3-1 古びた鏡台(2)
焼香が終わり、偉そうな説法をぶった坊主が帰ったあと、通夜振舞いの前に残った数人以外は、皆早々に帰っていった。
「ちょっと台所でお茶にしない? 結衣ちゃんと悠真くんもおいで」
一段落したところで、幸子さんが少し休憩すると言って、私たちを台所へと促した。
「あ、私は結構です。皆さんで積もる話をされてください。その間、すこし家を見せてもらってもいいですか?」
思い出話は、良く知る者同士でしたほうがいい。
「いいわ。散らかってるのは勘弁してね? それと、どっかにクーちゃんが居ると思うけど、お客さんがいっぱい来てちょっと恐がってるだろうから、脅かして引っ掻かれないようにしてね」
「クーちゃん……ですか?」
「うん。黒猫のクーちゃんね」
もう、空は櫟林の向こうにかすかに朱色の余韻を残すだけとなっていて、東を見れば夏の星座が待っていましたとばかりに顔を覗かせ始めていた。
おそらく、母屋は大正時代に建てられたものだろう。
玄関はガラガラと音を立てる重厚な引き戸で、内側には動かなくなった上下する太い閂がまだ取り付けられたままになっていた。
玄関の内はよく踏み締められた土間で、ところどころ灯りを受けてつやつやとしている。
土間の隅には、いまはもう使われていない手漕ぎポンプの井戸があり、その横にはコンクリートで造った土台の上に、場違いな電動ポンプが据えられていた。
井戸はまだ生きているようだ。
庭は砂地で、ちょっとした公園にしてもよいほどの広さ。周りは一周ぐるりと、レンガと漆喰の囲繞が取り囲んでいた。
すぐ横は小川だ。
川に面した囲繞の一か所に小さな扉があり、そこから石造りの階段が川面まで延びていて、一番下は洗い場になっていた。おそらく昔は、そこで洗濯をしていたに違いない。
それにしても、懐かしい佇まいだ。
いや、それも少し違う。
懐かしいのではなく、どうもこの場所を、『知っている』ような錯覚が続いている。
歩き回っていると、土間の奥の突き当りの台所から結衣さんの声が聞こえた。
見ると、通夜振舞いがなされている土間の横の畳部屋に、大きな急須を持った結衣さんが茶を運んでいた。
不思議な感覚は、まだ続いている。
その畳部屋を通り越して縁側へと出ると、砂地の庭が目の前に開けた。
縁側には照明が無く、敷地の外にある街路灯の灯りがじわりと入り込んで、縦に真っ直ぐ伸びる板の筋を薄暗く照らし出していた。
その筋は、ずっと先で左へ直角に曲がって、暗がりへと消えている。
料理の前で話している年寄りたちのぼそぼそ声を背にして、私はゆっくりとその縁側を進んだ。
話し声が遠のき、人の気配がおぼろとなる。
暗がりに目が慣れて、突き当りの壁一面に、ずいぶん大きな網が掛けられているのが見えた。
幾つもの錘がぶら下がった、川漁の投網だ。
その横に立て掛けられているのは、実に丹精な水墨画が描かれた襖。
おそらく、既に亡くなった先代、あるいは先々代が描かれたのだろう。埃をかぶったままだが、その襖を見れば、ご先祖の多芸ぶりがつぶさに窺える。
しかし、なぜだ。
なぜか、私には分かるのだ。
この先、あの突き当りの暗がりを左へ曲がったその先に、大きな南京錠が掛けられた分厚い扉の納戸のあることが。
間違いない。
私は、ここへ来たことがある。
それも、そう驚くほど昔ではない。しかしそれは、『私の時間』で、だ。
建物も建具もずいぶんと古くなっていて、おそらく私の記憶にあるものとは少々違っているかもしれないが、やはり、私は間違いなくここに来たことがある。
その異様で確かな既視感がぞっとするほどに私を支配し始めると、さっきまで聞こえていたはずの背後の話し声が、全く聞こえなくなっていることに気が付いた。
そのときだ。
縁側をゆっくりと進む私の視界の端で、なにかがゆらりと光った。
それは、眩さを伴う直線的な光ではなく、ぼんやりと、まるで残像のごとく視界の端をかすめる光。
思わず立ち止まる。
そして、ゆっくりとその光のほうへと首をむけると、そこは縁側に面した障子がすべて開け放たれた、薄暗い一〇畳程度の畳部屋であった。
その一番奥の暗がりで、なにかがぼうっと光っている。
生唾を飲み込み、じわりと足を踏み入れる。
すると、なにかが足に触った。
ハッとして目を向けると、そこに居たのは一匹の黒猫。
闇に紛れ、その瞳だけがぎょろりと光っている。
そして猫は、立ち上がって大きな欠伸をひとつすると、それから部屋の奥へとゆっくり歩きだした。
その先には、淡く光る四角い輪郭。
猫を追う。
じとりと、背中を走る汗。
淡い光が近づくと、その手前に猫がすとんと座り込み、首を回して背中の毛づくろいを始めた。
次の瞬間、背後から差す街路灯の弱光が、ついにそれを私の目に詳らかにした。
そこにあったのは、古い鏡台。
一脚の、古めかしい鏡台が暗がりにぽつんと置かれていて、縦長の鏡面に掛けられた鏡覆いが、半分ほど後ろへめくり上げられている。
ハッとした。
そして私の既視感が、確信へと変わる。
私は、この鏡台を知っている。
さらにもう一歩、足を進めた。
そして、私はそっと鏡台の横へと進み、それからおずおずとその裏側を覗き込んだ。
鏡覆いの裏面、そこにあったのは……、私が想像したとおりの文字。
『祝 高等女学校卒業 昭和十五年三月吉日 贈 川島秋次郎』
実に丁寧に施された、手縫いの刺繍。
絶句した。
間違いない。
これは……、志保の鏡台だ。
私が、志保の高等女学校の卒業祝いに贈った、父が懇意にしていた腕のいい家具屋が誂えてくれた、この世にふたつとない鏡台だ。
暗がりで判然とはしないが、金色であったはずの覆いの刺繍は色褪せているのか、朱色がくすんで赤黒くなった覆い布と見分けがつかないほどになってしまっている。
しかし、これを見紛うはずがない。
なぜだ。
なぜ、ここにあるのだ。
手の震えが止まらない。
当惑しつつ、その震える手が鏡覆いへと伸びる。
そして、半分ほどたくし上げられていたそれをさらに上げて鏡面を覗き込もうとしたとき、突然、その違和感が私を襲った。
猫が居ない。
ハッとして鏡台の前を見ると、そこには黒猫が偉そうに寝そべっている。
そして、その弱光に浮き立つ毛並みの艶をしかと確かめて、私はもう一度鏡を見た。
「なぜ、映らないのだ」
思わず声が出た。
鏡台の真横に立っている私が斜めに鏡面を覗き込めば、当然、そこに鏡台の前の畳が見えるはずだ。
そしてそこには猫が居り、当然にして、鏡の中にもその猫が居なければならない。
しかし、そこに猫の姿は無く、ただただ弱光で群青色となった畳が映っているだけなのだ。
背中にぞわりと冷たいものが走る。
息を飲んで、それから私はさらに覆いをたくし上げて、じわりじわりと鏡の前に顔を突き出した。
すると、どうしたことか。
覗き込んだ私の顔も映らない。
いや、違う。
私はすぐそれに気が付いた。
鏡に映っている部屋は、いま私がいる部屋と良く似ている。
しかし、もっと古めかしさがなく、奥に見える縁側の先には街路灯もない。
天井の真ん中からぶら下がっている電球の傘には、光が漏れない厚手の布が掛けられている。
いま、この鏡の中に見えているものは、私の背後の風景が映り込んでいるのではない。
それが、そこにあるのだ。
戦慄が走った。
私は咄嗟に覆いを下ろすと、すぐに撥ねるように退いた。
なにがどうなっているのだ。
そんな馬鹿げたことがあるか。




