プロローグ 見知らぬ顔
どれくらいの時間が経ったのだろう。
気が付くと、そこには見知らぬ天井があった。
のっぺりとした、なんとも軽薄なその白い天井の数か所に、見たこともない細長い電球が光っている。
美しい。
まるで観音さまの後光のような、美しく神々しい白光だ。
じわりと目が慣れて、次第に周囲の像がはっきりと結ばれ始めると、私は己が至極清潔なシーツの上に安臥していることを理解した。
ふと、小鳥が啼くようなピッピッという音に気が付いて目を向ける。するとベッド横の脚の上に、不思議な光る文字が浮かび上がるなんとも奇妙な函が据えられていた。
ここはどこだろう。
腕には腹巻のようなものが巻き付けられ、不思議な函から延びた細い管がそれに繋がっている。
体があちこち痛い。
かすかだが、陸軍の浄水錠を溶かした水のような匂いが鼻の奥に届いた。
もしや、ここは病院だろうか。
記憶を辿れば、私の零戦が謎の光に飲み込まれたのまでは思い出せる。
このように病院のベッドに寝かされているということは、あのあと機体に支障が生じ、意識朦朧としながらもどこかへ不時着したのだろう。
確かあのすぐ近くには、陸軍の広大な練兵場があった。おそらく、不時着するならそこだ。
するとここは、そのすぐ横にある専学の付属病院か。
そうだ、私と共に飛行していた清水一等飛行兵はどうなったのだろう。
まさか死んだのでは。
もし死なせてしまったのだとすれば、これは教官として大失態だ。
すぐに清水一飛の安否を確認しなければ。
「誰か! 誰か居ませんか!」
焦燥感に駆られる。
体を起こすと、両膝に激痛が走った。
思わず息を飲み身動きを留めると、私はそれからゆっくりとベッドに胡坐をかいた。
部屋を見回す。
何だ、この違和感は。
顔が映るほどに、つるんとした床。
壁の格子から聞こえる、強弱のない風音。
眼球だけを動かして周囲を窺ったあと、しばし放心する。
甚だ静寂なり。
すると突然、その静寂を破って不意に扉が叩かれた。
トントン……。
「入りますよー」
女の声だ。
ハッとして身をよじる。
身構えた肩越しに凝視すると、その扉は音も立てずに横にずれてすうーっと開いた。
「あら、目が覚めたのね。気分はどうかしら」
顔を覗かせたのは、見知らぬ女。
ニヤリと笑ったその女が、遠慮もなしに部屋へと足を踏み入れて来る。
私はさらに肩を強張らせて、息を潜めた。
「どこか痛む?」
ずいぶん馴れ馴れしい物言い。
女のくせに、男に対してなんという口のききようだ。
女はそのままベッドのすぐ傍まで歩みを進め、それから脚の上の不思議な函に手を延ばした。
「近くに雷が落ちて衝撃を受けたんですって。ちょっと感電したみたいだけど、命に別状はないそうよ? 覚えてない?」
言葉は流暢であるし、日本人に間違いなかろう。敵意は無いようにみえる。敵の捕虜となったという感じではない。
するとやはり、ここは病院なのだろうか。
だとすれば、こやつは看護婦か?
薄い桃色のボタンのない上着に、男のようなズボン姿……、実に珍妙な格好だ。
平静を装いつつ、話を合わせる。
「いえ、覚えておりません。ならば私が見た光は稲光だったのでしょうか。しかしどこにも雷雲は――」
「大ケガしなくてよかったわねー」
看護婦もどきは私の言葉は話半分に、手慣れた手つきで函を操作しつつ、不思議な光る文字に目をやった。
看護婦のくせに、なんたる不躾。
私は少々不愉快となり、じわりと身を乗り出した。
「看護婦さん、このことは隊には連絡済みでしょうか。私の所属は皇軍手帖に書いてあったはずですが」
「タイ?」
看護婦もどきはこちらに目も向けず、帳面になにやら筆記している。
「はい。隊です。私がここに収容されていることを知らせねばなりません。ここはどこなのですか?」
「ここ? ここは医療センターよ? 高校から直接救急車で運ばれたの」
「いりょう……なんと言いました? 陸軍の病院ですか?」
「はい? 何の話をしてるの? 一時的な記憶障害かしら」
帳面から目を上げた看護婦もどきが、眉根を寄せて私の顔を覗き込んだ。
思わずのけ反る。
「いや、そちらこそなぜ分からないのですか。そうだ、清水一飛は、私とともに飛んでいた清水一等飛行兵はどうなったのですか? まさか死んだのでは」
「ちょっと落ち着いて? 大丈夫だから。ずいぶん混乱しているみたいね。さ、まずはお名前を言ってみましょう。あなた、お名前は? な、ま、え」
「何だと? 子ども相手のような言い方をするなっ。私は海軍上等飛行兵曹、川島秋次郎だ」
「……は?」
大口を開けた看護婦もどき。
なにをそんなに驚いているのか、品の欠片もなく顎を落として放心している。
私は眼光を鈍らせることなく、目を逸らさずに続けた。
「看護婦よ、直ちに岩国の海軍航空隊へ至急電報を打て。文面は『川島上飛曹ハ健在、負傷ハ軽微ニシテ士気旺盛ナリ』だ」
一瞬の間のあと、看護婦もどきはぴくりと唇の端を動かして、それから帳面を抱き寄せながら苦笑いした。
「えっと……、とにかく意識が戻ってよかったわ。では、またあとで……」
やっと私の気分を害したことに気が付いたのか、品のない看護婦もどきは狼狽しつつ、そそくさと部屋を出ていった。
肩の力を抜く。
そしてゆっくりと項垂れて、じっと手を見た。
ハッとする。
肌が柔らかい。
まるで少年のような手だ。
この八年、海軍の兵隊として幾多の苦境に晒されてきた手ではない。
何かがおかしい。
髪も伸びている。
そう訝しんでいると突然、先ほどは音がしなかった扉がバタンと鳴った。
「悠くん!」
慌てて顔を上げる。
すると、今度は別の女が、その開け放たれた扉から駆け入った。
女学生か?
瞳いっぱいに涙を湛えた、若い娘。
志保?
いや、志保に良く似ているが、見知らぬ娘だ。
「よかった! 目を覚ましたんだね!」
突進してくる娘に一瞬たじろぐと、娘は間髪入れず私に飛び掛かった。
「こら、ちょ、ちょっと待ちなさい」
恥じらうこともなく、突然に抱擁してきた娘。
なんなのだ、この娘は。
帝国淑女にあるまじき、無遠慮極まりない痴態。
「こら、離れないか」
私は眉をひそめつつ、娘の頭を押し返した。
同時に、娘の後ろから先ほどの看護婦もどきが声を発する。
「彼女さん? 彼氏はかなり記憶の混乱があるみたい。もしかしたら、あなたのことしばらく思い出せないかも」
「え? は、はい。悠くん?」
娘が大きな瞳を真っ直ぐこちらへ向けた。
看護婦もどきの言葉を聞いて娘は慌てて私から体を離したが、手は力強く握ったまま離さずにいる。
「ご、ごめんなさい。あの、悠くん、あたしのこと分かる?」
「すみません。私の記憶では、あなたとは初対面だと思いますが」
「冗談だよね? 悠くん」
娘は茫然としている。
私はなにがなんだか分からないまま、とりあえず娘に正対しようと、胡坐を解いて痛む足をベッドの下へとじわりと下ろした。
「お嬢さん、申し訳ないが私はあなたの言われる、『ゆうくん』ではない。それから、女がそんなに気安く男に体を触らせるものではない」
「え? あ、ごめんなさいっ。えっと……、ほんとに分からないの?」
そういって娘はゆっくりと私の手を離すと、瞳をゆらりとさせた。
知らぬものは知らん。
それをどうしろというのだ。
それにしてもこの娘、ずいぶんと変わった格好をしている。
女学生らしからぬ栗色の髪。
その髪は、尼そぎともオカッパとも形容し難い中途半端な長さ。
服装も妙だ。
女学生ならば動員中もセーラーを着ていねばならぬところ、なにやらパーティーにでも行くようなハイカラな服を着ている。
上は首元に赤い蝶々結びが付いた白い長袖ブラウスと茶色のチョッキで、下は上同様茶色のスカート。しかしよく見ると、そのスカートにはハンケチにでも使うような格子柄がうっすらと入っている。
これが普段着だというのなら、戦時下であるというのになんと怪しからんめかしようか。
思わず眉をひそめた。
「お嬢さん、いまがどういう時か分かっているのか? そのような格好は――」
「悠真っ、よかった! 気が付いたのね!」
少々説教せねばと口を開いた瞬間、開け放たれたままの扉からやにわに姿を現したのは、これまた見知らぬ中年の女。
娘がすぐに女のほうを振り返る。
「おばさん! どうしようっ? 悠くん記憶喪失なんだって。あたしのこと分からないって!」
「え? 結衣ちゃん、ほんとなの? 悠真、お母さんのことも分からないの?」
お母さん?
何を言っているのだ、この女は。
唖然としてその顔を見るも、女は冗談ではない様子。
一瞬目を瞑って息を吸い、私はそれからややこもらせた口をじわりと開いた。
「ご婦人、よろしいか。私の母は、昨年の小倉の空襲で命を落とした。申し訳ないが、なにか勘違いをされているのではないか?」
「ご婦人? あ……、あの、看護師さん」
目を大きく見開いた女が、小刻みに震える手を口元に当てて看護婦もどきへ目をやった。
看護婦もどきが小さく首を振る。
「すみません。あとはドクターから詳しく聞いてください」
再び私のほうへ目を向ける女。
その向こうで看護婦もどきは小さく一礼して、蚊の鳴くような声で、「では」と言いつつ部屋を出ていった。
女と娘は、まだそのまま立ち尽くしている。
私は脱力して、大きな溜息をついた。
ふと、ベッドの頭のほうを見ると、鉄柵につるんとした白い札が取り付けられ、そこには、『横田悠真』と書かれていた。
そうか、『ゆうくん』とは、この札の男か。
どうやら、私は悠真という男と間違われているらしい。
そして、この女はその男の母親で、この結衣という娘は……、男のガールフレンドか幼馴染みといったところか。
直接眼前で見ているというのに見紛えるとは、その男は相当に私と瓜ふたつなのだろう。
「この札の男をお捜しであれば、やはり人違いだ。ご婦人、お嬢さん、悪いがお引き取り願おう。私は病院の者に用事があるので、これで」
そう言いつつ私は、腕に巻かれた腹巻のようなものをバリバリと剥がした。
「あ、あの、悠くん……」
娘が半歩踏み出して、至極当惑した瞳をこちらへ向けている。
私は構わず、それからしっかりと床に両足をついて立ち上がり、少々痛む膝を繰り出してふたりの間を通り抜けようとした。
その時だった。
ちらりと、視界の端に見えた動くもの。
鏡だ。
ベッドのすぐ横の壁に取り付けられた、なんの変哲もない鏡。
その鏡には、立ち上がった私の姿が映っている。
いや……、違う。
そこには立ち上がった私の姿が……、映っているはずだった。
思わず立ち止まる。
そして私は、一瞬逸らした目をもう一度しっかりとその鏡へ向けた。
「誰だ、お前は」
私は、愕然とした。
そこに映っていたのは、全く見知らぬ少年。
すぐさま鏡へと一歩踏み出し、食い入るようにそれを覗き込んだ。
やはり、映っているのは……、私が全く知らない若い男だ。
なんなのだ?
のけ反り、無様にも膝の力が抜け落ちる。
「悠くん?」
「悠真、どうしたのっ? 大丈夫っ?」
女と娘が駆け寄り、私の脇を抱えた。
私はすぐに彼女らを睨み返し、その手を振り払う。
「寄るなっ!」
どういうことだ。
私が見知らぬ誰かになっている。
「貴様たち、私に何をしたのだ! この顔は誰の顔だっ!」
腕を振り上げた。
響いた私の怒号。
後ずさる、娘と女。
「そこをどけ!」
私は女と娘を払いのけるようにもう一度腕を振り上げ、痛む膝に力を入れた。
廊下へと出る。
眩い陽光。
一瞬、目がくらんだ。
私はなにくそと喉の奥で叫びながら、負けじとさらに大きく目を見開いた。
真っ白な世界。
硬い床を踏む裸足に、冷水に触ったような冷感が跳ね返っている。
見ると、そこは見たこともない、目がくらむほどの長い廊下。
恐ろしく、しんと静まり返っている。
ごくりと唾を飲み込みさらに見渡すと、並んだ至極透明なガラス窓越しに舞い降りた陽光が、まどろむほどに白い世界を温めていた。
窓の外には、四月らしい真っ青な空と白い雲。
私はおもむろに足を進めて窓の際に立ち、それからその青空の下の風景を見た。
そして……、そして私は、その風景に打ちのめされたのだ。
遠く遠く広がる真っ青な空は、私が知っている空と全く変わりない。
しかし、その空の下には私の知らない、光沢を放つガラスと色鮮やかなコンクリートで作られた高く堅牢な建物が乱立し、何本もの車線をもつ幅広の道路に色とりどりの自動車が無数に行き交っていたのだ。
夢か、幻か。
私はしばらく放心して、この美しい街並を眺めた。
そしてふと気が付くと、私の横には先ほどの娘が寄り添って、じっと私の顔を見上げていた。
私は、ようやく悟った。
周りがおかしいのではない。
私のほうが、この不思議な仕掛けに入り込んでしまったのだ。