3-2 空襲警報(2)
「秋次郎さん、柏森さん、おはようっ!」
「二瀬か。おはよう」
結衣さんと共にバスを降りたところで、男にしてはずいぶんと愛らしい声が我々を呼び止めた。
私がこの世界へやってきて、早くも四ヶ月。
確かに暦は暑さ厳しい八月となったが、それにしても早朝からこの暑さはなんだ。
だいたい、今日は鉛色の雲が空を覆って太陽などどこにも見えないというのに、なんとも解せない傍若無人な暑さだ。
ところがどうしたことか、二瀬はいつもと変わらぬ涼し気な顔。
その笑顔は健在で、暑さをものともせず、遠くから手を振りつつ駆け寄ってきてくれた。
今日は、夏季休業中に設けられた出校日だ。
我々が子どものころも、夏季の長期休業期間を『夏休み』と呼んでいたが、戦時になってからこの名称は廃止された。
「あら、柏森さん、なんか元気ないね? どうしたの?」
「え? そ、そんなことないよ?」
二瀬に顔を覗き見上げられて、結衣さんがぎょっとする。
かの写真発見の一件から、結衣さんは少々様子がおかしい。
今日もそうだ。
以前の周囲を憚らない親近感はどこへやら、今日も私の少し後ろを遠慮がちに歩んでいる。それは、二瀬が私たちに並んで歩き始めてからも同様であった。
「そうなんだ。僕にはずいぶん元気がないように見えるけど。もしかして、それって、秋次郎さんのせい?」
その問いにハッと顔を上げた結衣さんは、なにやら急に頬を赤らめて、二瀬をじろりと睨み返している。それに対して、ニヤリと笑い返す二瀬。
よく分からんやり取りであるが、ふたりは互いに意味が通じている様子。
なんなのだ。
すぐにケラケラと笑った二瀬が、満面の笑みを私へ向ける。
「秋次郎さん、大丈夫だよ。柏森さんは具合が悪いんじゃないみたいだ」
これで具合は悪くないというのか?
結衣さんは口を尖らせて、あさってのほうを向いている。
まぁ、二瀬がそういうのであればそうなのだろうが、なんとも腑に落ちない。
「あはは。大丈夫だって。そうそう、そう言えば、この前の資料館に行った日、秋次郎さん、僕のお父さんからずいぶん変な話を聞かされたみたいだね」
「ん? いや、変ではなかったぞ? 非常に興味深い話だった。特に工藤俊作艦長の話には瞠目した」
あのあと、結衣さんに頼んで、工藤少佐に関する書籍をインターなんとかで取り寄せてもらった。
読めば読むほど、『敵兵を救助せよ』という前代未聞の大号令と、その命令に秘めた少佐の想いが私の胸を突いた。
敵兵も人間だ。
そして、彼らも我らと同様、命を懸けて国を護り、そして愛する者を護らんとした闘士であり、少佐はその勇敢なる義を称えて敢えて敵兵を救ったのだ。
その武士道精神たるや、これぞ海軍魂ぞと心から感服した。
「そう? それならよかった。それにしても、お父さんもずいぶん秋次郎さんのこと気に入ってたみたいだよ? 『横田くんはまるで現役の海軍士官のような口ぶりで面白かった』って」
「それはそうだろう。予備役となる前に戦争が始まったので、私はずっと現役のままなのだ」
「いやいや、そうでなくて」
「こら、冗談だぞ? 笑うところだ」
「あはは、秋次郎さんの冗談は分かりにくいや。ところで、今日ちょっとどこかでお昼食べて帰らない? ねぇ、柏森さんも一緒に」
ハッと顔を上げた結衣さん。
急に話を振られたことに驚いたのか、可愛らしい瞳をぱちぱちとさせている。
「え? 何? 聞いてなかった。ごめん」
「えっと、お昼一緒にどうかなって話」
「え? あ、うん! いいよ?」
そう言ったあと再び目を伏せた結衣さんを見て、二瀬が私にそっと肩を寄せた。
「柏森さん、ずっとこんな調子でしょ?」
「そうだな。実は少々困っているのだ。ここ最近、一緒に行こうと誘う割には、顔を合わすとなかなか喋らず空気が重たくなるし、かといって黙っているとそのうち機嫌が悪くなる。そんな感じでな」
そう小声で返すと、二瀬は「やはり」と腑に落ちた様子で、きゅっと肩をすぼめて笑顔になった。
「あはは、そっか。それなら全然普通だね。女の子だからね」
「普通なのか? そうは思えんが。ところで話は変わるが、『全然』は否定のときに使うものだぞ?」
「そうだね。本当はそうだけど、いまは肯定でも、全然、普通に使うよ?」
「それは、全然、なってない使い方だ」
「あはは」
そうして、校舎の横を抜けて下駄箱前のたたきまで歩いて来たとき、ちょうど頭上の拡声器から学生声の放送が聞こえた。
扉の横にある畳大の鏡に、拡声器を見上げて立ち止まった二瀬と、それにならって足を止めた私と結衣さんが映った。
『皆さん、おはようございます。こちらは生徒会執行部です。今日、八月六日は広島原爆の日です。広島市に原爆が落とされた午前八時十五分になったら、一分間の黙祷をお願いします』
二瀬が急に真顔を私に向けた。
結衣さんは私の後ろで下を向いている。
そうか。
今日は、この八月六日は、米国の新型爆弾が初めて実戦に使われた日だ。数々の書籍で、その凄まじい威力と、都市と市民の惨状を知った。
火薬では絶対に発生させることができない、想像を絶する高温の熱線と強烈な爆風。
そして、一瞬にして蒸発する人間と、跡形もなく吹き飛ぶ家屋。
初めてそれらを目にしたとき、私は震えが止まらなかった。
原子爆弾。
その驚異的な威力に、帝國は早々に尻尾を巻くのだ。
幕僚は、あれほど簡単に飛行機で体当りして死ねと我々に命令したのに、己らが街と共に一瞬で消え去る恐怖を目の当たりにした途端、無様に狼狽して取り乱し、そして両手を高々と挙げて降参したのだ。
我々の思い。
我々がどのような思いを抱いて戦地へと赴き、そして散っていったのか、その高き志のわずかな末梢すら、そのような輩には理解し得まい。
その歴史を思い出し、私は静かに怒った。
そして私の怒りに追従するかのように、拡声器の声が静かに、そして厳かに、『その時』を告げたのだ。
『一同、黙祷』
結衣さん、二瀬と共に整列して、おもむろに頭を垂れ、そして目を閉じた。
続けて、一斉にサイレンが鳴り響く。
思わず、ハッと空を見た。
空襲警報。
それと同じサイレンが全天を満たし、突然に私の肩にのし掛かる。
どんよりと空に垂れこめた雲。
脳裏に湧き上がったのは、きっと志保が恐怖におののきながら見上げたであろう、その雲間の光景。
鳴り響く発動機の轟音と、全天を覆い尽くさんばかりの爆撃機の大編隊。
腹から焼夷弾を垂れ流し、嘲笑しつつ街を火の海にしてゆくその姿の鬼畜ぶりが、私を憤怒の念で満たしてゆく。
カタカタと奥歯が鳴り、両手両足がこれでもかと強張った。
そして、いまにも操縦桿を握って舞い上がりたいという衝動が私を支配した、そのとき。
「うわっ!」
脳裏の大編隊が、眩い光と共に一瞬にして弾け飛んだ。
思わず目を背ける。
そして、ハッと背後へ目を向けると、壁の大鏡に真っ青な空が映った。
澄み切った蒼天。
同時に、背骨をなぞる悪寒が、ぞぞぞと這い上がる。
結衣さんと二瀬が見えない。
校庭のほうへと再び振り向くと、そこには戦闘機の風防ごしに見渡したような、一点の曇りもない青空が広がっていた。
当惑して一歩退く。
すると、ぞわりとしていた悪寒が今度は背骨を折らんばかりの張力と変わり、私の背中を引き裂こうとした。
私を吸い寄せる鏡。
負けじと踏ん張った途端、ごつりと背が鏡に打ち付けられ、肩がなに者かに押さえ付けられた。
「結衣さん! 二瀬っ!」
声にならない叫び。
そして、ぎりりと奥歯を噛むと、次の瞬間、ピシッと薄いガラスがひび割れるような音がして、私の耳には何の音も聞こえなくなった。




