十七話
足が棒になるかと思った。
歩いた距離としてはそれほど大したものではないだろうが、今が深夜だということと、疲労が重なっていたということがあったのか、「ここですね」と水科先生が言った頃には怜於の両足の感覚がなくなっていた。更に、普段徹夜などせず、至極一般的な中学生の生活リズムに則って生活している怜於にとって、この時間帯―満月が傾き始めている―まで起きて活動しているということそのものが重労働だった。
「ようやく…ですか」
「案外近かったね」
「廻のその体力はどこから来ているの?」
疲労困憊の体の怜於とは対照的に、廻の顔にはまだ溢れんばかりの元気が見える。
「いやー、慣れてるし」
きっと夜遅くまでゲームだのをしているのだろう。今まで廻の生活についてはあまり知らなかったが、きっとそうなのだろう。
「知らないうちに上っていたのでしょうか…。もうすぐ地上です。そして、地上に出たらすぐの場所に建物が」
「あるらしい、と。監視とかいるんじゃないの?」廻が問うた。
「…そうですね。その可能性は否定できません。いくらなんでも、そんなに虫のいい話は…」ない。この抜け道を知らず、堀だけ守っていればいい、と敵が楽観していたとしても、流石に掘の内側の警備がゼロ、という美味しい話があるわけないのだ。
「内側って、何があるんですか?」
くだけた口調になってしまったが、玲於も先生に訊いた。内側に先輩がいる、という情報しかないのでは、かなり苦しむかもしれない。
「あぁ、聞かせてませんでしたね。中には、かなり大きい“家”があるそうです。豪邸と形容しても差し支えないほどの…かなり古いようですが、寧音さんはそこに」
「家ぇ?」
玲於の頭の中で、これほどの地下通路、堀、そして“家”というワードが繋がらなかったのは仕方無い。
「…じゃあ、僕が囮―とりあえずの斥候になろうか?」
廻の軽い口調に、思わず頷きそうになったが、慌てて頭を振った。「ダメだって!」
「そんな危険なこと…!」
廻の言葉は軽いものだったが、その表情が、決してそれが冗談ではないということを物語っていた。
「危険…ねぇ」
皮肉を込めたように廻が呟いた。今更危険だ何だ、と言っている余裕があるのか、と。
「だって…!」
必死になって玲於は反論した。「もし廻まで危険な目に遭ったら、先輩を助ける手助けにもならないし、むしろやらなければならないことが増えるじゃん!」
しまった、と思った。最終的に、損得勘定の観点からの反論になってしまった。案の定廻は、若干の軽蔑を込めた視線を返してきて、こう言った。
「じゃあ、玲於はこのまま三人全員がなにも考えず敵の本丸まで辿り着けると思う?…無理だよ。僕が、ひいては玲於も水科先生も必ず無事に帰る方法ならあるよ。今すぐ、踵を返す」
そのまままっすぐ、玲於に視線を向けた。怒りも迷いも、廻の瞳には見られない。「…安全に、何も代償にすることなく成し遂げられることなんて、無いよ」
再び、爆音が響く。
「全く、日本は物騒な場所だよ」
「まぁ、これに関しては不可抗力だとは思いますよ。“所長”」
所長と呼ばれた外国人-“S”の所長であるウェッジウッド・アルバートは、注がれた酒を口にする。「悪くない」
「そちらは苦労しているんでしょう?」
「まぁ、な。いつの時代も--」
再び、爆音が響いた。絢爛なその部屋には、防音機構は備えられておらず、外からの轟音がそのまま響く。
「完璧な組織は存在しないもんだ。人が群れるからには、どこかで必ず綻びが」
「生まれる、と。…私達のこと?」
「いやぁ、そういうことじゃない。こっちの話さ」
「…そう」
「それより、長いこと会わない内に、随分と丸くなったんじゃないか?…いや、外見の話じゃなくて、内面の、な」
「…そう?」
女が首を傾げた時、更に爆音が部屋を震わせた。思わず窓が割れたかと思うほどの衝撃だった。チラリと窓に目をやったアルバートは、思い出したように女に視線をやる。
「あぁ、すっかり忘れていたな。今回の用件」
「…分かってますよ、用件は」
「ほら、そういうところだ。昔はもっと粗雑な応対だっただろう」
流暢な英語で、女は素っ気なく応える。「無駄話は結構ですから、さっさと用件を用件を言ってください。…察しはついていますけど、あなたの口から。結局、二つ返事では受け入れたくないものでしょうが」
「…まぁ、そうだろうな。じゃあ本題に入ろうか―」
「所長は…?」
「今日本」
とある国、とある場所にある“S”の研究所。聖樹救世主の存在が、所長たるアルバートと、赤井翔馬によって証明された後、ここは“S”のベースに相応しい規模まで改築と修復を繰り返された。
「…そうそう赤井さん、このデータ、聖樹のエネルギー変動に関する直近一週間のものです。解析はこちらで済ませてますが、一応」
研究員の一人が、コーヒーと共に紙の束を赤井の席に持ってきた。今や全世界のトップクラスの技術を持つ者の悉くが集結する場所となった“S”だが、その中でも最初期からの古参ということ、そしてなにより、当時からささやかれていた“S”の存在を証明した最初の一人であることから、赤井はかなりの地位を占めていた。
「うん。…日本か、今大事件が起きてるんじゃ…?」
「…えぇ、そのはずです。くれぐれもお気をつけて、とは言いましたが…あの人、怖いもの知らずなところがありますからね」
「先進国と言われた国の中でこれほどの紛争が起きるってのは…かなり目玉のニュースなんだよな」
赤井とて、母国が大事件に巻き込まれているというのは由々しき事態ではあるが、だからといって自分の仕事を捨ててまで帰ろうとはしない。第一、その“大事件”というものの詳細が分かっていないのである。大事件、大事件と世間が騒いでいるようだ、ということしか知らない。
「まぁ、そうでしょうが…。所長は何をしに行ったか、分かりますか?」
同じ日本人ということで仲良くしている、その研究員が赤井に問うた。少し考えたが、
「さぁ。…あの人の奇行癖も困ったもんだよね」
肩をすくめ、コーヒーに口を付ける。あまり好きではないが、後輩の好意を無下にするほど赤井は腐っていない。
「おい赤井ぃ!」
静かだが静まり返っているわけでもない研究室に、怒号が響いた。多国籍のこの研究室に日本語で怒号を上げる者といえば、一人しかいない。
「枝里さん…なんですか?」
枝里信路。日本人研究員の中では、かなり古参の存在だ。だから赤井は眉をひそめながらも無下にはしない。
「見つけたぞ聖樹!」
「「えっ!?」」
赤井を含む、日本語を解する数人の研究員が一斉に枝里の方を見る。そのただならぬ気配に、日本語を聞き取れない他の研究員も枝里の方を見る。一斉に視線を向けられた枝里は、切羽詰まった表情を変えて、照れたような表情を作った。その様子に赤井は思わず「枝里さん、早く言ってください」とツッコんだ。その言葉の通りなら、世紀の大事件である。
「あぁ、そうだな。見つけたってのは流石に座標までではないが…」
しかし満足そうな表情で語るので、赤井はつい期待してしまう。―劇的な発見を。
「未知の膨大なエネルギー源が宇宙から観測された!これで地球上での救世主の消失を否定できた!そしてもう一つ…宇宙からの観測だから高精度での解析は出来なかったが…日本付近に救世主が確認できた」
「「おお!!」」
日本人がどよめき、立ち上がったが、日本語が分からない外国人は、とりあえず一緒になって喜ぶ者と何が何だか分からない者に分かれている。後者も、周りの者に話を聞いてから立ち上がって喜んでいる。
「やりましたね枝里さん!座標の情報が無くても、それだけで充分な結果です!…というか、実行部の仕事との二刀流でよくできましたね…」
「…まあ、な」
赤井も、枝里の微妙な立場、心情は理解している。
「とりあえず、所長に連絡しておきましょう。枝里さんは、その結果をまとめておいてください」
「もう済んでる」
「あっ…。じゃ、他の部署まで伝えておいてください」
研究所内は、一時興奮に包まれた。
日本での“大事件”がさらに進行していっていることを知らずに、研究の進歩を祝った。
「枝里さん、一歩進みましたね、“革命”へと」
「…まあな」




