2-1 鉄槌(3)
これしきのことで失神するとは、軟弱極まりない。
先ほどの威勢はどうしたのだ。
「きゃぁぁぁーっ」
女学生たちの叫び声が響き渡る。
「きゅ、救急車だっ! お前たちこのまま赤坂を見てろ! 先生は職員室へ行ってくる! 横田ぁ! あとで話を聞くからなぁ!」
捨て台詞を吐き、学級を駆け出てゆく戦車。
その後ろ姿からゆっくりと横に目をやると、そこには茫然と立ち尽くす結衣さんの姿があった。
その後、私は弁当も食わされずに会議室に軟禁され、大人しく沙汰を待つよう命ぜられた。
長机の向こうでは、腕組みをした戦車がぎりぎりと歯を鳴らして私を睨み付けている。
なんだ? その顔は。
顔で威勢を示しているつもりか?
あんな暗愚魯鈍に、ビンタひとつ見舞えん腰抜けのくせに。
その虚勢に辟易しつつ腕組みして宙を仰いでいると、午後最後の講義が始まる鐘が聞こえた。
その鐘と同時に、会議室の扉が開く。
「こちらです」
若い女教師に連れて来られたのは、ふたりの女。
ひとりは悠真の母親。
そしてもうひとりは、にわか成金のような、なんとも品のない中年女。
「ご無沙汰ね、横田くん。ふんっ、ずいぶんバカっぽくなったわね。記憶喪失は乱暴になるなんて知らなかったわ。なんか翔太に恨みでもあるの?」
赤坂の母親か?
思わず、顎が落ちる。
愚息の非道を詫びるかと思いきや、耳を疑う呆れた物言い。
間髪入れず、戦車が尻の下に発条でも仕込んでいたかのように立ち上がり、にわか成金に向けて背を丸めた。
「あ、この度はどうも、赤坂さん」
「先生? 翔太がやられたとき、先生はすぐ横に居たんですってね。いったい、何をしてらしたのかしら」
「す、すみません。一瞬のことでしたので」
なんたる滑稽さ。
戦車よ、さっきまで私を睨み付けていた威勢はどうしたのだ?
もごもごと尻つぼみに口ごもると、戦車はそれから肩を小さくしてそのまま立ち尽くした。
フンと鼻息を吹いたにわか成金が、じわりと悠真の母親のほうを向く。
「お弁当のおかずをひとつ食べたんですって? それくらい? そんなことであんなケガを負わせたっていうんですかっ?」
「申し訳ありません。治療費などはうちが――」
「いや、当然でしょ。警察呼びましたから」
やれやれ、やはり、子は親を映す鏡とはよく言ったものだ。
悠真の母親に吐いて捨てるように言ったあと、呆れかえった私の顔に気が付いたのか、にわか成金がぎりりと歯を噛んで私へと目を向けた。
「その顔、何? ほんと呆れたわ。記憶喪失だって聞いたから、優しくしてあげるようにって翔太にわざわざ言ってあげてたくらいなのに。どういう育て方してるのかしら」
なんと勝手な言いぶん。
お前の子育てのほうがどうかしているのではないか? その思慮の浅さを見事にお前の愚息が露わにしているぞ?
私は溜息をついて、それからゆっくりと立ち上がった。
「ご婦人」
にわか成金がギョッとする。
「ご婦人? あたしに言っているのかしら」
「そうだ。ご子息に対する私的制裁が少々過剰であったことは詫びる。巡査を呼んで司法に照らすというのであれば、座してその戒めを受けよう。しかし、その行為に至った大義は絶対に譲らん」
「は?」
大口を開ける、にわか成金。
構わず続ける。
「お前は他人の食糧を無断で食した息子の行為を、『それくらい』と評した。ならば、私も司法に問おうではないか。私の粗暴と同様、お前の息子が他人の物を窃取した事実も、人道に照らして『それくらい』か否かをな」
そこまで言ったところで、母親が割り込んで私を制止した。
「悠真、あなたは黙ってて」
突然、にわか成金がハッとする。
なに、当たり前のことを言ったまでだ。私が粗暴の咎人だと言うのならば、お前の息子も同様の盗人だと。
唇の端を震わせて、私を凝視するにわか成金。
私は一向に構わん。しっかり出る処へ出て、正々堂々と御上の前でやり合おうではないか。
悠真の母親は、まるで米つき飛蝗のように平謝りしている。
謝ることなどない。
あの息子を作った親だ。たかが知れている。
その後、母親はにわか成金からずいぶんと下品な暴言を吐かれていたが、私はそっぽを向いて椅子に腰掛け、全く目も合わせなかった。
聞けば、救護車両で病院へ運ばれた赤坂の負傷は、単なる打撲だという。まぁ、前線の兵ならば戦列から外されることなど絶対にない、軽傷中の軽傷だ。
しばらくして巡査も来た。
いろいろと尋問されたが、にわか成金が身内のことにて手打ちで終わると申し向けたので、巡査は、事件にはしないが児童相談所なる役所へ連絡だけすると言い残して帰って行った。
自分で巡査を呼んでおいて、なんたる弱味噌か。
巡査が引き揚げ、息子を看護しに帰ると言ってにわか成金が去って、私と戦車と母親の三人になったとき、ちょうど放課となる鐘が鳴り響いた。
母親の自動車に乗せられ自宅に帰る。
結衣さんも一緒だ。どうやら、結衣さんはずっと会議室の外で私を待っていたらしい。
自動車が走り出す。
空は淡く紅みを帯び、街並みは美しい朱色に染まっていた。
押し黙る三人。
後部座席で私の隣に座っている結衣さんは、ずっと窓の外へ目をやっている。
モノレールの軌道から外れて周囲に田園が目立つようになったとき、母親が私へ顔半分向けて、なんとも白々しくその口を開いた。
「えっと、悠真、明日は学校どうする? 今日、こんなふうになっちゃったし」
「え?」
思わずその横顔を覗き見上げた。
なぜだ。なぜ怒鳴り散らさないのだ。
茫然としている私を気に掛けてくれたのか、結衣さんが私に代わって母親へ言葉を投げた。
「おばさん、ごめんなさい。悠くんは、あたしのために」
「分かってるわ。悠真はどうしても許せなかったんだもんね。悠真、明日からまたしばらく休んでもいいよ?」
義を貫くためとはいえ、親の顔に泥を塗る粗暴を働いたのだ。
怒鳴り付けられるだけでは済まず、殴られ、倉に閉じ込められ、これでもかと懲罰を科せられるのが当然だ。
「お母さん、なぜ……怒鳴らないのですか?」
「うん? そうね、やり方はかなりマズかったし、こんなことは二度としてもらったら困るけど、でも、『許せない』って思った悠真の気持ちはとっても大事だから。お父さんにはちょっと叱られるかもね」
ケラケラと笑う母親。
なぜ笑っていられるのだ。
すぐに結衣さんが身を乗り出す。
「おばさん、あたしからおじさんに話す」
私はすぐに結衣さんの前に手を差し出した。
「ちょっと待ってください、結衣さん。それはお父さんのほとぼりが冷めてからお願いします。まずは、自分で話します」
直後、そのやり取りを聞いた母親が大きな溜息をついた。
「はぁ、久しぶりに『お母さん』って言ってくれたのが、こんな日だとはねぇ」
その夜、私は帰って来た父親の前に平伏して、現代日本に馴染まない粗野な行為で迷惑を掛けたことを詫びた。
しかし、あくまで詫びたのは行為だけだ。
私が怒りを感じた大義については、どうあっても間違っているとは思えない。だから、これだけは絶対に謝らないと伝えた。
父親はしばらく目を瞑って黙っていたが、やがてゆっくりと目を開き、「二度とするなよ? しかし正義は大事だ。その気持ちはそのままでいい」と言って、私の前を立った。
そして、それ以上なにも言わずに、そのまま私を放免したのだ。
平手打ちも、尻叩きも、納戸への閉じ込めすらもなかったのだ。
子であってもひとりの人間として人格を尊重する、これがこの新しい日本の考え方なのか。おかげでひどい折檻を受けずには済んだが、これには少々当惑した。
この未来の子どもたちは、ひとりの人間として尊重される割には、それに見合うほどに成熟していないように見える。
未成熟であるのに尊重されて当たり前という、義務を果たさず権利だけを主張するような不徳者、私にはそのように見えて仕方がないのだ。
立ち上がって私の背後へ歩んでいった父親へ、私は振り返って言った。
「お父さん、私は明日も学校へ行きます」
父親は振り向かず、小さく右手を上げたあと台所の洋机について、そのままおもむろに夕餉を食しだしたのであった。