聖なる女王陛下は野蛮な大公との結婚を回避したいのだと、人はいう。
聖なる女王陛下は野蛮な大公との結婚を回避したいのだと、人はいう。
噂とはあてにならないものだと、聖なる女王陛下であるセレネ・アーカディアは思う。
王宮の中でも特に日当たりがよく、謁見のためにもちいられる一室で、セレネはソファに腰を下ろし、大公であるオイゲン・ルガイアと向かい合っていた。
ローテーブルを挟んで正面に座るオイゲンは、誰が見てもわかるほどに冷ややかな雰囲気を醸し出している。
「人払いをしてよかったんですか、陛下? 俺のような薄汚い犬と二人きりになってしまっては、聖なる女王陛下の名に傷がつくのでは?」
オイゲンは一言も本心ではないだろう言葉を、嘲笑混じりに口にする。
セレネは内心で怯みながらも、穏やかに答えた。
「王と臣下が重大な問題について話をするなら、情報の漏洩に配慮するのは当然のこと。何も問題はありません」
ふうんと、忌々しさを含んだ相槌をオイゲンが打つ。
セレネは胸も胃も痛くなった。彼に嫌われていることは知っている。知っていてもつらくはある。セレネにとってオイゲンは初恋の相手だ。失恋を受け入れていてもなおつらい。しかし同時に胃が痛む思いもするのは、今オイゲンが不機嫌なのは仕方がないとわかっているからだ。
───よりにもよって、わたしとの縁談だなんて!
オイゲンが腹を立てるに決まっている。
王家と大公家の間には、それだけの因縁があった。
※
長い黒髪に濃い青の瞳という、しごく王家らしい容貌を持つセレネは、わずか十五歳で即位した。父王が流行り病で亡くなったからだ。おおよそにおいて善政を敷いた先王の死は多くの民を嘆かせたが、一部には胸をなでおろした者たちもいた。これで大公家との争いを終わらせられると期待した者たちだ。
アーカディア王国は四方を山に囲まれた緑豊かな国である。畑を耕し、家畜を飼い、鉱山を採掘して暮らす、ありふれた国だ。しかしこの国には一つの特殊性があった。異界より魔物たちが現れる扉、それが大陸史上初めて観測されたのがこのアーカディア王国だった。
異界の扉は、現在では大陸各地に存在している。魔物は脅威であるが、同時に富をもたらす存在としても見られている。魔物の牙や爪、鱗にツノなどは、貴重な武器や薬になるため、高額で取引されているからだ。一攫千金を狙って魔物へ挑む者は後を絶たず、異界の扉の近隣の村には宿屋と同じほどに墓が多いといわれている。
しかし、アーカディア王国に初めて扉が出現したとき、それは完全に未知の脅威だった。
突如現れた異形の魔物たちによる蹂躙と、国と民を守ろうとする王国の戦いは長く続いた。このとき最も活躍したのが現ルガイア大公家の先祖たちだ。
彼らは最初、王国の暗部を担う一族だった。王家の影ともいわれた彼らが表舞台へ出ることになったのは、皮肉にも、魔物との戦いによって王家が滅びかけているときだった。
王家の最後の一人、光の神の巫女と呼ばれた姫君は、影にルガイア大公家の名と地位を与え、国の護りを託した。ルガイア大公は姫君の願いに応え、魔物の軍勢を異界の扉の向こう側へと押し返すことに成功した。
女王となった姫君は大公へ問うた。
───褒美に何を望むか? と。
大公は答えた。
───異界の扉に最も近い土地、その一帯をルガイア領として、一族の自治を認めていただきたい。さすれば後々の世に至るまで、我らは国の盾となりましょう、と。
女王は彼の願いを叶えた。
そして昨今では、アーカディア王国唯一の自治領であるルガイア領は、最も危険な歓楽都市として栄えている。
……しかし、それを代々の王が、友好的な眼で見ていたかといえば、必ずしもそうとはいえないのが人の性というもので。
セレネの知る限り、王家と大公家はだいたい仲が悪かった。王家にしてみたら繫栄している自治領というだけで忌々しかったのだろうし、所詮は王家の影にすぎないという侮蔑があったらしい。一方で大公家からしてみれば、異界の扉から現れ続ける魔物に対し、国を守っているのは誰か? 役立たずの王家か? いいや我らだ! という怒りや悔しさがあったのだろう。歴史書を紐解けば、そのような光景が浮かび上がってくる。
それでも致命的な戦争にならずに済んだのは、おそらくは二つの家の特殊性があったからだ。
王家には代々、魔物の毒に対抗できる強い浄化能力者が生まれてくる。この浄化による支援は、強大な戦闘能力を有する大公家であっても失えないものだった。
また、ルガイア大公家を継ぐのは、ルガイアの地で最も強い者だ。異界の扉の番人を務める大公家は、一族とはいっても血によって受け継がれるものではなかった。初代大公が自治を求めたのは、血によって続く一般的な貴族社会とは一線を引いておきたかったからだともいわれる。
不仲ながらも正面切って争うことはなかった王家と大公家が、ついに内戦にまで至ったのは先王の代の話だ。
直接的な原因は不貞だった。そう、御大層な理由も何もない、セレネにとっては叔父にあたる先王の弟と、先代大公の妹君の道ならぬ恋とやらだった。
大公の妹君は独身だったが、セレネの叔父は既婚者で、奥方は隣国の王の姉君だった。二人の間には子供もいたし、セレネには叔父一家は仲の良い円満家庭に見えていた。しかしある日突然崩壊した。
不貞の現場に遭遇した奥方は怒り狂い、隣国からは猛抗議を受けた。しかし、叔父と大公の妹君は謝罪することはなく、自分たちの間にあるものこそが真実の愛だといい出した。泥沼化する状況の中で父王はよりにもよって叔父を庇った挙句、大公のふしだらな妹が弟をたぶらかしたのだといい張って、責任をなすりつけようとした。大公は激怒し、妹こそ王弟に騙された被害者だと主張して……ついに内戦になった。
セレネは何度も父王を諫めた。しかし、先王を動かしていたものは結局のところ、弟への愛情ではなく大公への嫉妬と憎悪だったのだろう。元より二家の間には確執があり、長年溜め込んだ負の感情があった。叔父と妹君の不貞問題をきっかけに両家の関係は坂道を転がるかのように悪化した。それでも双方ともに和解を求める声はあったのだが、王家の兵が老齢の大公の首を獲ってしまったことによって対立は激化した。
結局、内戦を終わらせたのは流行り病だった。戦場から始まった病は、王家と大公家を等しく襲った。王は亡くなり、王弟も亡くなり、奥方は子供を連れて隣国へ避難し、大公家の妹君もまた亡くなった。
セレネは即位すると、これより先は流行り病の終息を最優先とすること、そのために終戦を求めることを公に宣言し、大公家もそれを受け入れた。
セレネは即位から三年を病の対策に費やし、内戦後の立て直しに奔走した。
おそらく、新たに大公となったオイゲン・ルガイアも同じだったろう。
三年の間に、セレネがオイゲンと顔を合わせることはなかった。ただ、噂だけは耳に入ってきた。炎のような赤い瞳と冴え冴えとした銀の髪を持ち、黒衣に身を包み、端正な顔立ちに冷酷さと尊大さを浮かべる若き青年。先代大公に見いだされ、若くして取り立てられた獰猛な指揮官であり、大公家ではすでに王のように振舞っているという。不遜で野蛮な新ルガイア大公。
セレネが実際にオイゲンと顔を合わせたのは、ようやく流行り病の終息が叶い、国の立て直しの目途もつき、大公とも改めて今後についての話し合いをしたいと思っていた頃だった。
大公家から至急の知らせが来た。それは短くただ一言『邪竜が出た』とだけあった。異界の扉より現れる魔物たちの中で、最大の脅威と認定されている存在だ。その口が吐き出す炎一つで大都市すら全滅する。それは大陸史に刻まれている事実だ。
セレネは即座に騎士団長たちを招集し、自ら陣頭に立ってルガイア領へ駆けつけた。反対する声もあった。女王の身を案じる声もあった。しかしセレネは押し切った。自治領であろうと敵対した相手であろうと、紛れもなくこのアーカディア王国の一部である。セレネは国と民を守る王であり、広範囲の浄化を可能とする当代一の巫女だった。
オイゲンはセレネと騎士団を見て大きく顔を歪めたが、援軍の申し出を拒絶することはなかった。セレネは安堵し、同時にオイゲンが噂に聞くような尊大な人物ではないのだと理解した。彼は王家への恨みよりも民を守ることを優先したのだ。
邪竜とその眷属の群れを打ち倒すには、一度や二度の戦いでは済まなかった。セレネは必要に応じて何度か王宮へ戻りはしたが、およそ一年近くをルガイア領に留まり、オイゲンや彼の部下たちとともに戦った。
オイゲンは強かった。圧倒的だった。セレネは己の臣下である騎士団を弱いと思ったことはなかったし、彼らが日頃から鍛錬を積んでいることを知っていた。しかしオイゲンは格が違った。
さらに彼は、その精神性においても、セレネが初めて目にする類の男だった。彼は笑いながら戦うのだ。嬉々として敵を屠り、劣勢にあってもその嘲笑が崩れることはない。規律厳しい騎士団においては考えられないことだった。しかしオイゲンの見せるその余裕は、戦場においてはひどく頼もしく感じられた。
彼の部下たちも、多少の危機では動じず、冗談を交わすことを忘れないような面々だったから、それはルガイア流だったのかもしれない。領内に異界の扉を持ち、脅威と密接して生きてきた人々が培ってきた逞しさだったのだろう。
初めは反発し合っていた騎士団と大公家の面々だったが、ともに戦ううちに仲間意識が芽生えていったようだった。自治領のルガイアには、他国から移り住んできた者も含めて、多種多様な民族が暮らしており、さまざまな文化があって活気があった。セレネは初めて見るものに驚きや感心を抱きながらも、これだけ多様な人々の暮らしを纏め上げるオイゲンの手腕に感服していた。
彼は強かったが、強さだけではなかった。灯火のような紅の瞳が民を映すとき、その眼差しはとても優しかった。大公という地位にあっても話し方は率直で、飾り気がなく、荒々しくも親しみがあった。それを乱雑だと眉を顰める者もいたが、セレネには好ましく見えた。
オイゲンは騎士団の者たちが相手でも口調を変えなかったし、罵倒混じりに叱り飛ばすこともあれば、愉快そうに笑って褒めるときもあった。ルガイアの地で最強の大公は、騎士たちの心もたちまちのうちに掴んだようで、それが領民たちにも良い方向に作用しているように見えた。
オイゲンは優しかった。
───セレネ以外には。
セレネに対してオイゲンはどこまでも冷ややかだった。冷たくないときがあっても、それは腹を立てているか苛立っているかのどちらかだった。先の内戦を思えば当然の話である。
オイゲンは先代大公をとても慕っていたと聞く。王家を恨みに思うのも、許しがたく思うのも当たり前だ。不貞に関しては両家のどちらが悪いという話でもないだろうが、少なくとも内戦にまで至ったのは先王の罪だ。叔父に奥方と隣国に対して謝罪をさせ、慰謝料を払って離婚させるなりして、事を収束させる方向へ動けばよかったのだ。セレネは父親を愛しているし尊敬しているが、それでもあのときだけは間違っていたと思う。そして間違っていると知りながら、父王を止めきれなかったことを心から申し訳なくも思っている。
だから、オイゲンが自分にだけ冷たいのも、忌々しそうな目を向けてくるのも、仕方のない話なのだ。彼に嫌われているのはごく自然の話だ。
───間違っているのは、彼を好きになってしまった自分のほう。
セレネは先王の一人娘だ。母親である王妃を幼い頃に亡くし、物心ついたときから次期王としての教育を受けてきた。次期王として私情で動いてはいけないと教えられてきたこともあり、恋愛というものはセレネにとって遠い世界の話だった。いずれ政治のための結婚をするのだろうと思っていたから、いつか夫となる男性が素敵な人だといいなと夢見る程度だった。
恋に落ちるなんて、セレネにとって初めての話で。それも相手はよりにもよってオイゲン・ルガイアだ。セレネを忌み嫌っているだろう人物だ。
どうして好きになってしまったのだろうと何度も思った。それ以上に何度も好きだと思った。オイゲンが他者へ向ける瞳が好きだった。領民と話しているときの優しい瞳が好きだった。部下たちと冗談を飛ばし合っているときの気安い瞳が好きだった。敵を見据えるときの冷徹な瞳が好きだった。何もかもが好きだった。
それに、オイゲンは確かにセレネに冷たかったが、だからといって話を聞かないような人物ではなく、セレネの言葉には必ず耳を傾けてくれた。
無論、提案に対する判断は手厳しく「犠牲を最小限に、だと? 甘ったるすぎて笑えるな。バカかお前は」だとか「理想主義のお姫様なんぞ邪魔なだけだ。現実を見る気がないなら王宮に帰れ」だとか一刀両断にされることは多かった。
女王陛下に対する口の利き方ではないと憤る者たちもいた。
けれど、魔物との戦いを熟知しているのはルガイアの人々であり、オイゲンはその筆頭だ。王宮で生まれ育ち、今まで戦場へ出たこともなかったセレネの提案なんて、頭から無視することもできたのだ。
だけどオイゲンはセレネが話しかければ必ず振り向いた。立ち止まり、話を聞く姿勢を示した。
オイゲンはそういう人だった。
セレネのことが嫌いなのに、セレネが初めてルガイアの有名な市場を訪れたときには同行してくれた。セレネが物珍しい品々に目を奪われて転びかけたときには、慌てて支えてくれた。焦った顔で「ガキかお前は! ちゃんと前を見て歩け!」と叱られたときには、セレネは内心で嬉しさすら感じてしまった。炎のような紅の瞳が、自分に対して冷たさ以外を映し出してくれたことが嬉しかった。彼が好きだと思った。
邪竜とその眷属の脅威を退けるまでにおよそ一年がかかった。
その一年で、セレネはオイゲンとの溝が少しは埋まったような気がしていた。いや、そう信じたかった。けれど、最後の戦いのときに、己の愚かさを思い知った。
オイゲンがついに、その大剣でもって邪竜の巨躯を突き刺したときだ。邪竜が獰猛な叫び声を上げて崩れ落ち、噴き出た血がオイゲンの全身を濡らした。
魔物とはそこにいるだけで人にとっての毒素をまき散らすものだが、最も毒が濃いのはその血だ。邪竜を倒したオイゲンは、身体中を真っ赤に染めて、そのまま倒れ込んだ。
セレネは彼に駆け寄り、三日三晩、光の神へ浄化の祈りを捧げ続けた。
やがて寝台の上で目を覚ましたオイゲンは、傍らに座るセレネを見上げて、呆れたように呟いた。
「……俺を助けたことを、後悔する日が来るぞ……」
「わたしはあなたに生きていてほしかった。それだけです」
ほかにいえることはなかった。
オイゲンの言葉は紛れもなく不吉の予言だった。叛逆を示唆しているとすらいえるものだった。彼が自分に少しは心を許してくれたんじゃないかと思うことはただの願望にすぎず、彼の王家への憎しみは深いのだと教えるものだった。
オイゲンが回復し、セレネはルガイアの地を去った。
王宮に戻ってきて自室にこもり、一人きりでセレネは静かに泣いた。今このときだけは、自分を憐れんで、自分のために泣くことを許そうと思った。それでこの恋はおしまいだ。明日からはまた、アーカディア王国の女王として前を向いて生きていくのだ。
そう思っていた。
セレネは確かに初恋の終わりを受け入れたつもりだった。
しかし、邪竜討伐から半年後。
セレネには縁談が持ち上がっていた。
相手はオイゲン・ルガイア。王家と大公家の和解の象徴としての政略結婚である。
セレネは頭を抱えた。
大公家と和解はしたいし、和解したという事実を対外的に示すことの重要性も理解している。しかし、こんな縁談はオイゲンを怒らせるだけだろう。彼が受け入れるはずもなく、王家はまたしても大公家に屈辱を強いるのかと怒り狂ってもおかしくはない。
セレネは絶対にこんな縁談を大公家に持ち込まないようにと命じたが、そもそもセレネの部下が提案したものではなかった。なんとなく広まった世論とでも呼ぶべきもので、平和を望む人々による独身の女王と大公への願望のような話だった。一部の噂によるとこの縁談はすでに決定事項だが、聖なる女王陛下は成り上がりの野蛮な大公との結婚を厭っているらしい。そんな馬鹿な。
貴族の社交界でも噂が広まり、ついには『大聖堂を抑える都合があるから結婚式の日程について早く教えてほしい』と教会からせっつかれるはめになり、セレネは頭痛を堪えてオイゲンへ手紙を送った。そちらにもご迷惑をかけていると思います、申し訳ない、今後についてご相談したいのでお手数ですが王宮まで来てくれませんか? そういった内容の手紙だ。
手紙を携えた使者がルガイアの地に到着してから三日後、オイゲンは王宮へ現れた。早すぎる。ルガイア領と王都はそこまで近距離ではない。いったいどうやってと思ったが、恐ろしいことにオイゲンは一人だった。
つまり大公でありながら供を誰も連れず、護衛も付けずに、単身で馬を次々に変えながら乗り潰す勢いでやってきたのだ。セレネはさすがに慄いた。オイゲンの怒りの深さを感じる。一人でやって来たというより、怒り狂って王宮へ乗り込んできたというほうが正しいのだろう。
セレネは午後のスケジュールをすべてキャンセルして、ただちに話し合いの場を設けた。人払いもして、室内には二人きりである。
そして今、セレネは睨みつけてくるオイゲンから目をそらしたくなる衝動に、必死で耐えていた。
※
天井から床まで伸びる長い窓が、午後の温かな日差しをたっぷりと室内へ取り込んでくる。
しかし残念ながら、自分たちの間に漂う空気は冷え切っていた。
オイゲンは紅茶を一口飲み、ティーカップをローテーブルに戻してから、しらじらとした瞳でこちらを見た。
「それで? ご相談というのは何ですかね?」
「大公は、今王都で流れている噂についてご存じですか?」
「さあ? 噂といってもどれのことやら。これでも色々な話が耳に入ってくる立場ですからね」
「わたしとあなたの間に縁談の話が持ち上がっているという噂です。それも、ほとんど確定事項だという」
紅の瞳が一瞬、揺らいだ。こちらが率直に切り出すとは思っていなかったのかもしれない。もっと迂遠な言い回しのほうが王家らしかっただろう。けれど、オイゲンに王宮まで来てもらったというのに、ここに及んで遠回しな会話をしようとは思わなかった。
「調べましたが、噂の出所ははっきりしていません。ただ、王家と大公家の対立に対する不安から、女王と大公が結婚したらすべてうまくいくのではないかと、そういった願望の話が発端のようです。噂が広まるにつれて、願望が事実としてすり替わってしまったのでしょう」
「それで? 陛下は自らを犠牲にして、野蛮な大公と結婚してやろうと仰るわけですか?」
オイゲンが嘲笑に頬を歪めながら、わざとらしく両手を広げてみせる。
「あなたが野蛮だなどとは思ったことはありませんが、質問への答えは否です」
眼をそらさずに、きっぱりという。
オイゲンは特に表情を変えなかった。彼はただ皮肉気な眼差しでこちらを見つめている。
「皆を安心させることは大切です。しかし、その方法は結婚でなくともよいでしょう。これは提案なのですが、来月にはハルベリアの祝典があります」
ハルベリアとは収穫を祝い、光の神へ感謝を捧げる祭りだ。王都は煌びやかに彩られ、地方からも大勢の観光客が訪れる。貴族たちもまた、ハルベリアの夜会には熱心に参加する。ただし、ルガイア大公家は別だ。
先代大公はめったなことでは王都を訪れなかった。
「祝典とその後の夜会に、あなたも出席していただけませんか、オイゲン。わたしたちの関係が良好であることを示し、噂を否定するために」
紅の瞳が思案するように伏せられる。
セレネは内心で安堵の息を吐き出した。提案を一蹴にはされなかったことにホッとする。
実際のところ、民心を落ち着かせるためには、結婚が最も強力な手札だろうとは思う。王家と大公家の間に和平が結ばれたのだと、誰が見ても一目でわかる方法だ。
けれど、オイゲンに結婚を無理強いはできない。そんな真似をしたら、王家と大公家の溝は深まるばかりだろう。それに、自分の個人的な感情としても、オイゲンには愛する人と幸せになってほしい。
大公という地位にあるからなのか、それとも別の理由なのか。一年近くの共闘生活の中では結局わからなかったけれど、オイゲンはときおり、ひどく危うく見えた。彼は確かに誰よりも強かったけれど、戦場で己の命をたやすく賭ける一面があった。今ここで勝つか負けるか、殺すか殺されるかがすべてだといわんばかりの極端さを見せることもあった。セレネがそれを諫めて、しばしば口論になることもあった。
───あなたの身に何かあったら、ルガイアはどうなるのですか!
───俺の次に強い者が継ぎますよ。それだけです。
……そんな言い争いをしたこともあった。
オイゲンに家族はいない。彼は幼い頃に母親を亡くし、孤児院で育ったのだと聞く。父親については顔も知らないそうだ。
結婚したらすべてが解決するとは思わない。だけど、愛する人ができて、その人が自分の帰りを待っていると思ったら、彼の危うさも和らぐかもしれない。
……できるものなら、自分が彼にとってのそんな相手でありたかったけれど、これはもうどうしようもないことなのだ。
幸い、というのもおかしな話だけれど、オイゲンは女性たちからとても人気がある。格好良くて優しいからだろう。それに荒っぽいところもあるけれど、笑顔には親しみがあって、話しかけられたら誰だってたちまち心を許してしまうような魅力がある。その上、強くて頼りになるのだ。そんな諸々を兼ね備えているのだから人気があるのは当然だろう。
自分がルガイア領にいた頃も、オイゲンに誘いをかける女性は多かった。自分の知る限りでは決まった相手はいなかったけれど、今はどうなのかはわからない。引く手あまたの青年なのだ。彼の逞しい腕に抱かれたいと願う女性は星の数ほどいるだろう。わたしだって、と、考えてしまって、胸の内で苦く笑う。
(わたしときたら、なんて諦めが悪いのでしょう)
恐らくオイゲンに最も嫌われている女が自分だろうに。
セレネは自分の未練がましさに終止符を打つように口を開いた。
「あなたには愛する人と結ばれて幸せになってほしいと思っているのですよ、オイゲン」
男の瞼がぴくりと震えた。
セレネは目を伏せて続けた。
「あなたにわたしとの結婚を無理強いはできません。これは王としての判断でもありますが、わたし個人としても思っています。わたしは……、あなたの幸せを願っています」
友人として、という言葉を最後に口にしようか迷った末にやめた。オイゲンに友人だと思われていない可能性のほうが高いからだ。
胸の痛みに耐えながら、大公の答えを聞くために目線を上げて、セレネは思わず息を詰めた。オイゲンの紅の瞳は、炎の中で弾ける火花のような苛立ちを浮かべていたからだ。先ほどまでは皮肉気ではあっても、至極冷静だったというのに、どうして。
「愛する人と結ばれて幸せに、ねえ……。さすが、高貴な王家の方は、本音を綺麗事で取り繕うことには長けていらっしゃる」
「なにを、オイゲン……。これはわたしの本心です。綺麗事ではありません」
強く否定しながらも、一瞬───本当にそうかしら? と、胸の内が囁く。彼の隣に自分ではない女性が並んで、紅の瞳が愛しそうにその人を見つめることを、本心から願える? やめてと叫びたくならないといえる? 嫉妬しないと誓える?
その問いかけはまるで悪魔のようで、己を戒めてもなお心が揺れた。
オイゲンはその一瞬の動揺を見抜いたかのように、ますます視線を尖らせる。彼の眼差しはいっそう冷ややかになり、纏う空気は焔のように険しくなる。
(まさか、オイゲンは、わたしの気持ちに気がついてしまっているのでは……!?)
この世で最も嫌いな女から恋愛感情を向けられていることに気づいて、非常に苛立っている、というのはあり得る話だ。全身からさっと血の気が引いた。どうにかして取り繕わないと、と思ったときに、苛立ちが露わな声がいった。
「ハルベリアの祝典に出席する話は受けましょう。縁談の話はナシでというのも構いません。俺だって別に、噂話を真に受けたわけじゃない。こっちだって、理想主義の面倒くさい女王陛下との結婚なんて御免です」
「理想主義はともかく、面倒くさいというのは失礼ではありませんか?」
「だけど、俺もおためごかしを聞くために、わざわざ王宮まで来たわけじゃないんでね。『俺の幸せを願って』なんていうのはどうかと思いますよ」
セレネはハッとした。オイゲンに結婚を無理強いできないというのは、見方によっては、この和解のための婚姻が成り立たない責任を彼に押し付けることにもなりかねない。セレネは慌てていった。
「誤解です、オイゲン。大公家に責任をなすりつけようとしたわけではありません。ただのわたしの本心であって、そういう意図ではなかったのですが……、今までのことを鑑みたら、そのように受け取られても仕方のない発言だったと思います」
すみませんと謝罪する。
けれどオイゲンの苛立った瞳は変わることなく、冷たくこちらを見つめていう。
「だからそういう綺麗事はいらないんですよ。はっきりいったらどうですか。───成り上がりの野蛮な大公とは結婚できない、と」
セレネは目が点になった。
予想していた反応とは九十度ほどズレている。予想が横に伸びる地平線なら、オイゲンの言葉はそこから勢いよく飛び立つ鳥のようだ。呆気に取られて鳥を見つめていると、なぜかオイゲンはますます自分の解釈に自信を強めた様子で、ふんとふんぞり返ってこちらを見ている。
そういえばオイゲンは、一年近く共に過ごした間も、ときどき不可解な人でしたね……と思い出す。思い出して、額を押さえながらいった。
「そのような噂があることは知っていますが、わたしはあなたのことを素晴らしい大公だと思っています」
「その綺麗事で逃げるのをいい加減やめろといっているんですよ、俺は」
「わたしも何度もいっています、これがわたしの本心であると」
オイゲンが凍り付くような視線を向けてくる。
セレネは炎のような怒りを込めて見返した。
ルガイア大公は鼻で笑っていった。
「正直にいったらどうです。大公位なんて所詮形ばかりのもの、魔物殺しを請け負う傭兵と大差はない、尊い血筋も深い教養もない薄汚れた犬。貴族の皆さまが陰で何をいっているかはよく知っていますよ。俺にもそれなりに耳はあるんでね。聖なる女王陛下としては、そんな卑しい男と結婚はできない、そうでしょう?」
「……一部の貴族たちの間に、ルガイアへの差別意識を持つ者がいることは事実です。そして、それを主導したのがわたしの父であることも。その点については、心から謝罪します。ですが、わたしはこれからそういった風潮や皆の意識を変えていきたいと思っています」
「別に、今さら過去を責め立てるなんて不毛な真似はしませんよ。……陛下は理想主義のクソ甘いお姫様ですけど、まあ……、派手に転んでも馬鹿みたいに理想を捨てないしぶとさだけは、まあ……、悪くないんじゃないですか」
セレネは瞬いた。そんな風にこの人にいってもらえるなんて思わなかった。
若き大公は、眉間に深い皺を刻んでいった。
「でも、それとは別に、こういうおためごかしには腹が立つんですよ。わかりますよね?」
「わかりません」
「おい」
「わかりませんよ。さっきから何なのですか、あなたは。認めてくれたのかと思えば、すぐに否定するようなことをいって。わたしはあなたのことを素晴らしい人だと思っているといっているじゃありませんか」
絞り出すような声で、太ももの上に置いた両手をきつく握りしめていう。
けれどオイゲンは馬鹿にするように笑うだけだった。
「ははっ、温室育ちの女王陛下の手にかかれば、大罪人でさえ聖者の気分が味わえるでしょうよ。うちのバカどもだって今じゃすっかり懐柔されて『さすが聖なる女王陛下』なんてほざいていますからね。女どもに至っては……、いや、ともかく、誰彼かまわず『素晴らしい人です』なんて持ち上げるのが陛下の悪癖なのは知っています。ただの悪癖だってことはね」
セレネは額に青筋を浮かべながらもにっこりと笑った。
「あなたがわたしのことを何も理解していないということを、わたしも今理解したところですよ、オイゲン」
「俺はただ、率直にいえよと思っているだけですよ。それで腹を立てるほど狭量な男じゃないつもりなんですがね」
「どれほど率直な言葉も、相手が聞く耳を持たなければ響かないものだと思いませんか?」
「確かに陛下の言葉は聞くのもうんざりするほど甘ったるくて夢見がちですけどね」
「……わたしが物知らずであることは自覚しています。あなたから見たら甘く、愚かなこともあるでしょう。ですが、それとこれは別の話です」
「……陛下の甘い理想に希望を見出す男も、いないわけじゃないでしょうから、いいんじゃないですか。陛下は外見だけなら美しく気高い女王そのものですし? まあ、中身は好奇心と無鉄砲さに溢れた暴走する子猫みたいなろくでもないもんですけど、そういうところも好きだと思うような馬鹿な男も、探せばいることでしょうし? 俺の話じゃありませんが。俺はただ、俺みたいな卑しい男と結婚したくないならしたくないとはっきりいってほしいだけですから」
セレネはじっと目の前の男を見つめた。 自分のことをどう評されても構わないが、卑しい男という言葉は捨て置けない。
オイゲンが自らの言葉を撤回するつもりがないということを確認するだけの十分な時間を置いてから、怒気を込めて口を開いた。
「いったいいつわたしがそのようなことをいいましたか? わたしはあなたを卑しいと思ったことも野蛮だと思ったこともありません。あなたは大公としてルガイアの民を守った。上に立つ者としてそれ以上の資質があるでしょうか」
悔しさに歯噛みするのは、彼にわかってもらえないからだけではなく、彼が自分自身を平気で貶めるような物言いをするからだ。
「わたしはただ……、大公家にこれ以上犠牲を強いる真似はできないと思っているだけです。和解を求める声が多いからといって、そのためにあなたの人生を犠牲にはできない。それだけです」
気まずい沈黙が降りる。
オイゲンとこうして話をするのはおよそ半年ぶりだけれど、そのためなのか、どうにも上手く会話ができていない。自分がルガイア領に滞在していた頃、魔物たちとの戦いについて話していた頃のほうが、オイゲンはもっと耳を傾けてくれたように思う。
戦闘の素人である自分が無茶な提案をしても聞いた上で答えてくれたのに、結婚の話になった途端に、いやにかたくなな態度を取るのはどうしてなのだろう。
(……もしかして、疲れているのでしょうか?)
三日で王都に到着したのだ。その可能性はある。オイゲンの部下たちは彼を『化け物並みの体力』と評していたし、自分も彼の疲れた顔というのはめったに見たことがないけれど、今回は意にそぐわない縁談ということで精神的に疲労しているのかもしれない。
(でも『疲れているでしょうから、後日また日を改めて』なんていっても、聞かないでしょうね……)
せめてと思って、セレネは室内の端に用意されている木製の可動式のミニワゴンに目を向けた。最初に侍女が用意してくれた紅茶はすでに冷めてしまっているが、新しい一杯を入れるための一通りの物はそこに揃っている。
よし、と勢いをつけてオイゲンを見る。彼もまたこちらを見ていた。
「紅茶が冷たくなってしまったでしょうから、新しいものを───」
「陛下の気持ちはどうなんです、もし俺が嫌じゃないといっ───」
同時に発した言葉が空中でぶつかり合って、聞き取れないまま消えていく。セレネは怪訝な顔でオイゲンを見返した。
「すみません、よく聞こえなくて、もう一度いってくれますか?」
「いや別に大したことじゃないんで、それより陛下こそ何をいいかけたんですか、紅茶がどうとか?」
「わたしも大した内容ではないので、あなたが先にどうぞ」
「俺も全然本当に何でもない話なので、陛下がどうぞ」
どうぞどうぞという譲り合いの末に、セレネが諦めていった。
「紅茶のお代わりはいかがですか? といいたかったのです」
「ああ……、いただきましょう」
やはりオイゲンは疲れているだろう。
セレネはさっと立ち上がり、木製のワゴンへ向かった。よく磨かれている飴色の天板の上には、お湯の入った銀製のポットに、その下に敷かれた保温のための豆熱石、茶葉の入っている陶器のティーポットに、二人分のティーカップが用意されている。
これを置いてくれた侍女には、お代わりが必要なときには呼んでくださいといわれているけれど、なに、自分だって紅茶を淹れることくらいはできるだろう。
「おい、そこの慎重そうなのは顔だけの女王陛下、まさか自分で淹れようと思っているんじゃないだろうな?」
「おや、あなたがそういう喋り方をするのは久しぶりですね」
「王宮だから気を遣って差し上げていたんですよ。それよりワゴンへ向かうのをやめてくれます? 扉を開けて侍女を呼ぶなりしろ」
「何を心配しているのですか? わたしだって紅茶を淹れることくらいできますよ」
「淹れたことがあるんですか?」
「何事にも初めての挑戦というときはあります」
「バカ、やめろ、お前のその初挑戦とやらで、俺が何度肝を冷やしたと思ってる!? 紅茶くらい俺が淹れて差し上げますから、どうぞ陛下は座っていてください」
立ち上がりかけたオイゲンを、セレネは眼で制した。
「オイゲンこそ座っていてください。わたしが初めてながら見事に美味しい紅茶を淹れてみせましょう」
「どこから湧いてくるんだよその自信は! お前は自分がガラス窓に向かって突進する子猫と同レベルだということをいい加減悟れ!?」
セレネは胸を張って答えた。
「わたしの侍女は美味しい紅茶を淹れてくれる名人なのですよ。彼女のやり方を真似すれば間違いありません」
「真似するだけで名人になれたら訓練なんていらねーんですよお前は温室に咲くアホの花か!?」
オイゲンのお説教を聞き流し、さらにはこちらへ来ようと来る彼を王の眼力で制しながら、セレネは銀のポットにそろそろと手を伸ばした。
この銀製のポットに入っているお湯をティーポットへ注いで、ティーポットからティーカップへ注ぐ。簡単なことだ。オイゲンは自分のことを物知らずの温室育ちだと思っているようだが、そんなことはないと証明してみせよう。
セレネは内心でそう張り切って、銀色の持ち手へ向かって手を伸ばした。オイゲンがこちらへ来ないように威嚇することに意識を向けていたために、天板に上品なタオル生地が置かれていることは失念していた。
そして、指先が熱された銀製の持ち手に触れて───思わず手を引っ込めた。
「あつ……っ」
「このバカ!!」
オイゲンが慌てた様子ですっ飛んでくる。
彼に手を掴まれて、先ほどの驚きとは別の意味で心臓が跳ねてしまう。どきどきと勝手に音を立てて、火傷の熱さとは全く違う種類の熱が身体中を回っていく。
「なにか冷やすもん……なんてねえかこの部屋には。ソファに座っていてください、陛下」
「えっ、いえ、大丈夫です。少し驚いてしまっただけですから、紅茶を淹れますので待っていてください」
焔色の瞳が、今日一番といっていいほどにぎらぎらと怒りに輝いた。
「手当てが先でしょうがこの温室育ちのアホ陛下が」
「アホというのはあんまりでは……?」
反論は聞き入れられなかった。無言で怒り狂った顔をするオイゲンに手を引かれて、ソファに座れと促される。「動くな何もするなじっとしてろ」と念押しのようにいわれて、大人しく座っていると、一度廊下へ出たオイゲンが、濡れタオルと氷を持って戻ってきた。
その頃にはもう痛みもなく、皮膚の赤みも消えていたけれど、彼の気遣いが嬉しかったので、ありがたく貰っておく。しばらく冷やしていると、今度はオイゲンが軟膏と包帯を持ってきて、手際よく手当てをしてくれた。
「薬が必要なほどの怪我では……」
「黙ってろ」
厳しい眼でいわれて、セレネは小さく肩を落とした。
考えてみれば、オイゲンが怒るのは当たり前だ。氷や軟膏は、たまたまオイゲンと顔見知りの近衛騎士───ルガイアに同行していた者だ───がいたから内密に用意してもらえたそうだけれど、口の軽い者に知られたら『大公との会談中に女王が怪我をした』なんて噂になりかねない。
セレネは指先にきれいに巻かれた包帯を見つめて、それからワゴンの傍に立っているオイゲンへ視線を移した。彼はまったく危うさのない手つきで二人分の紅茶を用意している。大剣ではなく陶器のティーポットを持つ姿も格好良いが、何から何までお世話になりすぎである。
オイゲンが新しいティーカップをローテーブルへ並べ、飲み終えた方をワゴンへ戻す。それから彼はソファに戻って、やや乱暴な手つきで紅茶を一口飲むと、疲れたような息を吐き出した。
セレネは落ち込みながら頭を下げた。
「すみませんでした、オイゲン。わたしに何かあれば、それだけであなたを責める者もいるというのに、火傷をしてしまうなんて軽率でした」
「……好きで怪我をする奴はいませんよ。そこはべつに謝らなくていい」
「手当てをしてもらって、紅茶も入れていただいて、疲れているあなたを働かせてしまったことも、申し訳なく思っています」
「疲れていませんし、こんなものは働いたうちに入りません」
「……では、何を怒っているのですか?」
紅の瞳がぎろりとこちらを見た。
「反省してますか、陛下?」
「もちろんです」
「自分の手で紅茶を淹れようなんてしなければよかった、次からは無謀な挑戦はしないで侍女を呼ぼう、と思っていますか?」
「いえ、それは思っていませんが」
「この温室育ちのアホ花が」
突然罵られた。
セレネは目を瞬かせながらも、説明するようにいった。
「だってオイゲン、昔からいうではありませんか。失敗は成功の母であると。一度や二度の失敗で諦めるわたしではありませんよ。次回はちゃんと時と場所を選んで挑戦します」
「お前は王室に咲いた突然変異のアホ花なのか?」
「いくらなんでも失礼ではありませんか?」
「いいですか、陛下。これが政治や外交の分野であるなら、俺も何も申し上げません。いくらでも挑戦なさればいい。失敗しようと、怪我をしようと、納得がいくまで挑み続ければいい。ですが、専門外のことについては別です。紅茶を淹れるのは陛下の仕事ではなく侍女の仕事です。専門のことは専門家に任せるのが一番。わかりましたね?」
射殺すような眼で見られて、セレネは首を傾げた。
「ずいぶん紅茶にこだわりますね……?」
「俺の話を聞け! お前はルガイアでも散々似たような真似をやらかしただろうが! 芋の皮むきに挑戦して切り傷だらけになったこともあったのを忘れたか!? 真っ赤な手のひらを見せられた俺のほうが死ぬかと思ったぞ!?」
「ああ……、懐かしいですね」
セレネはしみじみといった。あれはルガイアに滞在してまだ三月ほど経った頃のことだ。浄化を行いすぎて貧血を起こしそうになったのを、オイゲンに見咎められて、無理やり休みを取らされたのだ。だけど、寝ているのも退屈で、こっそりあてがわれた館の中を歩き回った。
「大人しく休んでいるはずの女王が、厨房で芋の皮むきをしていると聞かされた俺の身になれ……!」
目の前の青年が顔を覆って呻くようにいう。
セレネは少々考えてから答えた。
「今だから言いますけれど、オイゲン。あれは単なる好奇心から行ったわけではなく、厨房の女性たちからの挑戦に応じたのですよ?」
「は? 挑戦?」
「そうです。あの迎賓館の中を散歩していたときに、厨房でのお喋りを耳にしましてね」
「なにが散歩だ、この脱走の常習犯が」
オイゲンが目をぎらつかせるのを見なかったことにして、セレネはぐっとこぶしを握り締めた。
「彼女たちはこういっていたのです。いくら浄化の力が強くても、料理の一つもできないようなお姫様じゃ大公の隣には相応しくない、と」
「は……?」
「大公閣下は大食らいなのだから、胃袋を掴めるような人間ではなくては、とも話していました」
「え……、お前、それって……」
「そう、わたしは、わたしこそがあなたの隣にふさわしいと証明するために、彼女たちに挑んだのです!」
「それは、え、お前、それは、まさか、そういう意味、なのか……?」
「ええ、大公に並び立つにふさわしい王であると彼女たちに認めてもらいたいと思ったのですよ!」
「こんの温室育ちのアホ花が……!」
オイゲンが腹の底から吐き出すような声でいった。
彼は崩れ落ちるようにばたんと背中をソファの背もたれに預けると、だらりと天井を仰いで、呻くようにつぶやいた。
「ちくしょう、どうせそんなことだろうと思ったぜ。毎回毎回そうだこの高嶺のアホ花が……、定期的に思わせぶりなことをいってくる類の悪魔かこいつは……、せめて高嶺かアホかのどっちかにしろ……、くそ、期待させやがって……、いや別に期待なんかしてねえけどな? 俺は全然どうでもいい」
「あの、オイゲン……?」
一人でぶつぶつ言い出してしまって、どうしたのだろう。
やはり疲労が溜まっているのでは、と案じたとき、オイゲンがよろよろと姿勢を正した。そしてこちらを睨みつけてくる。
「だいたいな、その会話の流れでどうしてその結論になる? 女連中がいっていたのはどう考えてもそういう意味じゃねえだろうが」
「なにをいうのです、オイゲン。彼女たちだって不敵に笑って告げたのですよ。『じゃあそこの芋をすべて一人で剥いてみなよ』と。そこでわたしは包丁を借りて皮むきに挑戦したのです。こう、くるくるっと剥いたのですよ」
「お前、あの血塗れの惨状を作っておいてよくもいけしゃあしゃあと『くるくるっと』なんていえたな?」
「彼女たちも途中からわたしを認めてくれて、『わかった、わかったから包丁を置きな、落ち着いて、ゆっくり包丁を置くんだ、頼む、話し合おう』といってくれたのですよ」
「立てこもり犯への投降の呼びかけか?」
「多少の負傷はありましたけれど、彼女たちに認めてもらえたことは誇らしく思います」
「お前が認められたのは王の器じゃなくてイカレ具合だよ」
「失礼では?」
「全然」
セレネはむっとして紅の瞳を睨みつける。
オイゲンは鼻で笑っていった。
「よろしいですか、女王陛下? 俺は陛下が平気で御身に傷をつけることに臣下として腹を立てているだけです。とはいえ俺はあなたのことなんて、全然なんとも思っていません。あなたが好きだなんてことは、まったく、これっぽっちも、絶対にあり得ませんので」
「……わかっています」
なにもそこまで念押ししなくてもいいのにと、じくじくと痛む胸の内で思う。
オイゲンは口は悪いところがあるけれど優しい人だから、目の前で誰かが怪我をしたら心配するし手当てもするのだ。たとえそれが嫌いな相手でも、彼の行動は変わらない。それが彼の度量の大きさだ。
「あなたの気持ちはわかっています。だからこそ、あなたにわたしとの結婚を無理強いできないといっているのです。わたしはあなたに愛する人と幸せになってほしいと願っているんです」
「またその話か。俺のためを思ってなんていう綺麗事はいい加減やめてくれませんかね? 俺のような野蛮な男との結婚は嫌だと、そう正直にいってくれた方がずっとスッキリするんですよ」
「あなたこそ頑固者のわからず屋です。わたしはあなたを素晴らしい人だと思っているのに!」
「はっ、じゃあ俺と結婚できますか? どうせ、それはできないというんでしょう?」
オイゲンがせせら笑う。
セレネはついに腹に据えかねていった。
「わたしは無理強いできないといっているだけです。あなたが問題ないというなら結婚しましょう、あなたが本心からわたしと幸せな結婚ができるというなら!」
「強がりはそこまでにしたらいかがですかね女王陛下、俺だってあなたがいいなら構いませんよ、それでは結婚しましょうか!?」
「あなたこそ売り言葉に買い言葉で不幸になる前によく考えるべきですが、いいでしょう、そこまでいうなら結婚しましょう!」
セレネはオイゲンとばちばちと睨み合った。
オイゲンが端正な顔で凄むように笑う。
「後悔しても遅いからな。絶対に結婚してやる。お前が泣いて謝ってごめんなさい結婚できませんと正直にいうまで、俺からは絶対に破談にしてやらん」
「あなたこそ、冷静になれば途端に後悔することでしょう。これは当代一の光の巫女であるこのセレネ・アーカディアの予言です。わたしに先見の力はありませんが、なくともこの冴え渡る直感でわかります。あなたから破談を申し出るなら、わたしは快く受けて差し上げましょう」
「はっ、お前に冴え渡る直感なんてあるか。お前はガラス窓があることにも気づかずに突進していく子猫と同レベルの危険予知能力だろうが」
「いっておきますが、わたしと結婚するなら、あなたはわたしと誓いのキスなどをする羽目になるのですよ。あなたが好きではないこのわたしとキスなどを!」
「お前は子猫以下だ」
「失礼な」
「俺は正しい」
オイゲンは心底忌々しそうな眼でこちらを睨みつけて立ち上がる。そのまま扉へ向かった。
「ルガイアに戻る」
「どうぞご自由に」
「結婚の準備については担当する人間をよこす」
「オイゲン、落ち着いてよく考えてくださいね。謝罪の手紙はいつでも受け取りますよ」
「泣かせるぞお前」
オイゲンは視線だけで射殺せそうな眼をこちらに向けて、部屋を出て行った。
※
一人残されたセレネは、はあと深く息を吐き出した。
どうせ、オイゲンだってルガイアに着く頃には頭が冷えていることだろう。結婚について担当する人間を寄越すなんていっていたけれど、次に訪れる使者はハルベリアの祝典の打ち合わせに来るにちがいない。……そう思いながらも、彼のいつになく腹を立てた様子を思い出す。
「後悔するのは、あなたのほうなのに……」
嫌いな女性と結婚するなんて、オイゲンが不幸になるだけだ。
もし彼があまり意地を張るようなら、自分から『この話はなかったことにしてほしい』という手紙を出したほうがいいのだろう。
(───だけど、わたしがこのまま黙っていたら、彼と結婚できるのかもしれない)
そう思ってしまって、苦く笑った。
そんなことが許されるはずがないのに。美しい花嫁衣装をまとって彼の隣に立ち、誓いのキスをするのは、自分ではない誰かだ。オイゲンが心から愛する誰か。それは自分ではない。わかっている。
ああ、だけど、一瞬だけ見た夢はひどく甘い誘惑で。
忘れるにはもう少しだけ、時間が必要だった。