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いつASDに気が付いた?

 私が、自分が当時「自閉症」と呼ばれていた存在である、ということに気づいたのは11歳、小学校5年生の時だった。


 きっかけは学校の図書館に置いてあった漫画だった。


 『光とともに…』という、自閉症児を描いた漫画である。


 緻密な取材に基づいた漫画に描かれた自閉症児、光に私は強く共感したのである。


 自閉症というのは自閉症スペクトラム障害、という名前が付く前の名前だ。


 2013年、それまで自閉症、広汎性発達障害、アスペルガーなどと複数の名前で呼ばれていた「病気」が治りようのない、そして原因が一致した「障害」であると定義された。


 そしてついた新しい名前が、「自閉症スペクトラム障害(ASD)」だ。

 

 言葉がしゃべれないわけではない。


 パニックになって手足を振り回して泣き叫ぶわけでもない。


 発言がおかしくても、変な人、かかわりたくない人、空気の読めない人と流される。


 そんな、それまで障害と診断されなかった「グレーゾーン」の人たちが人間社会になじめない「障害者」であると、新しい定義は認めてくれたのである。


 11歳の私は自閉症と診断された漫画の中の光に強く共感したが、同時に自分は「ここまでひどくはない」とも思った。


 おそらく自分は自閉症である。


 だが、漫画の中の光との差異から、自分が支援や治療が必要な障害者ではない、と結論付けたのである。


 実際、私はその時点ではグレーゾーン。


 自閉症の診断が出るほど悩まされていたわけではない。


 私はその時から心の片隅で「自分は自閉症であるけれど障害者ではない」と思うようになったのである。


 では、私はいつ自分が社会になじめないほど「異常」であると気付いたのか。


 それは、成人し、仕事に勤めるようになったある日のことだった。


 私はその日、仕事で失敗をした。らしい。


 そんな私を、上司はこっそり人がいない部屋に呼び出し、注意をしたのである。


 それは日本語だった。


 やんわりと、少し回りくどいけれど、その失敗をしてはいけない理由をしっかりと諭す、きっと理想的な注意だった。


 私は、その注意の意味が全く分からなかったのである。


 言葉は分かる。日本語だ。私の母語だ。


 言っていることを一字一句間違えず書き出すこともできるし、文節に区切ることもできるし、なんなら名詞動詞助動詞副詞形容動詞と国語の問題みたいに分けることもできる日本語だった。


 なのに、何を言われたのかわからなかった。


 まるで私が聞いたことのない宇宙語で話しかけられたように、私はその言葉の意味を一切とることができなかったのである。


 パニックになった。


 言葉がわからない、そんな経験はなかった。


 あの時のことは詳しく覚えていない。何と答えたのか、謝ったのか、何を言ったのかしたのか。全く覚えていない。


 覚えているのは、「この症状に覚えがある」と頭に稲妻のように名詞が走ったこと。


 「アスペルガー」。


 これは、その症状ではないかと。


 まだ学校に通っているころから、私は心理学に興味を持っていた。


 自分とほかの人の考え方や感じ方がちょっと違う。


 その差異が学術的に解き明かされているのが面白くて、大学でも心理学に関する講義をたくさんとっていた。


 アスペルガーのこともその時に知った。


 だから自分がそうなのではないかとすぐさま思い浮かんだのであろう。


 気づいた後は早かった。


 私はすぐにアスペルガーについて調べなおし、名前が変わっていることを知った。


 そして、私がかつて適応障害になったときにお世話になった精神科の先生に電話をした。


 「治療の中で、私が発達障害であると思ったことがありますか」


 答えはすぐに返ってきた。「そうだろうと感じた」


 「治療が必要な発達障害ですか」


 「何の手助けもなしに社会で生きていくのは難しいかもしれない」


 天地がひっくり返ったような気がした。


 それまで「自閉症であるけど社会で生きていける」と思っていたのが突然「あなたは社会に適応できない」と言われたのだ。


 自分が自閉症だと思っていた私でさえ、受け入れがたかった。


 ああ、だけど、私は気づいていたのだ。


 まだ一月も勤めていないその職場で、治療が終わったはずの適応障害の症状が少しずつ強くなっていることに。


 猶予はない。そしてたぶん私の考えは当たっている。


 私はすぐに親に助けを頼み、発達障害のテストを行える精神科を探した。


 前にお世話になっていた精神科は、引っ越しで離れてしまっていたのだ。新しい病院を探さなければいけない。


 そして新しい病院に行き、一か月後にテストの予約をして――診察はやはり、適応障害。


 一か月後に行われたテストの結果は、「ASD/ADHD混合型」。


 言語性IQと動作性IQの間に30程度の差がある、「一般就労は非常に難しい発達障害者」であった。


 衝撃は強かった。


 それまで目標があって、就職したい場所があって、そのために頑張ってもいたのに、いきなり「一般就労は難しい」。


 つまり「障害者枠での就労が望ましい」、だ。


 それどころか普通の社会生活を送るのも難しい。


 いくらIQが高くたって、()()()()がとれてなくては社会に適応はできない。


 家に帰って泣いた。


 夢はどうしたってかなわなくなった。職場もその時はもうやめていた。心は強く病んでいた。


 無理やりに動かしていた体は、とうとう動かなくなった。


 受け入れるのにかかった時間がどれほどかは覚えていない。


 うつ病だったこのころの記憶はかなりあいまいだ。


 ただ調べた。発達障害のこと。今住んでいる場所でどんな支援があるか。


 先生にも聞いた。結果、私は精神障害者手帳をとることに決めた。


 手助けなしで社会で暮らせない。一般就労も無理。


 だったら手帳を持っていたほうがいろいろ融通が利く。


 嘆いたって障害はなくならない。障害者であるなら、障害があることを隠さず、武器にできるように。


 少しでも生きやすくなるように。


 工夫は今も絶えず。親には大変迷惑をかけている。友人とは迷惑をかけすぎて決裂してしまった。


 最近ようやく、私の病気から「うつ病」の文字が消えた。


 代わりに「双極症Ⅱ型」が増えたのであるが。


 検査から何年たった今でも私は社会復帰どころか、家事をこなすのもままならないときもある。


 かつては憧れた職場があった。


 今の夢はどこでもいい、自分の力が生かせる場所で働くことだ。


 社会の一員になりたい、それが障害者だとわかった私の願いなのである。



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