1-2 もうひとつの日本(2)
少しの間があったあと、女が踵を返しながらやや落胆した様子で言葉を投げた。
「紅茶、冷めないうちに飲みなさい? それから私のことは、『お母さん』だからね」
女がそう言って台所へ戻ったとき、玄関のほうに気配がした。
ガチャガチャと外からの開錠音がして、続けて男の声が響く。
「ただいまー」
同時に女が私に笑顔を見せた。
「お父さんよ。お帰りなさーい」
悠真の父親、陽平なる男が帰ってきたのだろう。
しかし、女房たるこの女は声を張り上げたあと、その場を動こうとしない。
主人が帰って来たのに、出迎えもしないとは。
ドスドスと廊下を踏む足音が近づき、程なく居間の入口にでっぷりと肥えた男が姿を現した。
この戦時下にぶくぶくと肥えよって、なんたる不徳。
女は相変わらず台所に居たが、男はそれを意に介す気配も無く平然と私に声を掛けた。
「悠真、お帰り」
「え? はぁ」
こやつの不徳ぶりに虫唾が喉を突きそうになっていたところ、続けて見せたそのだらしなさがさらが鼻につく。
背広姿であるのに、どこで外してきたのか、ネクタイをしていない。
しかも、その背広を男は自分で脱いで、壁の衣文掛けに掛けようとしている。
思わず台所を見た。
女は鼻歌など歌いつつ、料理に没頭している。
目を疑う。
なにをしておるのだ。
早く夫から背広を受け取って、夫に代わって衣文掛けに掛けないか。
「どうした? 悠真。俺はお前のお父さんだ。『おかえり』くらい言ってくれよ」
「す、すみません。おかえりなさい」
男は部屋着に着替える途中で私の頭に手を置き、「俺のことは思い出さなくてもいいぞ」などと虚勢を張っていたが、その所作を見れば息子の無事を喜んでいるのは一目瞭然であった。
「さ、お昼にしましょ」
程なくして、女が肉味噌を絡めた細マカロニを皿に盛り、台所の端の洋机に並べた。
三人の昼餉。
男も女も私を気遣っているのか、なにやら他愛ない話を大げさに笑いながら話し合い、時折、無言の私に会話を振っては笑顔を振り撒いていた。
女が作った細マカロニは、びっくりするほど旨かった。
物資が不足している戦時下で、このような旨い食事にありつけるとは……、いや、既にここが戦時下でないことは明白だ。
我々軍人は米の飯を口にできても、市民は唐芋にさえありつけないはずだ。
それではいったい、ここはどこなのだ。この男と女は、いったいなにをしているのだ。
食後に案内されたのは、二階の洋室。
二方向に大きな窓があり、実に明るく快適な部屋だ。
「ここが悠真の部屋よ? いろいろ見て、早く思い出してね」
窓から外を見ると、春らしい青空の下に新緑を揺らす小高い山が厳然としていた。
やや坂となった前の道路は、こんな山の上だというのに、まるで東京のようなアスファルトが敷かれている。隣も道を挟んだ向かいも、その裏手に見えるのもぜんぶ戸建ての家のようだ。
空襲に備えた防火水槽や防空壕の入口もなく、見上げても空に戦闘機や爆撃機の姿はない。
溜息が出た。
それから夕餉となるまで、私はこの大掛かりな仕掛けの謎を解かんと、まずは家の中をつぶさに観察して回った。
洗面台、風呂、便所と、この家の中を見れば見るほど、その不思議さに驚かされた。
火を焚いていないのに熱い湯が出て来る、捻らずに取っ手を上げ下げする蛇口。
誰が考えたのか、巻物のように引き出して使う、ちり紙。
便所に至っては、釦を押すと尻を洗う水が噴出する始末。
甚だ不思議だ。
小説の中にしかなかった世界が、いま眼前にある。
日が暮れて、女が腕に縒りを掛けて拵えたと豪語した夕餉を頂き、いよいよその旨さに瞠目した。
「悠真、ご飯食べたら、今日はもうお風呂に入って寝なさい。明日は土曜日で学校はお休みだけど、月曜からももうしばらくは休んだほうがいいわね。お母さんも明日は休みだから」
「土曜なのに学校が休み? いや……、しかし、父さまより先に風呂を頂いては父さまが……」
「え? いいのよ? そんなこと気にしなくて。ね? お父さん」
男が白米をほおばったまま、私に顎をしゃくる。
「おう、さっさと風呂入って寝ろ」
「はぁ」
一番風呂を譲るなど、この男は一家の大黒柱としてなんと威厳が無いことかと、私は改めて閉口し、そして居間を後にした。
悠真なる少年の部屋で、おもむろにベッドに横たわり天井を眺めた。
明日こそ、この夢が覚めるだろう。
明日の朝になって目が覚めれば、きっと私は軍の病院で寝ており、いま見聞きしていることは昏睡状態の私が見ている夢だった、という結末になるはずだ。
そうでなくては困る。
「お風呂にはいりなさーい」
階下から女の呼ぶ声が聞こえたので、箪笥からひととおりの着替えを拝借して風呂へ向かった。
説明によれば、この湯は電気で沸かしているとのこと。
戦闘機や高空爆撃を行う爆撃機には電熱航空被服があるが、これだけ大量の水を短時間で湯にするとなると、電熱服など比べ物にもならない発熱能力が必要だろう。途方もない技術だ。
風呂から上がり、悠真の寝巻に着替える。
廊下は、昼の白い電球とは違う、ぼんやりとともる黄色い灯りに照らされていた。
この灯りのほうがしっくりくる。
ふと、我が家を思い出した。ところどころ剥げ落ちた土壁と、そこに開いた四角い穴に灯る電球が、風呂場と土間を共に柔らかに照らしていた、我が家。
ここは、あまりにも清浄だ。
到底、庶民が暮らす家とは思えない。
ふと目を移すと、廊下の突き当りにある居間からは、真っ白なあの光と併せて、ガヤガヤと騒がしい黒板映画の音声が漏れ出ている。
この夢の終わりに、一応、あの男と女に最後の挨拶をしておくか。
そう思い、私はゆっくりと居間のほうへ歩みを進めた。
柔らかな淡黄の下で、居間の戸に近づく。
すると、その奥から映画の音声に混じって、女のすすり泣きが聞こえた。
男と女が話をしている。
「悠真は……、もう元には戻らないのかしら」
「亜紀子、泣いたらダメだ。大丈夫。きっと治るさ。焦らず待とう」
「私たちのことも結衣ちゃんのことも、小さかったときの楽しい思い出も、みんなみんな忘れてしまったのよ? あなた平気なの?」
「そりゃ平気じゃないさ。でも落ち込んでいても仕方ないだろう? 自分が誰かも分からないなんて、一番辛いのは悠真本人だと思うぞ?」
「……そう、そうよね」
戸の取っ手に掛けた手を、じわりと引っ込めた。
なんなのだ。
これは、やはり仕掛けではないのだろうか。
仕掛けならば、私が見ていない処でこのようなやり取りをする必要はない。
じっと手を見る。
横田悠真の手。
おそらく、この男女らは本物の悠真の両親で、悠真が幼かったころからずっとこの手を愛しんできたのだろう。
「僕らは悠真に負担を掛けないように、楽しい毎日にしてあげようじゃないか。必ず治ると信じよう」
「うん……、分かったわ」
「そうだ、結衣ちゃんに頼んだらどうだろう。ひとりっ子同士、まるで兄妹のように過ごして来たふたりだ。悠真も結衣ちゃんと一緒にいれば、きっといろいろ思い出すだろう」
「そうね。結衣ちゃんに話してみるわ」
そうか、なんとなく理解ができた。
ここでは、父親の権威と徳で家を治めるのではなく、夫婦が対等に責任を負って、互いに力を合わせて暮らしているのだ。父親の威厳がないのではなく、そういう世の中なのだ。
きっと、この夫婦にとってひとり息子の悠真は宝物であったろう。
幼い時からの記憶を失くし、両親のことさえ忘れてしまったとすれば、それは息子を失ったも同然だ。その気持ちは、海軍に息子を送り出した私の両親のそれと同じだと言える。
結衣という幼馴染みにしても、それは変わるまい。
結衣と悠真は、おそらく恋仲であるのと同じくらいに親密な幼馴染みだったのだと思う。この両親が、隣家の娘である結衣を至極信頼していることから、それが手に取るように分かる。
私の母親も私のことで困ったとき、よく幼馴染みの志保に話をしていたようだ。
兄姉弟妹よりも、もっとずっと深い絆で結ばれている幼馴染み。私にとって志保がそうであったように、悠真にとっても結衣はそうであったに違いない。
私はどうするべきなのか。
この世界で、どう振舞うべきなのか。
そっと戸を離れ、私はゆっくりと背を向けた。
結局、私はそのまま彼らに声を掛けることなく、なんとも理解し難い感情がむくむくと胸の奥から湧き上がってくるのを感じながら、二階の部屋へと戻った。
床に就く前、もう一度鏡の前に立ってじっくりと自分の顔を見る。
頬を触り、前髪を掻き上げた。
鏡に映し出されている顔は、間違いなく私ではない。
横田悠真という、私よりも八歳も若い少年の顔だ。
どれだけ眺めても、何度触っても、私のこの手には私の顔という感触があるのに、映して見てみればそれは私ではないのだ。
さらに、ここは明らかに私が暮らしていた大日本帝國ではない。
よく日本と似てはいるが、なにか空想小説にでも出てくるような異世界という感じだ。
落雷による傷の痛みはまだ少し残っているが、医者が処方した鎮痛剤が良く効き、今のところ顔をしかめるほどの痛みはない。
それにしても、私が悠真の体に乗り移ってしまったのなら、当の悠真はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。
とにかく、今日はもう休もう。
もし、明日の朝になってもこの非現実の世界が継続していたならば、このもうひとつの日本のことについて、母親にいろいろ尋ねてみようと思う。
できればもう一度、あの結衣という娘にも会ってみたい。
そんなことを考えつつ床に就くと不意に、これがもし現実ならば、私は軍人としての死に場所を失ったのだという絶望にも似た喪失感と、もう戦地に赴かなくてもよいのだという軟弱極まりない安堵感が、同時にとりとめもなく湧き上がった。
「私は帝国軍人だ」
掛け布団を引き寄せ、私は喉の奥で何度も何度もそう呟いて抗ったが、そのうちに廊下の甘い香りと同じような得も言われぬ安堵が喪失を打ち負かして、私を泥のように床へと沈ませたのだった。




