3-1 古びた鏡台(3)
「秋次郎さん、どうしたの?」
「うわっ!」
突然掛けられた声に、心臓が口から出そうになる。
振り返ると、不思議そうな顔をした結衣さんが、私を覗き見上げていた。
「なにか面白いものでもあった?」
「結衣さん、あの鏡台、あの奥にある鏡台について、なにか知っていますか」
「え? あれは……」
結衣さんはそう言いながらその部屋へと足を踏み入れ、部屋の中央に垂れ下がっていた紐を引いた。カチリと音がして、ふわりと部屋が明るくなる。
「これ、お婆ちゃんが使ってた鏡台だけど、これがどうかしたの?」
私は大きく息を吸い、それからもう一度その部屋へと足を踏み入れて鏡台の横に立った。
「結衣さん、よく見てください」
「ん? なに?」
結衣さんが、鏡台の鏡を覗き込む。
「別に、変わったところはないけど」
「え?」
私は鏡を覗き込む結衣さんに肩を寄せて、再度じわりとその鏡を覗き込んだ。
映っている。
私ではない私の、横田悠真のあどけない少年の顔が、しっかりとそこに映っていた。
見ると、さっきまで鏡が放っていたおぼろげな光も、いつの間にか消えている。
「秋次郎さん、なにか見たの?」
私は、じわりと鏡から顔を離すと、それから少しだけ口角を上げて結衣さんに瞳を向けた。
「結衣さん、これ、頂いて帰りましょう。わけはあとで話します」
「え? これを?」
「はい。二瀬に見せたいのです。もしかすると、謎解きに有用かもしれません。それに――」
思わず、さらに笑みが出た。
「それにこれは、私にとってずいぶんと思い出深い品ですので」
自動車の貨物室に、分離した鏡と化粧台をそれぞれ積み込む。
小型の自動車なので積めないかもしれないと結衣さんは心配したが、ふたつに分けられるのだと教えるとずいぶん驚いていた。
幸子さんは、「そのうち捨てるつもりだったから」と言って、結衣さんが鏡台を持って帰ることを快く承諾してくれた。
しかし、結衣さんの母親は少々呆れ顔だ。
「結衣、本当にそんな古いもの持って帰るの? だいたい、結衣の部屋はいっぱい物があり過ぎて、置く場所なんてないじゃない」
「え? もう、そんなことないもん。えーっと、でも、お片付けが済むまで悠くんがお部屋で預かってくれるからいいの」
「ええー? そんなの悠ちゃん、大迷惑じゃない」
しかし、どうしてこの鏡台がここにあったのだろう。
帰りの自動車が、再び赤い巨大吊橋を渡る。眼下の湾の沿岸には、星のような大小さまざまの灯りが瞬いていた。
私の膝の上には、赤茶けた鏡覆い。
己の名が縫い込まれた刺繍を不思議な気持ちで撫でつつ、私はそれとなく結衣さんの母親に鏡台のことを尋ねた。
「ずいぶん古いものですが、この鏡台はずっとあの家にあったのでしょうか」
「うん? あの鏡台は、私のお婆ちゃん、結衣からすれば曾お婆ちゃんの、嫁入り道具だったんだって」
「そうですか。その方のお名前はなんというのですか?」
「名前?」
鏡覆いに添えた手に、思わず力が入る。
「名前はね、『宮町志保』。志保お婆ちゃんね」
思わず息を飲んだ。
志保だ。
間違いない。
結衣さんはハッとして、まん丸にした愛らしい瞳を私に向けた。
「悠くん……、志保さんって」
私はゆっくりと頷いて、それから、それよりももっと激しく胸に湧き上がった問いを、おずおずと母親に投げた。
「苗字は、宮町……なのですね?」
「なんか変? あ、私の旧姓と違うから? 私の実家の『浦田』っていう苗字は、私の父が持ち込んだ苗字でね。元々あそこは、『宮町』っていう家だったんだって。このあたりの地主だった宮町家の本家ね。だからお婆ちゃんは、宮町さんなの」
そうか。
志保は戦後、この宮町家へと嫁いだのだ。
私は、猛烈に胸に込み上げる感慨を押しころし、平静を装った。
宮町だ。
あの男だ。
この『宮町』という名が、私が知るあの男のものならば、これは奴が生涯を懸けて男の約束を果たしてくれたということだ。
「宮町家は地の名士だったのですね。お爺さまはなんという方なのですか?」
「お爺ちゃん? お爺ちゃんはね、『宮町勲』。元々は分家の子だったらしいけど、戦争が終わってから本家を継いだって話だったね。戦争でみんな死んでしまって」
宮町勲……。
その、志保の夫の名を聞いて、私はすべてを悟った。
宮町と聞き、すぐに思い浮かべた私の無二の友、宮町勲。
そうか、そうであったのか。
勲が、志保を生涯ずっと護ってくれたのだ。
勲は、私の親友だ。
同じ隣組で親同士も飲み仲間で、祭りでも節句でも、幼いころから事あるごとに共に肩を並べていた。
当然、私の幼馴染みである志保とも、気心知れた友人である。
勲は私よりひとつ年下で、勉強がよくできる神童であった。
尋常小学校を卒業後、高等学校高等科へと進み、さらに猛勉強して最高学府である帝國大学へ進んだ。
将来は学者になりたいと言っていた。
しかし、特殊電波工学なる高等な学問に類稀なる才気を発揮し、卒業後は帝大に残りいよいよ研究者としての一歩を踏み出そうとしていた矢先、勲は陸軍に乞われて技術将校となり、東京から帰郷して小倉陸軍造兵廠で兵器製造に携わることとなったのだ。
最後に勲に会ったのは、今年、昭和二〇年の正月だ。
所属していたブインの航空隊が解隊され、ほとんどの隊員が陸戦隊として残留する中、本土防衛を主任務とする航空隊再編の関係で私は内地へと戻されて、年明けまで幾ばくかの暇を与えられた。
戦時下において本当に申し訳ないことだと思ったが、寺から知らせを受けたのみで、死した両親の墓前に手を合わすことも叶わないままであったし、隣家であった志保の一家がどうなったかも気掛かりであったので、謹んで帰郷させてもらうことにした。
志保は生きていた。
私がまだ遠い南国の空で戦っていた昨夏、空襲により家を焼け出された志保の一家は、降り注ぐ焼夷弾の雨の中を逃げ回り、皆が一命を取り留めていた。
同じくして、その空襲の目標であった工廠から断腸の思いで撤退した勲も帰る家を失い、一時的に宮町本家を頼ることとしたらしいが、たまたまこのときに志保の一家のことを知り、本家総代に所有の空家があれば彼らを住まわせてやって欲しいと頼んだのだそうだ。
寒風吹きすさぶ暮れにいろいろと手を尽くし聞いて回り、やっとその事実が分かると、私は滞在させてもらう予定であった寺で早々に両親の仮位牌を預かり、それから一目散に志保の元へ向かった。
志保が両親共々に私との再会に目を潤ませ、そしてこれを勲に知らせると、勲はすぐに勤務を切り上げて、本家へと戻って私と志保を招いてくれた。
なるほど、あの家が記憶にあるはずだ。
私は一晩をあの家で過ごし、勲と志保と共に束の間の安寧を満喫し、そしてまた基地へと戻ったのだ。
戻る間際、最後に私は勲に頼んだ。
『もし私が帰ってこなかったら、お前が志保を幸せにしてやってはくれまいか』
勲の驚いた顔が、今も鮮明に思い出される。
そして春となり、私は開隊された新岩国航空隊へと配属され、そしてあの光の雲に飲み込まれてそのままこの時代にやってきてしまったので、その後の勲や志保のことを知らない。
おそらくは、だ。
おそらく、私が戦死したあと、勲が志保を娶ってくれて、生涯大切にしてくれたのだろう。
そして、志保が勲との間にもうけた子に男児が居なかったのか、それとも最初から、踊りのお婆ちゃんこと、結衣さんのお婆さん独りしか居なかったのかは分からないが、宮町の名は勲の代で終わり、あの家が志保の娘と身を固めた男の姓である、『浦田』なる家になったのだ。
結衣さんに志保の面影を感じたのは、偶然ではなかった。
結衣さんの曾祖母こそ、私の幼馴染みであり、私が生涯を懸けて護りたかった志保であったのだ。
私はいま、心から慕っていた志保の忘れ形見とも言うべき結衣さんと毎日を過ごしている。
感謝すべきは親友の宮町勲だ。
志保を護ってくれた。
志保は戦後の混沌から平静の世まで、どのような人生を送ったのだろうか。戦死した私のことを、どう思っていたのだろうか。
「おばさん、よかったら今度、その志保さんのこと、いろいろ聞かせてくださいませんか?」
「ん? どうしたの? 突然」
「いえ、あの鏡台はとても大切にされていたようですから、どのような方だったのかと、少し知りたくなりまして」
「そっか、結衣と悠ちゃんが生まれたときはもう亡くなってたもんね。お婆ちゃんは学校の先生だったそうよー」
そこで言葉を切った結衣さんのお母さんに次の文言を向けようとしたとき、私はその横顔を見てそれを飲み込んだ。
口角を上げて、遠くを見つめる結衣さんのお母さん。
流れる夜空を背景に、港灯りが柔らかにその顔を描き出している。
いまは、そっとしておこう。
きっと、そのなにかに想いを馳せる結衣さんのお母さんの瞳の奥には、若かりし頃の祖母、志保の姿が色鮮やかに舞っていることだろうから。




