2-1 鉄槌(2)
「みんな聞いてくれ。まだ完全には記憶が戻っていないそうだが、学校生活が回復を早めるかもしれないということで今日から登校するそうだ。横田が困っていたらみんなで助けてやるんだぞ」
戦車教師が教壇でそう皆に申し向けると、笑みとも当惑とも取れない面持ちの級友たちが、ちらちらと私のほうを振り返った。
私の顔に目をやりつつ、隣同士でひそひそと話をしている者も居る。
級友が九死に一生を得て帰還したというのに、実に軽薄だ。
もしや横田悠真は、皆から疎まれていたのだろうか。しかし、結衣さんによれば、皆の人気者であったとのことであったが。
しばらくして、級友らの奇異の目に慣れて落ち着くと、どうも周囲の様相が鼻について仕方なくなった。
なんというか、なにやら小学校の休憩時間を見ているような、そのような様相。
そして、いよいよ落ち着いたのちにさらに周囲を観察すると、どうしたことか、その鼻についたものが、いつしかなんとも言えない失望感へと変わった。
いま、私の周りで談笑している高等学校の学生たちは皆、十六から十七歳のはずだ。
しかし、あまりにも幼い。
それは見た目ではなくて、人格自体が稚拙で未成熟のように感じるのだ。
じゃれ合う者。
鬼ごっこや相撲をしている者。
スマートなんとかを互いに覗き見合って、肩を揺すって談笑している者。
どれもこれも、小学生のような稚拙さだ。
落ち着いて書物に目を落としたり、国家の行く末について真摯に議論をしたりする姿は皆無。
これが、高等学校の学生の姿か。
十七歳といえば、私は練習艦の四等水兵として猛訓練に臨んでいた。戦時下特例の特別年少兵ならば、十四歳で歴戦の上官らと共に戦いの海へと赴いた。
もちろん、明治の偉人たちの時代に比べれば、私のような大正生まれも歳の割に稚拙と言われるのかもしれないが、それにしてもこの子たちはひどすぎる。
平和すぎるのが災いしているのか。
それとも、人間の知性自体が退化しているのか。
昼休憩となった。
講義の始まりと終わりを告げるのは喇叭ではなく、壁に取り付けられた拡声器から聞こえる鐘の音のような旋律であった。
ほとんどが思い思いの者と机を合わせるなどして弁当を取り出していたが、何も持たずに学級を出て行く者も居た。どうやら別棟に食堂があるらしい。
そうして周囲を見回しつつ、為す術もなく独り机についていると、タタタと弾む足音とともに愛らしいその顔が我が学級の入口に現れた。
「悠くん、お待たせ! さ、お弁当食べよっ」
隣の学級から駆けつけてくれた結衣さん。
その手には、弁当と思われるフエルト生地の巾着袋をふたつ提げている。
「いいのですか? 日頃一緒に食べている級友とでなくて」
「うん。しばらくは悠くんと一緒に食べるって言ってあるから大丈夫」
そう言って結衣さんは、ちょうど空いていた私の前の学生の椅子に座って後ろを向き、私の机の上にふたつの弁当を広げた。
今日の弁当は結衣さんが拵えたものらしい。なかなか良くできている。
先日、結衣さんの母親と対面する機会があったが、ああ、この親にしてこの子ありと合点がいく、なんとも良妻賢母を絵に描いたような温かみのある女性であった。
結衣さんも、きっと良い女房になるだろう。
そうして、嬉しそうに弁当を開く結衣さんに見入っていると、突然、頭のすぐ上からずいぶんとぞんざいな物言いが響いた。
「おっ? いいねー。愛妻弁当」
見上げると、さっきの赤坂という男子学生。
その横には、赤坂の腰巾着と思しき、女のように髪を伸ばした芸者面の男も居た。
ハッとした結衣さんが、弁当を手で覆いながらやや不機嫌そうに応える。
「なに? 羨ましかったら赤坂くんもお弁当作ってくれるような彼女作ったら?」
「うわー、リューキチ先輩が見たら、すっげー怒るだろうなぁ」
「あたし、あの人は嫌いなのっ! ずっとしつこくされて迷惑してるんだからっ。どうしてあんなのがサッカー部の主将なのよ」
「あんなの呼ばわりか。先輩に報告しといてやるからな。おおー、旨そうだな。ひとつ味見してやるよ」
赤坂はそう言ったかと思うと突然、私の弁当の揚げ物をひとつ摘んで、パッと自分の口に放り込んだ。
「あっ!」
結衣さんが泣きそうな声を上げる。
一瞬の出来事。
唖然とした次の瞬間、そのあまりの非道さに憤激が一気に私の脳天を突き破った。
思わず赤坂の腕を掴む。
「おい、小僧」
「え?」
目を丸くする赤坂。
私は掴んだその腕をすぐさまひしぎ上げた。
「痛ててて! 何だよ、悠真」
「何だよではないっ! 貴様、それは結衣さんが私のために作ってくれたものだぞっ」
「き、きさま? 悠真、口が悪くなったんじゃね? い、痛ててて」
腕をひしぎ上げたまま、ゆっくりと立ち上がる。
ちらりと、ポカンと口を開けて目を泳がす結衣さんの顔が視界の端を横切った。
「赤坂と言ったか? 貴様、盗人だぞ」
「はぁ? ちょっと食っただけだろ。ちゃんと俺の弁当から唐揚げ一個返してやるよ。それでいいだろ? なにマジになってんだよ」
私の言っていることが通じていないのか、赤坂はなぜ私が憤慨しているのか理解していない様子だ。
呆れ果てた。
よくもまぁ、こんな道徳心の欠片もない子に育てられたものだ。
親の顔が見てみたい。
「そんなものは要らん。結衣さんに謝れ」
「謝る? 何を。痛ててて!」
この非国民め。
腕をへし折ってやろうか。
「謝れっ!」
私がそう声を荒らげてさらに掴んだ手に力を込めると、それを制すように結衣さんが立ち上がった。
「悠くんっ! もういいから、やめよ? ね?」
いまにも雫が溢れ落ちんとするその瞳。
しかしだ。
十七歳だぞ?
これは許されん非道だ。
とうに義と礼節をわきまえていなければならない齢の男子がすることではない。
すると今度は、赤坂の腰巾着が割って入った。
「横田、放せよ」
腰巾着が私の肩に横から手を掛け、私を引き倒そうとする。
「私に触れるなっ!」
「うわっ! 痛てぇぇぇっ!」
思わず足が出た。
これでもかと太ももを蹴り飛ばされた腰巾着が床に転げる。
その向こうで聞こえた、女学生のキャアという声。
そのとき突然、学級中を揺るがす野太い怒号が響き渡った。
「こらぁっ! お前ら何しとるかぁっ!」
皆が一斉に振り返る。
「やば、若宮だ!」
見ると、担任の戦車が太い眉を吊り上げて、猿のように顔を赤くして駆け寄って来ている。
教師か。
ちょうど良い処へ来た。
こやつを叱りつけてもらおう。
「先生、この盗人非国民に引導を渡してやってください。あろうことか、こやつは――」
その私の言葉を遮って、駆け寄ってきた教師があわあわと両手のひらをこちらへ向けた。
「よっ、横田っ、手を離さんか! 暴力はいかんっ。みんなっ、なにがあったんだっ?」
なんだ? この教師は。
手を離せだと?
事の真相を聞きもせずに、この盗人を放免せよというのか。
唖然としていると、今度は太ももを押さえて床から起き上がった腰巾着が合いの手を入れた。
「先生っ、止めようとした僕も蹴られましたっ! 赤坂はちょっと横田の唐揚げをつまみ食いしただけでっ」
「は? そんなことでか」
そんなこと……、そんなことだとっ?
盗人だぞ?
教師ならば、他人の物に手を出すくらいなら死ねとでも戒めるのが務めではないか?
思わず眼光が戦車教師へと向く。
「教師よ、こやつは盗人なのだぞ? しかも自省の念の欠片も持ち合わせておらん、人倫に悖る輩なのだ。貴様がしっかりと戒めないか」
「え? な、何言ってるんだ? いや、とにかく暴力はいかん! 手を離せっ」
「何だと? 教師がそのようなことだからこんな浅慮な若輩が増長するのだ! 教師たるもの、不徳に臨んで正義の鉄槌を振り下ろせないでどうするかっ!」
赤坂を掴んでいる私の腕に手を掛けた戦車。
私は思わず、もう片方の手で戦車の手首を捻り離した。
「痛てててて!」
軟弱極まりない。
教師のくせに、このような愚鈍な小僧相手に手も上げきらんとは。
いよいよ、憤怒が心頭にはちきれんばかりとなる。
私は赤坂の腕をさらに絞り上げると、ぐいとその顔を引き寄せて眼光を注いだ。
「おい、謝るのか、謝らないのか!」
「痛てて! 何を謝るんだよぉ!」
「何を謝るのかだと? 許さんっ! 貴様のような出来損ないは、こうだっ!」
鈍い音。
ひしぎ上げた腕を思い切り引き寄せ、脚を払う。
ガシャリと椅子と机が撥ねのけられて、赤坂が床へ転がった。
そして私は、そのうつ伏せになった赤坂の無様な背中に、これでもかと正義の引導を渡したのだ。
「思い知れ!」
ドンという、痛快な振動。
ふわりと舞った床埃。
これでもかと紋所を踏み付けられた赤坂は、ううーっと小さな唸りを残して、それから泡を吹いて動かなくなった。