2-1 鉄槌(1)
しとしとと、樋を流れ落ちる雨。
梅雨の様相は、いまも昔もそう大差無いようだ。
垂れ込めた鉛色の雲から落ちた雨粒が、バスの窓ガラスに斜めの軌跡を残していく。
私と結衣さんを乗せたバスは、モノレールの軌道の下をゆっくりと進んでいる。
「緊張する?」
「そうですね。全く未知の世界ですから。少々、恐怖を感じます」
「あら、筋金入りの海軍魂はどこへ行ったの? それとも昭和二〇年から幼馴染みさんに来てもらう?」
「これはまた、ずいぶんと辛辣ですね」
「あはは」
あどけない笑顔のまま投げ掛けられた、実に意地悪な文言。
何かのついでに、結衣さんにとっての悠真くんと同じように、私にも無二の幼馴染みの娘が居たという話をしたものだから、ここ数日はこの調子だ。
ただ、『志保』という名前も教えていないし、結衣さんがかなりその志保に似ていることも話していない。
まぁ、こんな感じではあるが、結衣さんはいつも天真爛漫で嫌味がない。全く腹も立たない。腹立つどころか、可愛げにさえ見える。
「海軍魂は昭和二〇年にほとんど置いてきてしまいました。それから、幼馴染みは呼ばないでください。叱られますので」
最近は、こんな甲斐性があったのかと自分でも驚くほど、このような軽々とした冗談を口にできるようになった。
今日から、学校へ行く。
開襟の半袖ワイシャツと、黒ズボン。
襟元に金属の学章を装着するところは、やや軍服に似ている。冬用制服は、軍服とは全く異なる背広式のハイカラなものらしいが。
「秋次郎さん、もう少ししたら一回降りるよ。乗り換えるから」
緑豊かな広大な公園。
その隣を、バスがゆっくりと通過してゆく。
見ると、公園と道を挟んだ対面に、堅牢な石垣を従えた天守が泰然自若としている姿が目に入った。
小倉城だ。
そうか、そうすると、この公園こそがかつての陸軍師団の跡か。
かの師団のすぐ横には、帝國随一の巨大な兵器工廠があった。
私の零戦が謎の雲に飲み込まれる寸前、眼下に広がっていたその兵器製造の拠点。そして、それを囲む雄々しき軍都。
しかし現代のそれは雨に打たれて、いよいよ緑濃くしっとりとした安寧を醸し、その昔に数多の軍靴の音が乱舞していたことを全く想起させない、穏やかな情景を描き出していた。
「ここで降りるよ。この上が学校ね」
停留所は、高校があるという丘のすぐ下にあった。
結衣さんと並んで、正門までの緩やかな坂道を登っていく。雨はずいぶん小降りになって、傘を差していない学生も居た。
突然、右手の視界が急に開ける。立派な門柱の正門があり、その奥に整然としている校舎が見えた。
校舎の手前中央に、何かの象徴のように一本の蘇鉄が厳然と立っており、その周りを自動車がぐるりと回れるようになっていた。
「ここが、学校なのですか?」
「うん。なにか変?」
「いえ、私が知っている学校とはずいぶん違うもので」
きょとんとする結衣さんの向こう、校舎だという四階建てのコンクリートの建物は、まるで病院のよう。学校特有の三角屋根は無く、なんとも無味乾燥な佇いだ。
そのせいだろうか、『学び舎』という呼び名が全く以って不相応な、とても冷たい印象を受けた。
「秋次郎さん、お弁当のときに教室に行くから。待っててね」
聞けば、残念なことに結衣さんとは別々の学級らしい。
なんとも言い表しようのない憂惧がじわりと背中を這ったとき、突然、私の背中に衝撃が走った。
バシッと乾いた音が響く。
「痛っ!」
「おお、悠真っ! 悠真じゃねぇか!」
振り返ったそこに居たのは、やや赤茶けた髪の、なんとも落ち着きのない男子学生。
すると、結衣さんがさっと踵を返し、私とその男との間に割って入った。
「もう、突然叩いたりしないでっ。秋次……、んんっ、悠くん、びっくりしてるじゃないっ」
「なんだよ、マネージャー。どんだけ悠真が好きなんだよ。こんなに元気になってんなら、早く練習来させろよ。見舞いだってずっと断りやがって。お前の仕業か、柏餅め」
「柏餅じゃないっ。柏森っ、柏森結衣よっ? 仕方ないじゃない。周りぜんぶ知らない人ばっかりなんだから、会えば会うほどストレスになるのっ」
結衣さんが怪訝に眉をひそめて、思い切り口を尖らせている。
なんなのだ、この小学生のような男は。
「俺と会ったら記憶なんてすぐ戻るのにっ。悠真、もう練習できるんだろ? 来週、練習試合があんだけど」
「サッカーもまだ無理なのっ」
「お前、マネージャーの役目を果たせよなっ? なぁ、悠真、今日から練習に――」
「ちょっと」
手を延ばして結衣さんが制止しようとした瞬間、その男は無遠慮にも結衣さんの肩に手を掛け、それからずいぶんとぞんざいに押しやった。
「おいっ!」
思わず声が出た。
「ひっ? な、なんだよ、悠真」
私は活火激発の寸前で手を止め、それから刺し貫かんばかりの憤激を秘めた眼光を男へと放った。
「え……? ええっと、なんだよ悠真。俺、なんにもしてないじゃん」
「それでも男かっ。女に手を上げるとは」
私の言葉に、結衣さんがハッとこちらを振り返る。
「悠くん、大したことじゃないの」
我に返る。
私は無意識に入っていた腹の力を緩め、それからゆっくりと息を吐いた。
「なんだよ、ほんとに忘れてやがんのか」
「だから言ってるでしょ? 不安でいっぱいなんだから、あんまり刺激しないで」
「マジかよ。ふーん、それなら一応自己紹介な。俺は赤坂翔太。お前とは同じサッカー部だ」
男は腰に手を当て、実に居丈高だ。
私が男の言葉になにも返さずただじっと睨み付けていると、結衣さんがもう一度、ゆっくりと私と男の間に入った。
そして顔半分振り返り、小声を向ける。
「赤坂くんはサッカー部で、悠くんが雷に打たれたとき一緒にサッカーの練習してたの。そして悠くんとは同じクラスよ。お願い、ケンカしないで」
結衣さんのその言葉に私はぐいっと口を一文字に結び、それから結衣さんの肩越しに男に視線を向けた。
赤坂なる男が、ニヤリと口角を上げる。
「倒れた悠真を最初に抱き起こしたのは俺なんだぜ? まぁ、それも忘れてんだろうな」
「そうか。それは手数を掛けた。礼を言う」
「は? なんだそれ。演技なら大概で臭いぜ?」
「演技?」
拳を握って一歩踏み出そうとしたところに、再び結衣さんが立ち塞がった。
じっと私を見る結衣さん。
そして、その唇が声無く動く。
『秋次郎さん、お願い』
私は小さく、「すみません」と息を吐いた。
するとすぐに、結衣さんの向こうで赤坂なる男が声を上げる。
「あーあ、なんか面倒くせえなぁ。まぁ、練習試合までには俺のこと思い出してくれよー? 記憶喪失ちゃん!」
再びバシッと乾いた音が鳴る。
通り過ぎざまにこれでもかと私の背中を叩くと、赤坂なる男子学生はケラケラと笑いながら駆け出して行ってしまった。
非常に不愉快だ。
「ごめんね、秋次郎さん。あれはあれで一応心配してるんだと思うから、気を悪くしないで」
「あれで? はぁ、未来人の感覚はよく分からん」
「ごめんね。あ、先生だ。悠くんの担任の先生だよ? じゃ、お昼にね」
「はい」
職員用だという玄関の前。
担任だという戦車のような大柄の教師が現れ、私を結衣さんから引き離して学級へと連れて行った。
この教師、なにやら陸軍が『チハ』だとか、『チホ』だとか言っていた戦車のように厳ついというのに、教える学科は英語だという。この教師のどこを叩けば、そんな繊細さが出てくるというのだ。
学級へと連れて行かれ、見世物を見るような級友らの衆目の中で座れと言われた席は、一番窓側列の最後尾であった。




