三十七話
日ノ本内乱。日本の影の社会を取り仕切る運送会社、“橘”によって企てられた軍事クーデター。その首謀者は、“十九人の聖徒”二世のひとり、岩上空。もっぱら橘煉與という名で名を売っていた彼の実力は、荒くれの統率者とはいえそこまで大きなものではない。
だが、“橘”のみで戦うわけではない。その戦いには、
―橘を慕っていた者。
―“橘”の没落を嫌い、或いは今の日本の体制を嫌っていた者。
―乱の収束後、新たな日本の主導権を握るために都合の良い“橘”に与する者。
そして何より、今の日本の体制を打ち壊し、仁義の面で名高い橘の支配を望む者達が各地で蜂起しているのだ。
各地の戦線が息を合わせて戦うわけではない、むしろ、“橘”は彼らの采配の一切を、彼ら自身に任せていた。故に作戦も何もあったものではなかったが、奇襲によって得た優位性が、この戦いを“橘”有利に進めていった。
だが、彼らに最も利していたものは、“情報”である。
勿論、橘はその豊富な手蔓をあらゆる方面に伸ばしており、それは軍事的機密性の高い情報にも及んでいた。これはすぐさま橘の充実したネットワークによって共有され、戦いの場では大きな効果を発揮した。
それよりも何よりも、煉與の予想さえも遙かに上回る善戦を支えたのは、“内通者”の存在だった。無論これは、乱後の日本で一般に知られされることはなかった。
―――――
「音緒!大丈夫か!」
眠いな。
痛い。苦しい。このまま寝ていた方が、ずっと楽…。
「起きろ!」
でも、起きなきゃ。
「音緒!」
先生…。
そうか、どうも寝心地が悪いと思ったら、私が寝ていたのは瓦礫の上。私の埃の学び舎、その瓦礫を背にしていたんだ。
思わず、呟いた。――春眠、暁を覚えずですね。
「…よかった、無事で」
光吉先生は全身から力が抜けたように座り込んだ。痛いだろうに。もしかしたら、本当に全身から力が抜けてしまったのかもしれない。
自分の頬が濡れていることに、遅れながら気付いた。嗚咽も込み上げてくるが、声には出せない。前に先生がいるし。
「いや、何よりだよ。…何より」
感極まった様子の先生だが、涙は零さない。頑張って呑み込んでいるのだろうか。
「このジジィの命も少しは役に立ったか。ともかく、良かった」
自分の制服は修繕など思いもよらぬほどに擦り切れ、痛んでいる。今日がもう少し寒くてズボンを履いていたら、足のダメージももう少し小さかったかもしれない。先生が大きな株宜しく引っこ抜いた割にはダメージが少なかったというべきか。喉を撫でながらそんなことを考える。
ようやく脳に酸素が回って来たらしく、光吉先生の表情がよく見えるようになった。酷い顔だ。普段はあまり目立たない顔の皺を、ここぞとばかりに引き立てているかのような。
…不謹慎だったか、今は感謝しないと、光吉先生に。先生の手はボロボロ、傍らには比較的小さな瓦礫の山が積まれている。私を掘り当てるまで、かなり時間がかかっただろう。
―ありがとうございます。
「…うん、良かった。さ、立って」
微妙に差し出された手は取らず、立ち上がる。ことは能わない。
「ゆっくりでいいぞ」
まずは呼吸。心臓の鼓動を感じ、全身に血を巡らせる。はあ、気持ちいい。
喉を数回叩き、弱弱しいが咳をしてから、再び喉を撫でる。大して長くも綺麗でもない髪を梳き、座り込んで足をマッサージする。左腕にも力が入らないことに気付き、マッサージ。
「立てるか」
小さく頷いた。悲しいことだが、もう何となく分かっていた。
―――――
「…!」
寧音は絶句せざるを得ない。
薄々察していた。もう何となく分かってはいた。
「でも…あんまりですよ」
「…そう、だな」
彰も同感だった。眼下の瓦礫の山、なまじ灰燼とまでは破壊されていないのが生々しい。既に爆撃は止んでいるが、その痛々しさは、未だに新鮮なまま残っている。そして、その様子を文字に起こして形容しようとすればするほど、自分の意識はどこかに逃げて行ってしまう。
「あの時、私は運よく広報部室にいました」
「…そうだね」
「だから今、私はこうして五体満足でここにいる。勿論、もう下校時刻は過ぎてたよ。だけど」
「…うん」
寧音も、それ以上は口に出せない。下校時刻など建前だ。きっと、まだ校舎内に人はいただろう。教師は勿論、生徒も少なくとも十数人は残っていたのではないか。
それ以上は、考えることもできない。
「でも、今は自分のことを考えようよ。薄情かな、でも俺はさ」
彰は歩き始めた。見えない糸に引き摺られるように、寧音もついていく。
「構ってる暇、余裕なんて無いよ」
それは、寧音もそうだ。
校舎だった場所に目を遣る。校舎の職員室周辺、今は周りより大きな山となってしまった場所。寧音がまだ、この事態を大阪での一件の延長上として考えていた頃。あの時までは、絶対に少なくない数の職員、生徒が校舎内にいたはずだ。
今では、この事態を“橘”の政治的行為の結果だとは捉えられない。
“災害”としか、認識のしようがないのだ。不可抗力、文字通り抗えぬ、理解能わざる力。そんな自分が、運よく今生きている意味って?
結論は、ない。
寧音はおもむろに、ポケットからカメラを取り出す。広報部に入った当時、自分が自分に見繕ってくれた、割と高い小型カメラ。
「寧音らしいね」
「…そうでしょうか」
一枚、また一枚。今度は拡大して、もう一枚。後ろを向いて、さらに二枚。
何もせずに見殺しにするのは、寧音の好む所ではない。望む所でもない。ならば、非力な自分に何ができるのか。誰かが何かを社会に捧げることで輪廻を生み出しているこの世界で、自分が捧げられるものはなんだろうか。そして、自分が他の人よりも強く、早く、綺麗に、上手にできることはなんだろうか。想像しているよりも、期待しているよりも残酷で非常なこの世界で生きていける力が、自分にはあるだろうか。生きていく方法を、見つけられるだろうか。
今まで、ずっと考えてきたことだ。
「…俺、どこかと連絡してくるわ」
彰が駆け出していく。
あ、今の私、他の人に希望を与えられたかな。なんて傲慢だろう。
「頑張ってください」
瓦礫に向かって呟く。
―追憶。
「寧音は、寧音のやりたいことをやりなさい」
「はい!」
無邪気に顔を綻ばせ、両親の前で頷いた。両親は、別段私に不自由をさせることなく育ててくれた。やりたいことをやりなさい、というクラシックな教育だが、私は周りの子達よりも比較的楽しく暮らしていたと思う。
「寧音はすごいな、もうこんなことまで出来るのか。これは将来、楽しみだなぁ」
この頃になってくると、恐らくだが、こういう時の父親は私よりも無邪気だったと思う。勿論、世間に擦れた父親の方が子供より無邪気な筈はない。私を綺麗な手で育みたいという、両親の思いは共通で強固だったのだろう。
「やったわね…寧音、もうあなたは不幸にならずに済むのよ」
嬉し涙を流しながら、母親が私に抱きついてきた時、私は確信した。両親が涙まで流して喜ぶほどの、“真桜合格”。私は、涙を流すほどの意味をそれに見出すことが出来なかった。だからこそ、分かった。
母親がいつも笑ってごまかしていた、背中の大あざ、首元の火傷痕。
父親の無い左小指、醜い足そして背中に刻まれた古風な印。その難しい漢字が刻まれた背中が、父親の雰囲気に馴染んでいると思ったことは一度もない。
それらの意味。今まで寧音が、自分の幼さに甘えて理解しようとしてこなかったその現実を、真桜の中学に入学してから悟った。向き合わされた。
両親、特に母親は、私が“真桜”に入学したことでひどく感動していた。確かに名門ではあるが、偏差値的には、その門が広いのもあって“トップ”ではない。今の私も、真桜という教育機関に母親が何を見たのかは分からない。だが、“真桜”という存在に、私が入学したという事実に母親が救われていたのも事実だった。
確かに、真桜は捨てたものではなかった。あの先生のお陰で、私は自分の価値を見いだせた。今まで感じたことのなかったものを感じることが出来るようになった。
だからこそ、両親の幻想が壊れてしまうのを目の当たりにしたのは、辛かった。言ってみれば、大阪での私の勝手が招いた事態なのが、余計に辛かった。
今、眼下の真実を撮らえること。そして記録し、伝える事。それが、今の私にできる事。それが巡り巡って私とを救うなら、それでいい。
…他に何もできない自分を救ってくれるなら、それでいい。
ここで寧音の回想入れる予定無かったんすけど…
何で入ったんでしょう。




