表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/37

3-3 解けかけの謎(1)

 飽和する光。

 無音の情景。

 両肩がとてつもなく重いなにかに押さえ付けられ、鏡面にぴたりと貼り付いている。

 そのとき、右腕がぐっと引かれた。

 見ると、結衣さんの姿が見え、私の右腕にしがみ付いているのが分かった。口を大きく開けて何かを言っているが、その声は聞こえない。

 左を見ると、そこに二瀬が居た。私の左腕を握って校庭のほうを指差しつつ何か叫んでいるが、やはりその声は聞こえない。

 二瀬の指す先にあるのは、ただただ清々しい蒼天。そのあまりの青さに目を奪われると、突然、地響きに似た振動が両足を這い上がった。

 咄嗟に足を踏ん張る。

 私を押さえ付ける力は衰えない。

 まるで、このまま鏡の中へ突き入って、そこに映った蒼天へと放り出されてしまうのではないかと思うほどの圧迫。

 私はその圧を撥ねのけようと、奥歯を噛んで首を前へと突き出した。

 負けじと目を開く。

 放心。

 美しい。

 私はこの空を知っている。

 そうだ、あの空だ。

 私が、この七〇余年後の世界へ来るきっかけとなった、あの故郷の上空で見た蒼天だ。

 図らずもそうして私が、放心する私をまるで他人のごとく客観的に感じたとき、突然、東の空が光った。

 目をやる。

 光る雲。

 そこに現れたのは、やはりあの時と同じ、光る雲だった。

 煌々と輝きを放つ光の雲が、いや、雲のように渦巻く無数の光点が、勢いよくこちらへ近づいてきている。

 これは、人を連れ去る光だ。

 私は思わず右腕を振り上げて、そのまま結衣さんを抱き寄せた。

 さらに左手で、二瀬の腕を引き寄せる。

 ふたりを護りたい。

 しかし、今の私には飛行機も機関銃も無い。

 一瞬、根拠の無い恐怖が私を支配した。

 それは、おどろおどろしい恐怖ではなく、私独りではどうにもならないという、無力感に似た恐怖だ。

 そのときだ。

 どこからともなく聞こえたのは、結衣さんによく似た、優しい声。

『秋次郎さん――』

 私の名が呼ばれた。

 その瞬間、私は結衣さんと二瀬のふたりを感じた。

 感触ではない。

 そこに彼らが居ることが、ありありと心の中に満ちてきて、そして彼らを感じたのだ。

 直後、突然に湧き出した勇気。

 空の上で、私はいつも独りだった。

 編隊を組み、部下とともに戦いに挑んでも、そこにあるのは常に独りの戦場だった。

 しかしいま、私は彼らと共にこの大地に踏ん張っている。

 ふたりが共にあれば、私は大丈夫だ。

 今の私は横田悠真。

 私に志保と勲が居たように、悠真くんにも結衣さんと二瀬が居る。

 そのふたりが、いま私と共にある。

 言葉にならないその勇気が湯水のごとくほとばしった次の瞬間、その静寂は突然に破られた。

 光の雲から聞こえた人声。

 聖歌隊の歌声のごとき、澄んだ声の重なり。

 それが、風音と共に耳に届いている。

 すると、迫っていた光の雲は速度を落とし、それからじわりと蒼天の下で静止した。

 うごめきは止まらない。

 そのとき。

「うっ!」

 光が弾けた。

 ドンと体が背後の鏡にさらに押し付けられ、眩い光が飽和して空気を満たす圧となり、爆発のごとく強烈な輝きが四方八方へと飛び散った。

 蒼天に炸裂した花火。

 次に地響きのごとき低音が耳に届き、あまりの眩さのために視野全体が白黒に明滅した。

 いまだ歌声は聞こえている。

 飽和した光の空を満たす、聖歌隊のような、どこまでも限りなく澄んだ歌声。

 心がゆらりとした。

 いかん、連れてゆかれる。

 今度は先ほどとは逆に何かに引き寄せられるような、首に手を掛けられて引きずられるような、不可解な感覚が走った。

 私はいよいよ足を踏ん張り、鏡に背を預けて結衣さんと二瀬を強く強く抱き寄せた。

 これだ。

 きっと私は、この力によってここへ連れて来られたに違いない。

「結衣さん! 二瀬!」

 私は何度も何度も、あらん限りの声を振り絞ってふたりの名を呼んだ。その叫びは声にはなっていない。私自身にもその声は聞こえない。

 抱き寄せた結衣さんと二瀬は、まだ間違いなく腕の中に居る。

 これでもかと奥歯を噛んで、顎を引いて目を瞑った。ぎりぎりと奥歯が鳴り、もう耐えられないと思った、次の瞬間。

 広がったのは、うねる波のごとき地響き。

 そして続けて訪れた、ぱちんと頬を叩かれたような感覚。

 歌声がふわりと途絶えた。

 同時に一切の力が抜け、私の背中がどんっと背後の鏡に密着する。

 勢いで顎が上がり、後頭部が思い切り鏡に叩き付けられた。

 耳の奥に聞こえた、脈打つ鼓動。

 ゆっくりと目を開ける。

 じわりと聞こえた、鳴りやむ寸前のサイレン。

 『黙祷を終わります』

 ハッと我に返った。

 右腕の中で、結衣さんが震えている。

 左では、二瀬は息を整えようとしてか、小さく肩を上下させている。

 風が頬を撫でた。

 見上げると、あの目の覚めるような蒼天は消え去り、そこにはどんよりと雲が垂れ込む曇天があった。 

 木々のさざめきが聞こえ、それからすうっと周囲の喧騒が戻る。

「ふたりとも、大丈夫か?」

 結衣さんからは、返事がない。

 二瀬が顔を上げた。

「秋次郎さんは大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 結衣さんはまだ、抱かれた肩を小刻みに震わせたまま下を向いている。

 見ると、足元には無造作に転げている我々の鞄。

 二瀬はゆっくりと私の腕を解くと、その鞄を拾い上げて私に真剣な瞳を向けた。

「もしかして、いまのって……。これ、いつか秋次郎さんが話してくれたあの空と同じ?」

「え? ああ、ここまでの眩さはなかったが、飛来してきたあの光の雲はとても似ていたと思う」

「そうか、やっぱり。僕……、少し分かったかもしれない」

 二瀬はそう言うと、ひょいと首を傾げて私越しに結衣さんへと目をやった。私は結衣さんからそっと腕を外し、それから少し腰を折ってその顔を覗き見上げた。

「結衣さん、大丈夫ですか?」

 ゆっくりと顔を上げる結衣さん。

 その瞳には、溢れんばかりの雫が湛えられていた。

「あ……、あの、秋次郎さん……」

「もう、大丈夫ですよ?」

「うん。秋次郎さん、あたしを呼んでくれてありがとう」

「聞こえましたか?」

「あたし、ゆっくりと歩き始めてた。なぜかそこに行かなきゃいけないような気がして。そうしたら、秋次郎さんがあたしを呼ぶ声が聞こえて」

 結衣さんはずっと私の腕の中に居た。歩き出してなどいない。

 しかし、結衣さんの心はこの場所から離れてどこかへ行こうとしていたのだろう。

 私の時も、きっとそうだったのだ。

「そうですか。よかった」

 じわりと周りを見回す。

 鏡には変わらず我々の姿が映っていたが、特になんの変化もない。

 下駄箱の前は既に他の学生たちが次々とやって来ていて、ずいぶんと慌ただしい雰囲気となっていた。しかし、周りの誰もあの光の雲のことを口にしていない。

 もしや我々だけが、あの空、あの雲を見たのか?

 放心していた結衣さんがようやく調子を取り戻せたのは、それからしばらくしてからだった。そして、我々も何事もなかったように学級へと向かい、その出校日の日課が始まったのだった。


 放課になって、空はうって変わって青々となった。

 あの光の雲を誘った蒼天ほどの青さはないが、南中した太陽が木立の陰を校庭にくっきりと描く、盛夏の午後らしい空だ。

 意気揚々とした二瀬に促されて、東門を出る。

 結衣さんは、ここ最近ただでさえ元気がなかったというのに、朝の一件が尾を引いているのか、いよいよ笑顔が出ない。

「二瀬、どこへ行くのだ」

「そこの丘の上、森の中に神社があるんだ。秋次郎さんの時代も、たぶんあそこにあったんじゃないかな」

 そうだ。

 私は、その神社を知っている。

 そして、この高等学校もだ。ずいぶん街並みが変わってしまい、全く面影がないのでにわかに分からなかったが、最近になって気が付いた。

 ここは私が通った、旧制中学校だ。

 川や丘の位置関係からして、間違いない。

 当時、中等教育は男女で別の課程が設けられており、私と志保とは当然に別の学び舎となった。

 勲は、神童の名に見合う高等学校高等科への道を選んだので、私とこの中学校の学び舎を共にしていない。

 『学び舎』。

 当時の学校は、どこも現代とは全く違う趣きある三角屋根で、実に『学び舎』という言葉が相応しい装いだった。この中学校も例に漏れず、工業の街でありながらも、現代よりはずっと趣深い景色に囲まれていた。

 校庭の西には、葦と笹が波打つ名もない川。

 南に見えていたのは、青々と緑さざめく小高い丘。

 丘の上には由緒ある小さな神社があって、放課となった後に級友らと寄り道しては、卒業したら海軍に志願するだとか、造船所に入って戦艦を造るだとか、そんな夢を語り合った。

 私はいま、その神社へ続く同じ道を、二瀬の背中を追って結衣さんと歩いている。

「二瀬、あの光の雲についてなにか分かったのか?」

「ぜんぶ分かったわけじゃないけど、こうじゃないかなってのを思い付いて。僕のお父さんの話、覚えているよね?」

「あの、『魂の通り道』の話か?」

「うん。実はあの話、お父さんの研究ともちょっと関係があってね」

 軒並みが切れて、陸橋道路が走る道路へと出た。校庭から見えていた小高い丘は道路に沿う森となり、立ちはだかる壁のごとく迫る。

 すると突然、それは緑深き茂みの中に姿を見せた。

 古い石段。

 そして、その石段の上で泰然自若としている、雄々しい鳥居。

 そこは陸橋道路の下で日陰となっていて、実にひっそりとしていた。

 鬱蒼と茂る森の木々。

 見上げると、木々を分けるように堅牢な石段が急勾配で丘の上へ向かい、石段の一番下と中ほどの二か所に、苔むした鳥居が悠々と立っているのが見えた。

 その昔はいまほど森が深くなく、登る石段の上には広々と青空が広がっていたが、七〇余年の時が、誰かにことさら教えられなければ見過ごしてしまうほどに、この石段と鳥居を通りから見えなくしてしまっていた。

 鳥居のすぐ脇には、石造りの案内板。

 そこには、この神社が慶長七年、一六〇二年に藩の築城に際して建立されたことなどが書かれている。

 下の鳥居をくぐって石段を上り始めると、結衣さんが前を行く二瀬の背に声を掛けた。

「ねぇ、二瀬くん。この神社に何かあるの?」

「うん。この神社はちょっと特別なのかもって思って。秋次郎さんは、なぜ僕がここへ来ようって言ったか、分かるよね?」

 石段を上りつつ振り向いてそう言った二瀬に、私は少しだけ口角を上げて答えた。

「そうだな。ちょうどこのあたりは、今朝見たあの光の雲が留まって、そして弾け飛んだ場所の真下だ」

「さすが、戦闘機乗りは(そっ)(きょ)(がん)がいいね」

「からかうな」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ