八話
結局その日は、親に顔を合わせることなく、布団に飛び込むことになった。
疲れていたというのもあるだろうが、なんだか気分が沈んでいて、親と顔を合わせたくなかった、というのも大きくあるだろう。
あの時は、どうするのが正解だったのだろうか?などと、布団の中で考えるが、眠気に襲われ、すぐに眠りについた。
「怜於ー、朝よー」
今から響いてきたその言葉にビクリと反応し、怜於は飛び起きた。母親に朝起こされるということが意味することは―
「やべっ!七時!?」
登校にかかる時間は、優に三十分を超える。そして、名門・真桜学園では八時着席が決められているのだ。
「今日朝ごはん食べないの?」
などと母が呑気に言っているものだから「いらない!」と言い、手際よく準備を進めた。
「…朝ごはん食べないとお腹空いちゃうわよ?」
ガチャリ、と怜於の部屋の扉を開けて母が入ってきた。
「でも遅刻しちゃう」
「…そう。じゃあ、気をつけてね」
父親はとっくに家を出たらしく、二人分だけ置かれた朝食を横目に見ながら靴を履き、家を出た。
「…ふぅ」
電車に乗り、息をつく。
電車の中ではどんなに急いでも無意味なので、そこは少し気楽だ。
「しっかし、寝坊とはなぁ…。気が緩んでる」
自分の情けなさを呪いながら、スマホを見る。かなり前から使われているというこの道具だが、技術革新が止まったその当時からあまり変化していない。ただ、Cookieと呼ばれるユーザー情報収集システムの精度は上がり、よりユーザーの需要に応じた情報をスマホに表示することが可能になっている。なので怜於のスマホには、最近ハマっているゲームの情報に溢れている。攻略、新イベントの情報、リーク情報…
一つだけ、違う項目があった。
怜於のスマホにニュースが出てくるのは稀だ。ふと気が向いたのでそのニュースをポチる。
「反政府組織、日本政府に“宣戦布告”!」
「鉄道に破壊工作か」
「首相は“強く非難する”と、反政府組織“橘”を強く批判」
「首相は“話し合いを望む”との意向」
「各地の鉄道に遅れ」
「各地の高速道路で渋滞、反政府組織と関連か」
思わず、スマホを落としそうになった。
そんな話、聞いていない。反政府組織が政府に宣戦って、それはもはや内戦じゃないか。そんな重大なことも知らずに半日生きてきたのか…と、怜於は自分のことながら情けなくなる。
(…じゃ、昨日の遅延もそれに関係していたのか…。)
そう思いながら、「反政府組織」について詳細を調べてみるが、あまりよく分からない。
「…大事にならないといいけどなぁ…」
その間に駅が近づいてきたので、怜於はニュースを閉じた。今の怜於にとっての脅威は、反政府組織などという胡散臭いものではなく、切迫した“時間”という、絶対的な強者である。
ずうーん、と沈んだ気分で、「はい…」と点呼に応える。
真桜学園全体の風習なのか、ここ黎明中学だけの風習なのかはしらないが、点呼という非常に面倒な文化がある。これに遅れれば、即ち遅刻ということになる。怜於は今日、十数秒遅れて点呼を行った。滅多に遅刻などないこの学校で遅刻をした怜於には、クラス中の視線が刺さるように感じる。
「廻君は今日はいないの?」
廻の隣の席である音緒が訊いてくる。廻は、ああ見えても(ああ見えても、というのは怜於の主観が100%入り込んでいるのだが)結構交友関係が狭く、音緒はその、数少ない友人網のうちの一人だった。
が、このことについては断定できない。
「…さぁ。昨日は一緒に遊んだんだけど」
「えっ、遊んでいたの…?」
あの成績で…?と目で訊いてくる音緒の視線が怜於の心を抉ってくるが、頷く。「遅刻かな」と呟いてみるが、廻も他の真桜生の例に漏れずに遅刻は滅多にしない。
「…休みかぁ…」
残念そうに音緒が呟くのを見て、廻に対する憧憬というか、羨望というか、尊敬の念を抱いた。―果たして、自分はそんな風に、誰かに求められているのだろうか。
そんなことを、無邪気に残念がる音緒の眼鏡を見ながら考えた。
「…以上より、ここの三角形が…」
光吉先生のありがたい御授業も、怜於にとってはさっぱり理解できず、まるで念仏のように聞こえる。心地よい旋律は、怜於の脳を次第に支配していき…
「怜於っ!起きろ!」
光吉先生の声が、怜於の脳内に直接響いてきた。
「ぅみません!」
「廻がいねぇから、今日はお前が今日の居眠り第一号だ」
大して面白くないジョークに怜於は閉口したが、クラスはどっと沸いた。全く不本意だった。
「今日のニュース見た?」
「怖いよねぇ~」
「「ねぇ~」」
休み時間、寧音はよく本を読む。活字だけで、人を新たな世界に導くというのは、やはり画期的な発明だと、彼女は常々思っている。本を読んでいる間は、周りで他の女子が世間話をしている間でも集中が途切れることはない。…いつもならば、だ。
「これから日本、どうなっちゃうんだろうね…」
「ね~、戦争とか起っちゃったらどうしよう…」
「そしたら私はすぐに逃げる!」
愚にもつかない会話ではあるが、やはり寧音も、‘この事件’に対する関心は高い。が、この女子たちの会話に加わっても楽しくなさそうなので、席を立って彰の席へ向かう。クラスの男女から人気の高い彼だが、休み時間彼の周りに人が集まるというのは、不思議と少なかった。そのお陰で、寧音は気軽に彼と話すことができる。
「あ、寧音。どうした?」
彰が屈託ない笑顔を見せるのに釣られ、思わず寧音の顔にも笑みが浮かんだ。だがすぐに表情を引き締め、「今朝の事、どう思います?」
「…あぁ、あれか。…正直、怖いなとは思ってるけど…。」
「けど?」
「…あんまり、実感ないっていうか」
これには思わず苦笑した。確かに彰は公共交通機関を使わないまでも家に帰ることができるので、あまり実感が湧かないのも頷ける。
「結局あれは本当の話なの?」
「…一日の内に、多くの交通網が寸断したのは確かです。それも、普段は滅多に事故が起きない日本の交通網が」
「なるほどね…。じゃ、寧音は“反政府組織”っていうのを信じてるのか」
寧音は一瞬考え、首を傾げながら答えた。
「…一応、最悪の場合を考慮して備えておくのが大事だと思いますけど」
「遠回しな言い方だけど…一理あるよな」
寧音と彰が話していると、何か刺々しい視線を向けられているのを、寧音は感じた。
「…あんまり気にすんなよ」
彰は低く言った。
…そう。寧音自身、あまり社交的な性格ではないから、何かとクラス内で孤立しがちだった。ここ真桜学園だったから良かったものの、普通の学校では典型的ないじめられっ子になっていた…と、寧音自身思っている。
だが、そんな寧音を救ってくれたのが彰だったのだ。
一緒にいてくれる―それだけで、クラス内の孤立からは逃れることができ、疎まれることは無くなった…のだが、今度はまた別の問題が発生してしまったのだ。
「…ごめんなさい、私なんかのせいで」
「別にいいよ、妬む奴には妬ませとけばいい」
人気者であった彰と親しいからと言って、寧音の立場がいきなり上がるというわけではない。むしろ、彰と一緒に妬まれる気配さえあったのだ。自分のせいで彰に迷惑をかけたくない―そう思うが、しかし、
「…うん」
寧音自身も、弱いのだ。結局保身のための行動をとってしまう。
「はーい、HR始めるわよー」
水科先生が前に出ると、ざわついていて無秩序なクラスが、話すのを止め、めいめい席に戻り始める。寧音も例外ではない。
「…えー、まず、言っておくことがあります。皆さんニュースは見ていないので分からないとは思いますが」
朝のニュースなら知ってますよ、とクラスのどこからか聞こえてくるが、水科先生がそれを一瞥し、
「ええ、あれは大ニュースでした。その続報ですね。ニュース流すので、これ見てください」
平静を装っている顔だが、HRが始まる前、やけに教室外がざわついていたのと、若干青ざめているように見える水科先生の顔からして、決していいニュースではない。
「速報です。今日正午ごろ、神奈川県相模原市で、武装集団が現れ、周辺の建物、警察署、駅などを破壊していく事件が起こりました。」
ニュース画面を静かに見ていたクラスに、ざわめきが起きる。寧音も耳を疑った。
「…はい、こちら現場の赤井です。ここは警察署だったのですが、武器を使ったのでしょうか、破壊された跡が見えています。」
「死傷者などの情報は入ってきていますか?」
「…はい。警察関係者の話によると、現時点で分かっているだけで、十人近くが重軽傷を負っているそうです。そのうち数人は意識不明の重体だそうです。」
「…そうですか。では、情報が入り次第、速報としてお伝えします。赤井さん、ありがとうございました」
登場人物のところは、気が向き次第更新していきたいと思います。