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3-1 古びた鏡台(1)

「悠真、踊りのお婆ちゃん、昨日の夕方、亡くなったんだって」

 よく晴れた土曜日の午前。

 八月となり、まだ朝だというのに、もう夏本番の陽光は道端に濃い影を落としている。

 今日は午後から、結衣さんが地元の図書館へ連れて行ってくれる約束になっていた。

 朝餉が終わって、さて準備を始めるかと思った矢先、母親が食後の茶を卓上に置きながら、誰それが亡くなったと、そんな話をし始めた。

「踊りのお婆ちゃん……、ですか?」 

「やっぱり分からないよね。『踊りのお婆ちゃん』は、結衣ちゃんのお婆ちゃんよ? 悠真も結衣ちゃんと一緒にすごく可愛がってもらったの。踊りの先生してたから、うちでは『踊りのお婆ちゃん』って言ってたの」

「なるほど」

 すぐ脇に置いていたスマートフォンの画面に目をやると、ちょうど結衣さんから、【今日は行けなくなった】と文字通信が入った。

 椅子に腰掛けながら、母親が私の顔を覗き見上げる。

「それでね? 今夜がお通夜なの。うちは今日は仕事で遅いから明日の葬儀に一家で行こうと思うって言ったら、結衣ちゃんのお母さんが悠真だけ今日一緒にお通夜に行かないかって。親族だから、ほかの人より早く行かなきゃいけないけど。どうする?」

 きっと、結衣さんが私を一緒に連れて行こうと進言したに違いない。

 もし明日、私が両親と一緒に行って、結衣さんの居ないところでなにかボロを出しはしないかという危惧だろう。

「そうですか。そう言ってくださるのなら、今日一緒に行くことにしましょう」

「お昼前には出るみたいだから、準備しといてね」


 昼、約束の時間少し前におもむろに玄関を出ると、ちょうどお向かいの玄関に黒いワンピースの結衣さんが姿を見せた。

「あ、悠くん。今日は図書館行けなくてごめんね?」

「いえいえ、それどころではないでしょう。お察しいたします」

「お婆ちゃん、去年からずっと入院しててね。癌があちこち転移して、もう最後だからって、先週、お家に戻してもらって……」

 当然だが、元気がない。

 私はなんとも居たたまれなくなり、制服ワイシャツの襟首に指を入れながら首を左右に振った。

 人の死に似つかわしくない、蒼々とした空。

 その空をじわりと見上げたとき、結衣さん宅の車庫から自動車の発動機の音が聞こえた。見ると、その窓から結衣さんによく似た、品のいい良妻賢母がひょっこりと顔を覗かせる。

「悠ちゃん、せっかく予定があったのにごめんね? もう出るけど、いい?」

「はい。こちらこそ、今日はすみません。母が一緒に来られたらよかったのですが」

 結衣さんの家の自動車は、横田家のそれと違って、黄色の登録標が付いた、実にこじんまりとした黒い小型車であった。

 市街地に入ってモノレールの軌道が見え始めると、自動車が軌道の上の陸橋道路へと上る。

 かつての兵器工廠跡の広大な都市公園の脇をうねるように走る陸橋道路は、それから高層建築の間をぬって海岸へと至った。

 開けた視界いっぱい、海の寸前まで拡がった乱立する工場群。

 そして、その至るところに雄々しく屹立する、もうもうと白い煙を放つ巨大煙突たち。

 聞けば、ここは帝國随一の官営製鉄所があった街とのことだが、私の記憶ではこのような海に張り出した平坦な土地は無かった。

 それにしても、度肝を抜かれる。

 そうして眼下臨海に広がる工場群に目を奪われていると、突然、さらに度肝を抜く巨大構造物が眼前に現れた。

 燃えるように真っ赤な、巨大吊橋。

 青々とした洋上に、紅の鋼鉄橋がその威容を誇示している。

 母親の話によると、この橋はかつて、東洋一の大吊橋だったそうだ。現在はこの海の下に新たな海底隧道が掘られ、橋を渡らずとも海底を通って対岸に行けるようになっているとのこと。

 キラキラと海面が陽光を反射している。

 橋の上から左を見下ろすと、そこがかつて製鉄の街があった湾であることはすぐに分かった。

「悠ちゃん、もうすぐ着くから。結衣、幸子おばちゃんには、悠ちゃんが記憶喪失になったこと話してないんだけど、どうしよう」

「そっか。ただでさえお婆ちゃんが亡くなって大変なんだから、悠くんがおばちゃんのこと全く覚えてないなんて聞いたら……。今日は話すの、やめておいたほうがいいかもね」

 幸子さんというのは、どうやら結衣さんの母親の妹らしい。

 独り身で実家に残っており、病気になった母親、つまり結衣さんの祖母である『踊りのお婆ちゃん』の看病をずっと担っていたそうだ。

 子が居ない幸子さんは、我が子のように姪である結衣さんを可愛がり、同様にその幼馴染みである横田悠真も、『踊りのお婆ちゃん』と一緒になってずいぶん可愛がってくれていたそうだ。

 巨大吊橋を渡って湾沿いにしばらく走ると、あたりにちらほらと緑が増え始め、そのうち田畑のほうが建物よりも多くなったところで、不意に自動車は脇道へと入った。

 するとさらにしばらく行った田畑の中、風除けと思われるこんもりとした(くぬぎ)(ばやし)がぽつんとあって、その旧家はなんとも寂しそうにそこに佇んでいた。

『故 浦田美智子 儀 葬儀会場』

 小さな看板。

 そう無味に書かれた看板が立て掛けられた門柱は石造りで、さらに母屋を見れば、そこは単なる百姓の家ではなく、明らかに地の名士か、それと同等の名のある主が居宅としていた屋敷であることがすぐに窺われた。

「悠くん、着いたよ。ここがお婆ちゃんち」

 力なくそう言った結衣さんに促されて自動車を降り、結衣さんのお母さんの旧姓は『浦田』なのかと、どうでもいいことを思いながら改めてその母屋を眺めたとき、私はなんとも不思議な感覚を覚えた。

 懐かしい。

 まるで一度ここへ来たことがあるような、そんな懐かしさ。

「あ、悠真くんも来てくれたんだね。ありがとう。結衣ちゃんも。着いて早々悪いけど、姉さん、ちょっと手伝って。結衣ちゃんは悠真くんとしばらく待ってて」

 出迎えたのは、黒ズボン姿の女性。

 話に出ていた結衣さんのお母さんの妹、幸子さんだろう。

 結衣さんはちらりと私の顔を見て、それからすぐに母親と幸子さんの背中を追った。

「悠くん、しばらく待ってて。幸子おばちゃん、あたしも手伝う」

 人が死んだときの数々の儀式は、実はその辛さを紛らわすためにあると言われている。

 次から次へとやらなければならない行事を敢えて作り、座って悲しみに打ちひしがれている暇なぞ与えぬよう、先人がそう仕向けたのだそうだ。

 私が死んだあとも、志保や戦友たちが、同じように忙しくしていたのだろうか。


 ふた間続きの仏間で坊主が経読みする間、結衣さんはずっと下を向いてハンケチを頬に当てていた。

 話しによると、現代ではこうして家で通夜や葬式をするのは稀なのだそうだ。

 一定の会葬者が見込まれる葬儀の場合、自動車での移動が当然の現代では広い駐車場を要すうえ、多人数を招き入れられるほどに屋敷が広くなければならず、場所ごと全部賄ってくれる業者に頼むのが一般的だとのこと。

 今日のこの浦田家の葬儀は、場所は自宅だが、看板や遺影、祭壇などは業者が準備したものらしい。確かに、遺影は葬式らしくない色付きで、空のように真っ青な背景となっていて、いかにも業者然としている。

 しかし、なんと温和な表情の遺影か。

 踊りの先生であったという結衣さんの婆さま、その豊かで優しい人柄が見て取れるようだ。


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