4-5 彼方の光へ(2)
回避運動を繰り返す。
悠真くんは必死に歯を食いしばっている。
私は、馬力では絶対に敵わない奴をひっぺがそうと真っ直ぐ縦に上昇し、その頂点で逆舵を切って機体を捻った。
捻られた機体は上空でふわりと速度を落とし、あっという間に奴の後方に付ける。
『十八番の左捻り込みだっ。海軍航空隊をなめるなっ!』
「撃ちますっ!」
次の瞬間、悠真くんが左手で二〇ミリ機銃の引き金を引いた。
世界で類を見なかった強力な機関銃の戦闘機への搭載。零戦に搭載された二〇ミリ機銃の弾丸は、一発でも当たれば戦闘機が粉々になる化け物のような機関銃であった。いま、まさに火を吹いた二〇ミリ機銃が前方のP-47を捉える。
パンッと乾いた音がして、奴は翼の根元から黒煙を吐き出した。
通常なら、撃墜を見届けて隊にモールス信号で報告するが、いまの我々にはその後がどうなったかはどうでもよかった。
すぐに機首を起こして、前方上空で悠々と爆弾を落としているB-29に意識を集中する。
見える。見えるぞ。
全天を覆うかのごとく我が物顔で街を蹂躙するB-29の大編隊の中で、その一機だけが私の目には全く違う機体に見えた。
機体の周りに蝶の鱗粉のごとき鮮やかな光の帯をまとい、さらにその光の帯は天女の羽衣のごとく長く長く機体の後ろに尾を引いている。
こいつだ。
こいつが、志保の命を奪うに違いない。
『悠真くんっ。あいつを墜とすぞっ』
「はいっ!」
『いいかっ、奴を機銃で墜とすのは不可能だっ。手段はたったひとつ』
「覚悟はできていますっ!」
『正面から突っ込み、相対する奴の速度によってその破壊力を倍増させるっ』
スロットルレバーを押し込んだ。
発動機がぜえぜえと息つく。
びりびりと翼が鳴り、我々の零戦は大きく弧を描いて、鱗粉をまき散らす異様なその巨大爆撃機の正面へと躍り出た。
回避するB-29。
しかし、逃さん。
『いいかっ、悠真くんっ! この時間線における川島秋次郎の肉体が消え去れば、私も君もここでの居場所を失うっ。君は魂の通り道へと入った瞬間、呼ばれた名に振り向くのだっ!』
「いえっ! 靖国までお供しますっ!」
『君の本当の肉体は、いま、結衣さんと二瀬と共に君の帰りを待っているっ! いまの君なら、結衣さんを一生護って幸せにすることができるはずだっ!』
B-29から放たれた機銃の弾丸が、何発も何発も命中している。
それでも私は、照準器の向こうの奴から目を逸らさない。
「散るのは恐くありませんっ!」
『そうではないっ! 散って護るは勇気、生きて護るはさらなる勇気だっ! 結衣さんのためにっ、君は帰るのだっ!』
「上飛曹……」
『これは私の願いだっ! 彼女は……、結衣さんは私が、この川島秋次郎が心の底から護りたいと願った女だっ! 現代の世で、現代の娘らしい天真爛漫さで人を思いやり、慈しみ、そして心を尽くすことができる、私が本当に心から護りたいと願った、大輪の華だっ!』
B-29が眼前に迫る。
一発の弾丸が機体を貫通し、炎が勢いよく噴いた。
風防ガラスが割れて、右のこめかみをざっくり引き裂く。
『志保を、大切に思ってくれてありがとう。戻ったら、結衣さんと二瀬に伝えてくれ。会えてよかったと。本当にありがとう……と』
「上飛曹っ! 僕はっ」
見ると、翼の上に蛍のような光が舞っている。
その向こうに、目の覚めるような蒼天がどこまでも続いているのが見えた。
そうか。
皆、私と共に行ってくれるのか。
眼前に迫る鱗粉をまとうB-29が、断末魔の一斉掃射を放った。
何発も何発も、私の零戦に機銃の弾丸が命中している。
発動機はまだ回っている。
焼夷弾は、未だ奴の腹から垂れ流されている。
まだだ。まだ落ちるわけにはいかない。
そのとき、背後から声が聞こえた。
『秋次郎さん!』
ああ、この声を聞き違うことはない。
耳の奥に響いたのは、私の名を呼ぶ結衣さんの愛らしい声音。
思わず胸が高ぶった。
しかし、私は振り向かない。
視界いっぱいになったB-29。
次の瞬間、目を覆わんばかりの金色の光が足元から噴き上がり、一瞬にして私を飲み込んだ。
零戦の翼が見える。
その下に、石畳に横たわる横田悠真の体を揺さぶりながら、なにかを叫んでいる結衣さんと二瀬が見えた。
志保の鏡が割れている。
割れた鏡の破片がそこかしこに散乱して、まるで砂金のようにきらきらと輝いている。
『結衣さん、二瀬、彼の名を……、悠真くんの名を呼んでやってくれ』
喉の奥で呟いた、その言葉。
それが金色の輝きの中で響くと、突然、その光は輝度を上げ、眩い純白の波となって、音もなく私の視力を奪った。
『悠くん!』
『悠真くん!』
どれくらいそうしていたのだろう。
我に返ると、私はただ立ち尽くしていた。
耳に届く、さざ波の音。
清涼な潮風が優しく頬を撫で、いつのまにか解けて垂れ下がっていた飛行帽の顎紐を揺らした。
おもむろに、飛行帽を脱ぐ。
じわりと視界が開けると、そこは蒼天の下、ゆらゆらと光の帯を揺らす大海。
その大海を背景に、空母の飛行甲板のごとき真っ直ぐな足元がずっと向こうまで続いていて、そこに立つ私の横には、粉々になったはずの三二型が地に脚を着けて厳然としていた。
発動機は回っていない。
B-29が放った弾丸の痕もなく、まるでついさっき工廠から送られてきたかのごとく、その機体は実に美しい光沢を放っていた。
悠真くんは居ない。
そこにはただ、飛行服姿の私、川島秋次郎上等飛行兵曹がひとり、きらめく海を眺めながら、愛機の傍らに立ち尽くしているだけだった。
遠くで、サクソフォーンが美しい旋律を奏でている。
いつか聴いた、あの四重奏。
その音色が心に浸潤し始めたとき、再び背後で声が聞こえた。
『秋次郎さん』
呼ばれた、私の名。
振り向こうとして、躊躇する。
しかし、すぐにそれが、ひどく懐かしい、そしてなにものよりも大切に思ってきた、彼女の声音であることに気が付いた。
ゆっくりと、振り返る。
『秋次郎さん……』
潮風に揺れる、清楚なセーラー。
あの色褪せた写真から、鮮やかな色彩をまとって抜け出て来たような、その姿。
『志保……』
『はい。やっと会えました』
『もしや、お前が私を呼んでくれたのか?』
『いいえ、秋次郎さんが私を呼んでくれたんですよ? 私はずっと待っていただけ』
『私が呼んだ?』
『はい』
ゆらりとした、懐かしく愛らしい笑顔。
背景の雲ひとつない蒼天。
そのずっと向こうに、数多の輝く光が空を駆けてゆくのが見えた。
それはまるで虹のように、輝きを放ちながら天を渡る帯となった。
『そうか、そういうことか。ずいぶん待たせてしまったな。寂しかったろう?』
『まぁ、ずいぶん優しい言葉。結衣さんのおかげね』
『そうだな。彼女に会えたおかげだ』
『それなら、それはすべてあなたたちのおかげ。あのとき、私を護ってくれたからこそ、結衣さんへ命を繋ぐことができたのだから』
『私は、ちゃんと護れただろうか』
ゆっくりと頷いた志保。
セーラーがふわりと揺れて、志保がそっと私の手を取った。
真っ直ぐで曇りない瞳が、私を見上げる。
『さあ、私たちも行きましょう』
『ああ、みんな、待ってくれているのだろう? あの向こうで』
『はい。あの光の向こうで、みんなみんな』
私は、少々私らしくない笑みを志保へと向け、それから零戦の翼へ飛び乗った。そして、そっと手を伸ばし、しっかりと志保の手を引いて翼の上へと引き上げた。
見ると、翼の下から金色の光の粒が、風に吹かれたように舞い上がっている。
見渡すと、そこは光る平原。
私は、風防を開け放った操縦席へ志保を座らせると、それから、その縁に肘を掛けて翼の上で志保に寄り添った。
握った手は放さない。
『やっと……、みんなのところへ行ける』
『私もです。やっと……』
そのうち、金色の光の粒が私たちを包み尽くすと、零戦はゆらりと浮かび上がった。
まだ、サクソフォーンの旋律は聞こえている。
艶やかなその音色が、私たちを高く高く昇らせてゆく。
目の覚めるような蒼天。
遥か遠い彼方へと続く、長い長い光の帯。
その旋律が、その光の帯が、私たちをそこへと導いたのだ。
勲や、両親や、戦友たちが待つ、その限りなく尊く、限りなく安寧な世界へと……。




