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4-4 蒼天、再び(1)

【その、八月八日の八幡大空襲に悠真くんが出撃してしまうってこと?】

【そうだ。志保が居る街が襲われていると知れば、彼は絶対に護ろうとするだろう】

 結衣さんを家へと送ったあと、私はすぐに二瀬へと文字通信を飛ばした。

 私が居る現代と、悠真くんが居る昭和二〇年の世界は奇怪な時間線の短絡で重なり、ときに生じる不可解な短絡点を通して干渉し合う。

 そしてなぜか、このふたつの時間線は、全く同じ日付で時を刻んでいるのだ。

 結衣さんの誕生日であった今日は、八月七日。

 そして、あと一時間弱で、日付は八月八日となり、こちらではなんの変哲もない夏休みの朝を迎え、あちらでは二〇〇機を超えるB-29が襲い掛かる、大空襲の朝を迎えるのだ。

【そうなんだ。一応、僕は川島秋次郎上飛曹の出撃記録も調べたんだけど、ちゃんとした記録を見付けられなかったんだ。いつかの日付も場所も載ってない戦没者名簿だけ】

【やはり、あちらは我々とは違う時間線の世界なのだろうか】

【それも分からない。もしかしたら、秋次郎さんが戦後を生きる時間線なのかもしれない。でも、とにかくこの短絡が起こっている間に、悠真くんと秋次郎さんを元に戻さないと】

【どうすればいいのだ】

 そこで、返信が一時途絶えた。ふと、鏡台へと目をやる。

 思えば、なんという偶然だろう。

 謎の現象に飲み込まれ、目を覚ましたときに見知らぬ少年となり、一時は死さえ脳裏をよぎった。そして、その絶望を拭い去ってくれたのは、志保によく似た幼馴染みの少女と、勲のように聡明で博識な親友。

 偶然にもその少女は志保の曾孫であり、そして偶然にも、私はこの志保の鏡台と再会した。

 大空襲の際、この鏡台はおそらく宮町本家近くの空家で暮らしていた志保のもとにあったはずだが、かの地が見るも無残な焼野原となったにも拘わらず、偶然にも焼失を免れて、いま私の眼前にある。

 果たして、これらは本当に偶然なのだろうか。

 私がこの世界へ来たこと、志保の忘れ形見の結衣さんと出会ったこと……、それらがもし偶然ではなく、何者かによって導かれた、あるいは、仕組まれたものであったとしたら……。

 私がかの昭和二〇年へと帰ることは……、正しいのだろうか。

 短絡点を超え、悠真くんを連れ戻し、私がかの世界で再び川島秋次郎となることは、許されることなのだろうか。

 もしや、誰かを助けるために、何かを良い結果へと導くために、私はその仕掛けの一部として、この現代へと移動させられてきたのではないだろうか。

【秋次郎さん、明日の……、いや、もう今日だね。今日の朝、ちょっと早い時間に家を出て、あの神社へ行こう。志保さんの鏡台の鏡を持って】

 ハッと我に返る。

 下手の考え休むに似たりだ。

 例え、私が仕掛けの一部で、他の大きな力のうねりを受けてここへやって来たのだとしても、既に我が天命は決まっている。

 なんとしても、それが他が追求する幸福を失わせることになるとしても、私は悠真くんをこの現代へ帰すのだ。結衣さんの隣に、彼のあの柔和な笑顔を取り戻すのだ。

 それが、結衣さんを護ろうと決めた、私の天命だ。

【そうだな。志保の鏡台が我々の思いを届けてくれるよう、あの場所で願おう】

【柏森さんは、どうする?】

【勝手に行くなと釘を刺されたからな。もちろん、三人でだ】

【うん。三人で】


 薄曇りの朝。

 山の稜線をくっきりと描き出す陽光が、横たわる紫の厚雲の輪郭を空に溶かしている。

 台から外した、志保の鏡台の鏡。

 色褪せた鏡覆いでしっかりと鏡面を護りながら、脇に抱えて玄関へと赴く。

「あら、悠真、どうしたの? こんなに早く」

「あ、お母さん、おはようございます」

 上がり框に腰掛けて靴紐を結ぶ私の背中に掛かったのは、得も言われぬ優しい母の声。

 私は立ち上がって振り返ると、壁に立て掛けた鏡をもう一度そっと脇へ抱えた。

「鏡台の鏡? そんなもの持ってどこ行くの?」

「今日は立秋ですので、鏡と共に山の主に残暑見舞いでもと思いまして。美しい木々のきらめきをこの鏡に見せてやりたいのです」

「残暑っていっても、まだ真夏よ? 鏡に見せるって――」

「お母さん」

 やや眉根を寄せた母親に、私は真っ直ぐに瞳を向けた。

 母親が言葉を飲む。

 私はそれからすっと背筋を伸ばして、そしてこれ以上ない慈愛を笑顔にした。

「お母さん、行ってきます。お父さんにも宜しく伝えてください」

 一瞬、動きを止めた母親が瞳を大きくした。

 ほんの少し動いた唇。しかし、その言葉は声にならずに小さく上がった口角の奥へと消えて、焦点の合わない瞳がゆっくりと足元へと落ちた。 

 私はその母親から目を逸らさず、さらに胸を張る。

「行って参ります」

 その私の言葉に、母親はハッと顔を上げて、そして小さく頷いた。

 その顔が、じわりと笑みを湛える。

「……うん。いってらっしゃい。気を付けてね。お父さんにも伝えておくわ」

 私はその笑みにもう一度小さく会釈をすると、それからゆっくりと回れ右をして玄関扉を開けた。

 ふわりと広がる、早朝のさざめき。

 小鳥のさえずりに混じって、もう遠くのほうで蝉の声が聞こえ始めている。

「悠真」

 背後で小さく母親の声がしたが、私は振り返らずに後ろ手で扉を閉めた。そして、その視線をすっと門のほうへと向ける。

 なんの変哲もない、薄曇りの夏の朝。

 見ると、組内の者しか往来しない閑散とした家の前の道路に、そのふたりの姿が見えた。

 門扉の前には、自転車を脇に据えた二瀬。

 そして、その向こう、道を挟んだ向かいの門柱前には、雑納のような大きな鞄を肩から下げている結衣さん。彼女は、いまにも鞄がずり落ちそうに肩を落とし、苦虫を噛んだような顔で地面を睨み付けている。

 それを気にしてか、二瀬は努めて朗らかに笑顔を見せた。

「おはよう、秋次郎さん。準備はいい?」

「ああ。付き合わせて済まない」

 そう言って私が頷き返すと、二瀬はゆっくりと結衣さんのほうへ流し目を投げた。それを受けて、私は小さく頷きながら二瀬の横を通り過ぎる。

 今から臨もうとしていることが、どのような結果を招くかは分からない。

 我々の思い描いたものが正しければ、私はこの鏡の力を借りて短絡点を超え、時間とは別にそこにある普遍の『魂の通り道』へと赴き、そして悠真くんの魂をこの現代へと呼び返すことができるかもしれない。

 逆に、そんな夢のような現象は全く起こらず、我々は社と石段を前に志保の鏡と共に呆けながら、ただ何も変わらぬ一日を始めるかもしれない。

「結衣さん」

 その正面に立ち、私は柔和な面持ちで彼女の顔を覗き見上げた。

「あたしは……、あたしは嫌な女です」

「どうしました?」

 真っ直ぐ下ろした両手をぎゅっと握りしめ、結衣さんが肩をすぼませている。

 私は、もう半歩、そっと結衣さんに近づいた。

 肩が震えている。

「二瀬くんからメッセージをもらって、それから眠れなかった。秋次郎さんを笑顔で送り出したい、そう思って、サンドイッチを作って、ポットにコーヒーも入れた。でも……、でも、魂の通り道なんて現れなければいいのにって……、そんなこと考えてる」

 振り返ると、二瀬は口を一文字に結んで眉尻を下げていた。

 私はゆっくりと結衣さんへと視線を戻し、それからやや腰を落として彼女を覗き見上げると、努めて柔和な声音を発した。

「結衣さん、では、こうしましょう。魂の通り道が現れなかったとき、あるいは、悠真くんと会えても彼がどうしても帰らないと言ったとき、そのときは、私は昭和二〇年へは帰らず、ずっと結衣さんの傍に居ることにします」

「えっ?」

「ずっと結衣さんの傍にいて、絶対に私が結衣さんを幸せにします」

 揺れる瞳が、ゆっくりと私を捉える。

 私は、真っ直ぐにその瞳を見つめ返し、そして小さく頷いた。

「それほどに、私を大切に思ってくれて本当に嬉しい。結衣さんは嫌な女などではありません。正直で、飾らず、そして誰よりも優しい……、私のような者をこんなにも大切に思ってもらうにはもったいない、素晴らしい女性です」

「秋次郎さん……」

「だからこそお願いです。悠真くんが現代へと戻る決心をしたなら、必ず名前を呼んであげてください。魂の通り道に連れ去られてしまわないように」

 結衣さんの両手を取り、じわりと力を込めた。

 結衣さんが、その愛らしい瞳にいまにも溢れんばかりの清き雫を湛えて、柔らかな笑顔となる。

「……はい」

 さっきまで耳に届いていた小鳥の声はいつの間にか消えて、辺りには力強い蝉の鳴声が響き始めていた。

 二瀬の声がする。

「ふたりとも、もうすぐバスが出る時間になるよ?」

 振り返ると、肩をすぼめた二瀬が満面の笑みで私たちを促していた。

 慌てて坂を下りる。

 停留所では、墓石バスが発車準備をしていた。


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