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四十話

 喉の奥から迫りくる異物を呑み込み、その後味の悪さに再び異物が込み上げてくる。目を逸らすこともままならず、目に差すように入ってくる、神秘的な赤と黒の融合の光景は、とても気持ち悪いの一言で済ませられるものではない。


 脳ではない。自分の“人格”と呼ばれるであろう場所に働きかけてくる何かが、それにはあった。


「ああ、すまんな。松坂君、晴海君、まだ繊細(センシティブ)な時期か。醜いものを見せてしまった。……さ、早く掃除してやれ」


 隣の晴海の表情は、少ししか伺うことが出来なかった。怜於が動揺していたからなのか、晴海が俯いていたからなのかは分からない。


 数人のスーツが、見るも無残な亡骸に刃物をつけようとする。


「あ、ここで解体(バラ)すなよ?最近の若者は繊細なんだ。持って行ってやれ」


「了解しました。少々汚れますが…」


「まぁ、そうだな。極力汚さないようにしてくれればそれでいいぞ」


「ありがとうございます」


 刃物は仕舞い、てきぱきと彼らは掃除(・・)する。直視できないが、目に入ってきてしまう。見たくなくても、松坂怜於の中にいる何者かが、その仏様の姿を一目見ようと怜於の身体を縛る。


「ぁ………」


 見たくはなかった。だが、既に生物ではない筈の肉塊が(こえ)を発し、細かく震えるような幻覚(・・)が、脳内に直接脳内に流れ込んできた。


「……‼」


 悪寒?怯え?錯乱?


 怜於の思考は、生々しいその肉塊に向けられる。それは今まさに二人がかりで担がれ、部屋の向こう側に運ばれていく。その()を、また別の二人がブラシで拭く。灰色のブラシは赤く染まらず、その色が翳りを帯びた色にくすむだけだった。


「れ、怜於」


 おそるおそる、という表現では正確ではないだろう。晴海は小さく後退りしながら、震えた声を発した。


 もれなく鉄の香りが埃の香りと()じり合い、怜於の鼻孔が抉られる。


「松坂君、晴海君。死体を見るのは初めてかい?」


 絶句の中の沈黙を破ったのは、黒岡だった。半ば無遠慮、半ば気遣いのその声音が、寧ろ怜於の恐怖を掻き立てた。


「…怖がらないでくれ。我々だって、人を殺めることは好きではない。だがな」


 既に男の身体は運び出されていた。血も一応綺麗に拭き取られていて、パッと見ではここが殺人現場だったとは分からない。だが、黒岡は目敏く血の花弁を見つけ、人差し指で拭き取って見せた。


「……人間とて、動物だ。畜生共と違うのは何だ?それは“欲”を制する“自制”があるからだと人は言う。だが、その“自制”は、根源を辿れば“欲”を合理的に満たすために習得した機関でしかない。現に、飼い慣らされた畜生は“自制”を知っている」


「……はい」


 晴海が小さな声で相槌を打った。この話の帰着点が、怜於と同じくなんとなく見えてしまっているのだろうか。怜於は恐ろしくて声にならない相槌しか打つことが出来なかった。


「善悪、義と不義などというのは、本来人間の持つ道徳ではないのだ。太古の時代に生きた、やさぐれた人間どもが賢人ぶって説いたのが義という。今やそれが美徳とされ、考え方と行動に深く染みついてしまっている。美徳とラベリングされた虚構を行動原理にしている輩もいるこの世界は、どこか歪んでるな」


 ふふっ、と小さく笑いを漏らす。


 チラッ、と怜於は隣を見遣る。端から怜於に発言する気は無いが、こういう流れだと晴海が抗弁する場面だと思ったのだ。だが、先程の衝撃の余韻がまだ彼女の脳を揺らしているのか、ものを言う様子もない。


黒岡(われわれ)ほどに大きな集団となり、人が集まるような場所になるとそのことをつくづく感じさせられる。結局資本主義というのが、今ある“力”をそのまま倍々にしていくような形なのだ。富めるものは富み、飢えるものは死ぬ。その仕組みを甘受しておきながら正義や平等を叫ぶのは、私からすると笑止でしかない」


「……じゃあ、幸せか不幸かどうかは、生を受けた瞬間に決まってると言いたいんですか」


 辛うじて声を出す。


「あぁ、当然だ」


 レジ打ちの台詞のように、サラリと言ってのけた。


「優劣さえも人間が定めた指標。人間の住まう人間界におかれた絶対的な指標ではない。だからこそ、“平等”など虚構。頭が良いことが優れていることか?足が速いことが優れているということか?世間一般がそう思い込んでいるだけだろう。何かに優れていたら何かに劣っているなんていうのは嘘さ。その中で弱者が淘汰されてゆくのは自然の原理。弱者生存など自然界の摂理に逆流する行いでしかない」


「なら、何だ?人を殺めてもいいっていうのか?」


 無心に、口から感情を吐き出す。普段の怜於なら絶対に発さない語気、言葉を全力で吐き出す。


 だが、黒岡の表情は以前澄ましている。


「強者が生きるために弱者を踏み潰すのは、自然界の、ひいては人間の本来の原理であるはずだ。私を陥れ、懲りずにまだ私を己の為に利用しようとする阿呆を害することの何処に咎があるのか。策士を気取るなら、自らが策に陥れられる覚悟があるという意思表明でもあるだろうからな」


……話は読めた。


 いや、本当は読めて欲しくなかった。怜於にとって、人を殺めることは絶対悪であり、“死”とは美しく哀しく儚いものであった。


 それが覆されてしまったことへの拒絶ではない。


 “殺し”を容認する考えに触れた、衝撃だ。


 なんとなく、こういう話に帰着するということは読めてはいた。だが、いざそういう話を聞くと、脳が惑う。絶対悪を躊躇なく犯す人間が目の前に現れたという衝撃も遅れて襲う。


「まあ、つまらない話はここまでにしておこう。聞きたいならいくらでも話してあげるがな。年寄りの話はどうも流行らないみたいでな」


「……」


「まあ二人とも、特に松坂君に関しては奇遇も奇遇だ。この機会に、存分に語り合いたいところだが……」


 黒岡は後ろの社員たちに目を遣り、


「どうも、私には喋りたがりの癖があるようでね。あまり好かれない。現に今、君たちの話の方が面白そうだと言ったが私が喋るばかりになっているしな。まぁとにかく」


 黒岡は数人を呼び、紙とペンを用意した。


「君たちには、安全なこの場所を提供してあげよう。その代わり、外の情報を君たちなりに分析して、教えてほしい」



――――――



 翌日、橘煉與は“橘”の部隊が岸和田、京都、奈良の一帯を完全に掌握したと宣言した。


 既に大阪のライフラインは回復し、取り残された、或いは非難していた市民には電気とガスが供給される準備が整っていた。


 だが、敦賀を始めとする各地の発電所からの電力供給が政府の指示によって止められたことで、その市民は更なる困窮の危機に直面した。交通手段は確保されている。だが、大阪から脱出しようとすると、どうしても戦闘地区を通過しなければならない。既に避難期間は過ぎており、今独力で脱出しようとすると、それなりに覚悟を決めなければならないのだ。


「……緊急家族会議だ、全員集合!」


 その声に反応して、ではない。そもそも全員が同じ卓を囲っているのだから集合もクソもない。そもそも十八畳の部屋だから、家族三人が散り散りになっているとしても声を張り上げる必要は無いのに。


「みんないるよ」


 淡々と言ったその言葉の裏にある反感は、手に取るようにわかる。というか、隠す気が無い。反抗期真っただ中の彼の名前は、舟渡惟人(ふなわたしこれひと)、中学一年生。


 父に言わせてみれば、「可愛げのありすぎる息子」だ。


「分かってる。本日の議題は、“我が家の今後”だ」


「知ってるよ、昨日と同じじゃん」


「いや、今日こそマジのマジで決めるぞ」


 ここ連日、舟渡家では家族会議が開かれている。ここは大阪の中心部。近所の殆どが既に大阪を脱出してしまい、家々はもぬけの殻だ。


 もう、この状況が続いて二週間になる。大阪はすっかり平和になったが、これがどれくらい続くのかは全く分からない。


 もし、政府が本格的に大阪への攻撃を始めれば、舟渡家も壊滅するだろうが、その気配は全く見られない。それどころか、今は“橘”からの食料供給に加えて政府からの物資の供給も二重で受け取っている他、もぬけの殻になっている店から物を拝借さえもしているので、家系は今や潤いまくっているのだ。家賃を取り立てる家主もいなければ、週に一度はやってくる質屋もいない。


 未だかつて、舟渡家がこれほど贅沢できたことは無かった。


「惟人はどうしたいの?お母さんもお父さんも、あなたの意志を尊重したいのだけど」


 チッ、と惟人は舌打ちして卓から離れる。が、両親からどれだけ離れようとしてもこの狭い部屋では限界がある。


「…母さんたちは、どう思うの?」


「それを言ったら、惟人の本当の意見が分からなくなるでしょ?」


 母親は、優しく惟人に微笑みかける。この下りを、この数日何度繰り返したのだろうか。数えればキリがない。


「…知ってんだよ」


「…?なにを?」


「お前たちが、自分たちの事をロクに考えられないバカだってこと」


「なんてこと言うんだ!」


 ちゃぶ台返しこそしなかったが、父親は立ち上がって声を荒げた。


「だって、本当の事だろ?」


「……!そうやっていつも!判断を引き延ばすんだよ!」


「あぁ、そうだよな。それで逃げ遅れるのって、誰なわけ?お前らだろ?お前らはお前らで自分の事を考えず、息子である俺に全部委ねてるんだよ。挙句、その結果失敗しても俺のせいになるんだろ?」


「そんなわけない!俺達は……!」


 声を更に荒げ、父親は抗弁しようとするが、


「‼」


 惟人が悲鳴を挙げ、父親の言葉は止められる。


「知ってんだよ!」



――いい加減、この危険地帯に留まるのは懲り懲りだよ。




橘の本格的な蜂起から二週間後、六月十六日。


 大阪に留まっていた市民の内、二名が死亡する。政府は“橘”の攻撃による巻き添えだと発表し、“橘”を強く非難。


 小さなニュースが新聞の一角を占めた。

来週あたり、この小説の表示形式を全体的に変えるために大改造を施したいと思います。

あとは、日付があいまいな箇所があったので、そこを変更。

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