未来。


どちらも、救いはなかった。


「もう、終わりにしよう」


エドワード五世は、決断した。


幼い弟を抱き抱え、

身を投げる。



その瞬間、

私は動いた。


――変異点が発生した。


衝撃を奪い、

二つの小さな命を受け止める。


世界線は、再び安定を取り戻し始める。


数日後、

王子たちは姿を消す。


兄は南へ。

弟は東へ。


それでいい。

それが、史実だ。


私は塔の影から、それを見届ける。


未来を見た者は、王ではなかった。


ただ、

重すぎる責任を背負わされた、

一人の少年だったのだ。


――世界は、まだ続いている。

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