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三十八話

 誰しも、その“人生”は自分にとって最も重要かつ、最も関心深い“物語”であるはずだ。


 誰しも、その物語(ストーリー)に山場など一々望めない。


 誰しも、その人生は終わりを迎える。そして、誰しも、その“終わり”には大きな意味を見出す。


 誰しも、その人生の転機が、或いは“死”が、一秒先の自分に訪れることなど予想できない。水科志麻は、そのことを強く実感させられた。


 “死”そのものではない。だが、それに限りなく近付く、“人生”の起承転結が“転”。


「…え」


 いつも通り、ではなかった。世間は不穏な空気になっていたし、ニュースは連日“橘”の大阪での蜂起について。新聞の一面二面、三面四面と、どこかしらに“橘”の文字が踊ているという異常事態の最中。彼女以外の殆どの一般市民、とりわけ大阪に縁がある者達は、そのニュースを血眼で追っていた。


 それでも彼女は、そんなこと(・・・・・)以上に、思索すべきことがあった。


 一週間前のことだ。教え子達が、大阪での事案に巻き込まれた。それだけならまだしも、橘の“棟梁”に接触するという事態に発展してしまったのだ。尋常の采配では、そうなるはずはない。その遠因を辿っていけば、真桜祭の調整を彼女の辣腕に任せた、自分にあると、彼女は考えた。


「嘘…」


 この一週間は、彼女にとってはその四倍ほどの長さは優にあった。その特異な人生の中でも、紛れもなく“転”の部分になり得るイベントだった。


 その教え子、そして、その彼女以上に事情(・・)のある教え子二人。その命を危機に晒し、見方によっては“日ノ本内乱”の引き金を引く一助をしてしまったという自覚さえある。


「うっ!」


 東京駅。思索に耽っていた最中に、彼女の身体は地面に叩きつけられ、人間の坩堝は渦を生んだ。渦の中心は、勿論水科自身と水科を叩きつけた張本だ。初めは不審げに、その数秒後には異常事態を察した様子で人波の中で巨大な渦が形成された。


 その後、水科の体を打ち付けた張本は何やら言葉を発し、なにやら懐から取り出し、何かをしていたという朧げな記憶しか残っていない。その中で自分が何をしていたのか、と聞かれれば答えられない。


 ただ、藻掻いていたのは覚えている。


「…!」


 自らの力だけでは決して振りほどくことのできない拘束だったが、ふと気付いた時には束縛は解かれていて、一目散に逃げ出したのだろう、という記憶がある。



 これは確信だ。あの時、自分は変わった。




―――――




 これほどまでに、一秒が長く感じたことも今までなかっただろう。


 これほどまでに、自らの心音が煩わしく感じたことも無かっただろう。


 そして、こんなことを考える余裕があった自分が、ますます不思議になってくる。


「誰だ」


「…学生です」


「見れば分かる」


 それもそうだ、と怜於は笑おうとした。だが、無理だった。表情を強張らせたまま、何も言うことが出来ない。それは晴海も同じみたいだ。


「ここに、何の用がある」


「あ、あの」


 訂正。晴海には、まともに受け答えができる胆力と勇気があったみたいだ。今日は、というかいつも自分は圧倒されてばかりだな、と自嘲する。そして、そんな余裕があったのだと自分を見直す思いもあった。


「僕たち、なんというか…地上が大変なことになっていたので、避難場所にと」


「どうしてこの場所を知っている?…いや、質問を変えよう。入口は厳重なセキュリティによって守られているはず…」


「そう、だったんですか?かなり簡単に入れてしまいましたけど…」


 薄暗くて、相手の表情は上手く読み取れない。だが、険しくなったのは大体分かる。


「えと、シャッターを開けるだけで入れました」


 怜於が、なんとか合いの手を入れると、さらに女性の目つきが険しくなるのが分かった、言ってはまずいことを言ってしまったか、と少々不安になる。


 女性は少し間を置いた後、「まあ、いい」


「今逃げないということは、恐らくあなた達が入ってきた場所からは出ることが出来ないのでしょう」


 いつの間にか相手の女性の口ぶりは丁寧になっていた。限界まで張り詰めていた空気と緊張が一気に弛緩し、怜於も一息つくことができた。


「そこで待っていなさい。私が許可するまで、そこから動かないこと。我が主に話をしてみます」


「あ、あの」


 晴海が声を上げる。怜於には、何故このタイミングで声を上げることが出来るのかが理解できない。


「あなた達は、誰ですか?」


 しかも、かなりストレートな質問。怜於には到底真似できそうにない。


「…我々か」


 女性は一瞬のためらいを見せた。が、動揺は見せない。


「知る必要はない」


 そう言って、女性は部屋に入った。


「…良かった…のかな?」


 晴海が囁くように言った。その口振りからは、不安が色濃く滲み出ていた。だが、怜於からしたらこの対応の是非などどうでもいい。


「…晴海、ありがとう」


「…どういたしまして。僕が言えた義理じゃないけど、言っていいかな」


「いいよ」


 晴海の言動パターンは、“読めた”わけではないが、なんとなく“知った”。


「流石に、意気地がなさすぎ」


「ごめん」



―――――



 通された部屋に、思わず怜於は目を見張った。

 大して大きくもないこの街の地下に、これほど大きな空間があって、これほどの大人数が“生活”できるだけの物資が蓄えられていたとは、思いもしなかった。


「…さっきすぐに通す、って言っていたのに、随分と待たせるんですね」


 怜於は思わず晴海の方を見た。自分たちはそんな事を言われた覚えもないし、随分と待ったと言っても、多分五分も待っていないのだが…。


「あぁ、すまないね。うちの人たちも今はセキュリティに随分と気を遣わなければならないんだ。だから、理解してくれるとありがたい」


…内心、驚いた。


 中肉中背、黒いスーツ。だがそれでも、他の人間にはない、独特の雰囲気(・・・)を放っている。


 何より目を引くのは、その口元に浮かんだ不敵な笑みだ。そもそもが“侵入者”であるはずの自分たちに対して、社交辞令ではあるだろうが和顔愛語をもって接したのだ。圧倒的かつ、他の人間と一線を画す器を感じさせるその男に、怜於は思わず目を奪われてしまった。


「ああ、このスーツかい?これで私も財界の人間でね、これくらいのスーツは着ておかないと、妬み嫉みと巧言令色、常在戦場の世界だからね。…いや、自慢のつもりは無かったんだが」


「…失礼ですが、一応。お名前を伺っても?」


 晴海の言葉遣いが心なしか柔らかくなったのも、気のせいではないだろう。それだけの雰囲気が、その男にはあった。


「口外はしてもらいたくないが」


「しません」


「黒岡正希。俗にいえば、黒岡財閥の総帥ってことになる」


「……やっぱり」


 怜於も、名前は聞いたことがある。たまにニュースで耳にする名前だ。とりわけ最近は、良くない(・・・・)ニュースで聞いたことがあるような。


「あれほど大きな財閥を抱えながら、汚職が発覚した途端に身一つで逃げ出したっていう、あの?」


「あの、黒岡正希だ」


「えええー⁉」


「まあ、そう驚くな。ここはかなり古くからある防空壕(シェルター)でな、偶然黒岡の者が見つけた後は政府に内緒で我々が管理していたんだ」


「待ってください」


 晴海は一旦深呼吸した後、真剣な顔で問った。


「黒岡正希、黒岡財閥総帥。…そんな顔でした?雰囲気でしたか?」


「…えぇ…?」


 怜於は黙って、視界の端で晴海の顔を見るしかできなかった。

数弌のみぞわろかりけれ。あと化学も。

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