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4-4 蒼天、再び(2)

 ここが始発。

 物も言わず、皆でそのバスへと飛び乗る。

 客は我々三人だけだ。

 バスの中ほどの席へと腰を下ろすと、結衣さんが私の隣に腰掛けてそっと耳うちした。

「兵隊さん、お供いたしますね」

 一生忘れられぬ、その愛らしい笑顔に私は小さく頷いた。

 程なく、ごうごうと発動機を荒らげて、いつもの道程を追い始めたバス。

 目指すは、我らの学び舎の南、丘の上で鬱蒼と茂る木々に護られた、あの神社だ。

 バスの車窓を流れていく街並みは、いつもと全く変わらない。

 初めてこのバスに揺られ、あの学び舎へと足を踏み入れたとき、私はなんとも言えない虚無感に襲われた。

 建物の色彩こそ鮮やかで見栄えよいが、作りはまるで病院のように無味で、おおよそ『学び舎』という言葉が似合わぬ佇まいだと、そう思った。

 しかし時が経ち、死を覚悟しなくてよい世界を知り、結衣さんの隣で安穏な学園の日々を過ごすうちに、無味だと感じていたあの建物も、青春を謳歌するに相応しい趣ある姿だと感じるようになった。郷愁と共に思い出に刻まれる学び舎に、今も昔もないのだと……。

 おそらく、昭和二〇年に生きていた私なら、こうは思わなかっただろう。

 学び舎はこうあるべきだ、学生にとっての趣ある姿とはこうあるべきだと、伝統と称して形式にこだわり、大儀と称して面子にこだわり、柔軟に事物を評価できずに知るべきを知り得ず、学ぶべきを学び得ずに居ただろう。

 今ならそれが分かる。

 その結果が、軍国日本だったのだ。

 無益な精神論を振りかざし、数多の若き命をみすみす大空に散華させた、大罪を犯した我々の軍国日本だったのだ。

 悠真くんを、その犠牲者にしてはいけない。

 いまの彼を支配しているのは、現代の日本人が箪笥の奥にしまい込んでしまった、愛するものを護るためにその命を捧げることも厭わない、それが美しく、そして潔いのだと愛の真髄を(うた)う美学……、そう、美学中の美学だ。

 その志が、その高潔の雄志が、完全なる誤りであったとは言わない。

 その思いがあったからこそ、いま、現代の日本はこの平和を手に入れることができたのだ。

 しかし、その愛の神髄を戦争という方法で体現化せんとしたのは、間違いであったと言わざるを得ない。

 いま、悠真くんはその渦中に居る。

 あの美学中の美学を体現するのは、我々、昭和二〇年の人間だけで充分だ。

 それを勇気だとして誇りと使命感の具現とするのは、あの時代を生きた我々だけで充分だ。

 現代には、現代の愛に満ちた勇気がある。

 それをもう一度、悠真くんに正しく伝えなくてはならない。


 

 高校の坂下の、いつもの停留所。

 バスを降りて見上げると、もうずいぶん見慣れてしまった我が学び舎が、朝日を受けて葉の朝露のようにキラキラとしていた。その美しいさまに感嘆した己に少々滑稽さを感じながら、ゆっくりと塀沿いに南を目指す。

 見ると、すぐ脇の幹線道路には活気に満ちた自動車の流れができ始めていた。その頭上では、二段に重なった巨大な陸橋道路が生き物のような曲線を描いている。

「石段にあるふたつの鳥居、ちゃんとくぐって行こうね。神さまに失礼が無いように」

 立ち止まった二瀬が、木々に埋もれた石段を見上げながら笑顔で言った。

 以前三人で来た、高校の南の丘にある古い小さな神社。

 石段を上り詰めたところを左に折れると、ひなびた社が我々を出迎えてくれた。

 小さな拝殿の奥で顔を覗かせる、慎ましやかな本殿。その格子の向こうの暗がりで、薄曇りの夏空から降り注ぐ雲灯りを受けたご神体の丸鏡が、やや鈍い光沢を放っていた。

 社の手前の石畳では、両脇から狛犬が見守っている。

 石畳へ上がる数段の階段の右端に飛び乗って、二瀬が満面の笑みで振り返った。

「ねぇ、ここで座って待たない? 空襲が始まるまで、もう少し時間があるから」

「そうね。ふたりとも、朝ごはんにしよ? サンドイッチ作って来たの。コーヒーもあるから」

 そう言って、ふたりが階段に足を投げて石畳へと腰を下ろした。

 社に向かって右に二瀬、左に結衣さんが陣取り、ふたりがすっと私を見上げる。

 私は小さく頷いて、志保の鏡を石畳へそっと置くと、それからふたりの間へ腰を下ろした。

 結衣さんが雑納からセルロイドの容器と水筒を取り出して、軽食と珈琲を振舞う。

 何度となく、結衣さんに淹れてもらった香しい珈琲。

 誰も言葉を発しない。

 ただただ、得も言われぬ珈琲の香りがまろやかに我々を包み、木々に反射して遠くなり近くなりする蝉の声が、染みわたるようにさざめく森の安寧にこだまするのみであった。


 眩い光。

 次に気が付いたのは、瞼越しに強烈な光源を感じたときだった。

 朦朧としたまま、ゆっくりと目を開ける。

 正面に社の天井が見えた。実に趣深い、太く立派な(はり)が棟を支えている。

 私はすぐに、己が石畳に横になっていることに気が付いた。

 すぐに右を見る。すると、私と同様に、石畳に横になった結衣さんがこちらを向いて寝息を立てている。

 左を向くと、二瀬も気を失ったように横になっていた。

 首をもたげて見回すと、先ほどまでの薄曇りの空が嘘のように、社の外に抜けるような蒼天が広がっている。

 ハッとした。

 この蒼天には、見覚えがある。

 その瞬間、突然に私の意識は明瞭となった。

 私は撥ねるように立ち上がり、さらに見回す。

 一点の曇りも無い蒼天。

 見渡す限りの彼方まで続くその空は、この世のものとは思えないほどの清らかさを湛えている。

 私は振り返って見下ろし、石畳に横たわるふたりの名前を呼ぼうとして口を開いたが、すぐにそれを思い留まった。

 もしかするとここは、『魂の通り道』の中かもしれない。

 ここでふたりの名を呼んではいけない、ここへ彼らを招き入れてはいけない、そうすぐに思い直した。

 風が吹いている。

 振り返ると、我々が上って来た石段のほうから実に清々しい風が吹き、さらりと私の頬を撫でた。

 ふと、石畳を見渡した。

 鏡が無い。

 なぜか、石畳へ安置したはずの志保の鏡が見当たらない。

 ゆっくりと石畳から離れ、先ほど上って来た石段へと足を向ける。

 風がそよいでいるのに、両脇の木々の葉は全く揺れていない。まるで写真のようだ。じわりと石段を見下ろし、私はそれから一歩一歩踏み締めながら、石段を下り始めた。

 鳥居が見えた。

 上って来たときと同様、その鳥居は石段の途中に厳然と屹立していた。

 見上げると、石段の両側から身を乗り出す木々は時を止めたように静止しつつ、その梢の隙間に透ける蒼天を見え隠れさせている。

 ぞわりとした。

 鳥居の足元まで来たとき、突然、なにかが背筋を触る。

 鳥居の向こう。

 足元の石段は、鳥居をくぐってさらに下へと続いている。

 しかし、鳥居の向こうに見える石段は、手前のそれとは明らかに違って見えた。

 背景の抜けるような蒼天は変わりない。

 ところが、鳥居の向こうの石段は燦燦と降り注ぐ陽光に照らされ、砂浜かと見紛わんほどにちりばめた砂をきらめかせている。

 鳥居の直近で立ち止まり、その向こうを覗き見た。

 すると、鳥居の向こうの両脇の木々はどれも青々とした若木で、見上げると陽光を遮るほどの生い茂った古木はなく、眩さが易々と石段へ届いていた。

 ゆっくりと手を伸ばす。

 ゆらりとする風景。

 見ると、鳥居の笠木と両脇の堂々たる柱で囲まれた四角の面が、まるで鏡面のように、そこに見えない境界を作り出していることに気が付いた。

 そうか、ここが短絡点か。

 目を凝らすと、下のもうひとつの鳥居の先に、石を乗せたバラック屋根が立ち並んでいるのが見えた。

 昭和二〇年八月八日。

 街はまだ煙を上げていない。

 私は見えない境界にさらに手を伸ばし、一瞬ためらった。 

 この短絡点を超えてこの魂を肉体から解放すれば、私はあとは天へと続く魂の通り道の一方通行路へと進入する。

 誰かに名を呼ばれても、自らそれに応えなければ、私は二度とここへ戻って来ることはない。

 振り返り、石段を見上げた。

 あの上り詰めを左へ曲がった先、社の前の石畳には結衣さんと二瀬が居る。

 別れは告げずに行こう。

 そう独りごちて、私はしっかりと拳を握った。

「魂の通り道よっ、悠真くんのところへ導いてくれっ!」

 私はそう叫び、そして次の瞬間、思い切りその鳥居の中へと飛び込んだ。

 ぐにゃりと周囲が歪む。

 それと同時に、こだました叫びが徐々に音量を増し、そのうち(すり)(ばち)を掻き回すようなじゃりじゃりという耳障りな雑音へと変わったかと思うと、突然、ピシッと薄いガラスが割れるような音がして、私の耳にはなにも届かなくなった。


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