二十五話
早く夏休みになってほしいです。
まだ学校です。しかも一番暑い時間帯に下校。やだ。
暑い。もはや熱い。
「ここが…!」
「別に大した場所じゃないですよ、ただの要塞です。…誰が迎えてくれるんでしょうね」
うっかり感嘆の声を出した怜於は小さくなって、再び飛び行くヘリコプターに意味もなく視線を投げた。
「大した場所…じゃないの?」
「そうですよ…ここ、見たことあります」
廻と美誠が、至って冷静な水科先生に顔を向ける。
「確かに、見たことはあるかもしれません。ここはよく、テレビなどで“橘”の本拠の映像として流れますから」
「本拠⁉」
美誠が素っ頓狂な声を上げ、慌てて自分の口を塞いだ。
「はは、“本拠”とは大層な呼び名だ」
その場の五人と、ヘリコプターのその声の方に振り向いた。その先にいたのは、漆黒の軍服に身を包んだ、一人の男だった。
「第一、この場所に“本拠”たる戦略的価値は皆無だ。比較的安全だからこそ、メディアの輩が虫のように集ってくる、それだけだ」
その男の顔にも、見覚えがあった。
ニュースを一通り眺めれば、その特徴的な顔はいくつも流れてくる。
本物だ!と思ってしまったのは庶民肌か。
顔面にある無数の傷。そして言葉の通り潰れた片目。
そして、鋭く蒼く光る、その瞳。
アンバランスさが不気味さを醸し出し、同時に凄みさえも感じられる風貌。
―株式会社“橘”社長、“橘煉與。
“岩上空”という真名を持ちながらも、世間にはその名が広く知れ渡っている。
テレビなどのメディアも、その名前よりも、橘煉與という名前を使いたがるので、世間一般には、特徴的なその風貌と厳つい名前で通ってしまっている。無論それは、怜於や廻にも共通している。
「ボ、ボス⁉」
「ボスとは失敬な。ここでは“王”で通しているんだ」
「“反社の…王”」
寧音が思わずそう呟くと王、もとい煉與は頷き、その特異の表情とはまるで不釣り合いな苦笑いを浮かべた。「そうとも呼ばれてるな」
「あの時…助けてくれた?」
「別に助けたわけではない。結局あれは、今の我々の気苦労を増やしただけだった」
「私を騙して…人質にしたんですか?」
寧音が刺々しく問うと、煉與の顔から笑みが消えた。
「騙した…か。そう思うのならば、山野で迷い込んだ小娘一人案内したのが馬鹿だったのかもしれないな」
今度は寧音が黙り込む番だった。確かに、恩はあった。が、その話に驚いたのは水科先生だった。反射的に問う。
「えっ、寧音さん…この人に助けられたんですか?」
「…えぇ、まぁ」
「それで知らない人についていって、それが“王”だったと…かなりマヌケだね」
寧音が睨みつけると、廻はもはやお決まりのように首をすくめた。水科先生も、少し考える素振りを見せた。
「初耳ですね。寧音さん、こういうことはもう少し早く言ってくれないと…」
「…ごめんなさい。実はまだ、自分が“人質”とされていたことにあまり自覚なかったので…」
「というより」
美誠は強めの語調で煉與に詰め寄った。最初は怖がっていたくせに、と怜於が思ったのは本人には言えない。
「約束が違うじゃないですか。どう見てもここ、海路からの脱出は出来そうに見えないですが」
煉與は美誠をチラリと見遣り、呟いた。「香坂の娘か。…似ていないようで、似ているな」
「そんなことより」
「分かっている。我々は出鱈目や嘘は言わない」
後ろを向き、歩き始めた。「ついて来い。約束の名古屋までの手引きはしてやる」
「お父さん」
暗い機械室に声が響いた。
「…美誠」
「何で今まで黙ってたの?」
新悟は言葉を発さない。
「…言ってくれればよかったのに。なんで一人で抱え込んでたの」
互いの表情は見えないが、その声は、今にも弾けそうなほどに潤んでいた。
「…美誠にだって分かるもんか」
機械室のどこからともなく、ピピピピッ、と不協和音が響く。
「…こんなに大きな憎しみ、娘に触らせる親がどこにいるんだよ」
初めてだった。声を荒げるわけではないが、父親が自分に対して、八つ当たりを見せるのは、確かにそうだった。
「でも、」
「大丈夫だよ」
香坂新悟は、美誠の知る“父親”に戻った。
「お父さんは、大丈夫。足は踏み外さない。美誠や…お母さんを残していきたくないのは本音だよ。だけど、そんな軟な心根じゃ志は果たせない」
「なんでお父さんが」
気づけば、美誠の声音は弾けていた。
「なんでお父さんが、命を張ってまで“そう”しないといけないの?私は、今まで通り平和に暮らしていければ良いんだよ!」
暗く、広い部屋にその声は響いた。新悟の耳には、その言葉が幾度も響く。「…それでも」
「それでも、お父さんはやらないといけないよ。香坂新悟は」
彼は美誠に歩み寄り、その頬を撫でた後、美誠の右足に触れた。
「腐ったゴミ共を倒す」
「一時は疑いもしましたが…」
水科先生が一息ついて呟く。
「無事に帰路につけて良かったね」
廻もペットボトルの水を飲みながら独りごちた。
「後は東京に着くのを待つだけですから」
寧音は呟き、その後思い出したように席を立った。
「本当に…ありがとうございました」
寧音先輩が深々と頭を下げるのは、なんだか新鮮な気がした。
「私の為に皆さんが尽力してくれて…申し訳なく思っています」
「なんだよ今更畏まって」
笑いながら廻が応える。「僕らは特に何もやってないよ」
朗らかに笑う廻の左腕を、怜於はチラリと見遣る。少なくとも怜於は、先輩は無罪ですよ、と手放しで言うことが出来ない。だから、歯切れの悪い言葉しか言えなかった。「そうです先輩、あまり気負うことはありませんよ」
「…でも、私の出過ぎた行動のせいで、先生や怜於さん、美誠さん、そして当然廻さんも…怖い体験をさせてしまったのは事実です」
「…ま、過去を見てもどうにもならないよ。先だよ先。この事件の処理について考えないと」
それもそうですが、と寧音先輩は困惑した表情を見せた。「いつか必ず…償わせてください」
「良いって。そんなに支障ないよ」
「でも、将来…」
寧音は尚食い下がろうとする。が、
ダンッ!
「…廻さん?」
「いいから、そういうのは」
廻は鋭く、だが静かに言った。
「鬱陶しいから、そういうの」
寧音は暫く黙り込んだ後、小さく言った。
「…すみません、廻さん。…ありがとうございました」
「案外、時間かかったね」
「警戒しつつ、夜間の海路を遠回りしたわけですし」
名古屋から、美誠は一人で帰ることになっていた。
「…怜於」
「暫く、お別れになるね。美誠、元気でね」
怜於達も知らされていないルートで海路に出た時には、美誠は既に取り乱しているように見えた。
だが、怜於に美誠を励ませるだけの語彙も経験もない。
「怜於、私頑張る」
何を、とは言わない。怜於もそれは訊かない。なぜなら美誠は、怜於には想像もできない心配と苦労を背負っているだろうから。
「…うん」
「それじゃ、またいつか」
夜目で美誠の表情は読み取れなかったが、それで良かった。
きっと怜於の表情もまた、美誠には読み取れなかっただろうから。
「怜於、それじゃあ」
「…」
「帰りますよ」
やりきった、という雰囲気が四人の間に広がる前に全員の体を眠りに落としたのは、「疲労」なのか、「達成感」なのか、はたまた「安堵」か。
小さな船が、東京に向けて静かに進み始めた。
来週の投稿は無理かもしれません。
4つ、作文やらないといけないので。
しかも、手は抜きたくないので。




