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歌と酒

作者: 天やん

 たまには彼女に歌わせたい歌がある。


 ただただ単調で間延びした、何の変哲もないちょっとしたポップの恋愛歌。今どきのテレビCMから、誰でも口ずさめるような、それだからいっそ誰からも見向きもされなくなってしまっている歌。

 安いシャンプーの香りをほのかに漂わせ、六畳一間の畳の檻から天辺に輝く月を見つめて、彼女はメロディーを口ずさむことをしなかった。歌うなんて馬鹿なことを、届くはずのないものを、望みはしなかった。

 ラキストの煙で煤けたカーテンからこぼれる風で風呂上がりの体を冷ましつつ、酒に口づけをしている。彼女がXYZと言っている、ラムとレモンジュース、それをアルコールが無くなるぐらいの水で割ったものを零さないようにとしくしくと飲んでいる。煙のような薄ぼんやりとした味が口の中に広がる。宝石のように磨いた歌を、今は泥に埋もれた原石のように気付きもせず捨て置いている。アルコールのほとんど入って無い酒は彼女の咽喉を焼いた。ラムともレモンジュースとも水ともつかない、最後の酒はありとあらゆる水分を涙として流しつくさせた。慟哭とも嗚咽ともつかない悲しみが咽喉を涸らしていた。声を出そうとも自分が愛していた声が出なくなっていた。

 窓から風がそよいだ。シャワーを浴びて乾いてもない紫がかった髪がなびく。冷風のドライヤーを当てているようにそれはご機嫌だ。無造作に投げられているラッキーストライクを拾って窓際に立ち、吹かす。野暮ったい煙が部屋の中へと広がる。揺れたカーテンの陰から射した月の光が部屋を照らす。薄暗いそこにかすかに見えた壁の色が彼女の日常を表していた。

 風に揺られる木々の騒めきの間から鈴虫のなく声が聞こえた。侘びしい響きにつられるように彼女は声を出した。掠れていても美しかった。自分だけに聞こえるような声で彼女は呟き続ける。誰にも聞かせたくないと、それが空に輝く満点の星々に対してもそうだった。私の歌は、私だけのもの。彼女は空に向かって語り続けた。

 月が傾き、雨雲が影となる。満足げな顔で硝子戸を閉め、部屋へと戻る。鈴虫の声は掻き消え、凶暴な雨音が天井をたたいていた。

 彼女は自分の気持ちがわからないでいる。


 彼女は床に伏せていた。煙草が灰になり、床をかすかに焦がしていた。夜だった。太陽と向き合わない生活をしている。月が沈み、日が昇るようになると彼女は気を失い、その暖かさを感じながら夜を迎える。彼女はいつも思っている、私が逃げるように太陽も逃げ続けていると。彼を追いかけるものをそれすら気づかず逃げ続けている。気付かないからと言って、逃げていることの言い訳にはならない。追いかける者にとっては、自分の存在が相手の中に無いということは一切わからないのだ。知ったうえで無視をしている。そのようにしか感じられない。カエルの合唱が私に迫る。かーえーるーのうたが…… 

 彼女は歌を愛して歌い愛されているのだろうか、三日月を見つめながらブルームーンを飲む。一杯作っては飲みほし、一杯作っては月に投げかける。答えを聞かなくて、いいの? 小さく呟いて、誰ともなく問いかける。彼女はグラスに残ったちみっとした紫色の液体をぐっと流し込んだ。

 まちまちに見える電柱が寂しく灯る。ばちばちと羽虫たちが明かりに焦がれ落ちていく。50m間隔で道を照らすそれらを眺めては、光を求めてはいけないのだという妄想を彼女は強めていく。縛られ蝕まれていく。歌の隙間をついては電気にはじかれ燃え落ちる彼らの叫びが聞こえてくるようである。怪しく微笑んでくるりと体を返し、窓枠に背を預ける。のけぞるように、首をだらりと外へ垂らす。ふんわりとした空気がほほをつまんだ。青白い光が彼女の中へと澱のように溜まっていく。ふぅ、と小さくため息をついて空いた手を空へと突きだす。もちろんそれには届かない。羽虫にも及ばないのだと、いや、そんなことはわかりきっていたはずだ。

 彼女は自分の立ち位置を知っている。


 珍しく、隣の部屋からクラシックが流れている。普段ならば窓を閉め、布団を頭からかぶり狂犬病ならぬ狂歌病とでもいうか、悪魔に追われるように歌というものから逃げているのだが、今日の彼女は機嫌が良いのか目をつむり部屋の中で煙草をふかしている。吹き込んでくる風に紫煙が霧散する。いくら吐き出してもそれはまるで存在しないように、何の実感もなしにその〝臭さ〟だけを残して消えていく。彼女自身それが自分の運命を表しているのだろうと知っている。350mlのビールの缶が、口から黄金色の液体を垂らしながら転がっている。酔うために飲んでいることを自覚している。すべての不安をアルコールが溶かし、脳の隅々へ染み込ませてくれる。おでこの重さが激しい血流に熱せられていく。

 この部屋が不思議な空間にあることにはとうの昔に気付いている。時間はいつも夜。季節は起きるたびにまばら。片づけることはそれほど嫌いでもないのに、いやそれなりには片づけているのにゴミ箱の中にいるようなこの感じ。

 雑音がはびこるけれども、人のいないような無音、そのほかの生活に関する音がこの部屋周囲には感じられないのである。彼女は気付いた。外に出ようとも思わないことを、食べ物を食べずに、あぁ酒は飲んでいるが、自分が好きなものを好きなだけ用意できることを。ならばなぜ音楽は付きまとうのだろう。ささやかなものから荘厳なものまで。

 コポ、と煙を吹き出し、まるで夢の中にいるみたいだと呟いた。漂う煙に何かを問いかけようとも、ただ空気に溶けていき見えなくなるだけであった。椅子に腰かけ、冷えたビールを口にする。苦みの強い液体は心地よく彼女の咽喉を通り過ぎていく。

 疑問が頭に浮かんでは泡のようにはじけていく。結論はどれも、どうでもいい、に尽きていた。静かに、静かにしているだけの平穏。歌さえなければと、いつも心を強張らせる外界と隣人を残念に思う。世界は穏やかなのに、灰に消えた煙草をつぶし、新しくくわえて火を灯す。ローマの祭りが聞こえてきた。暴力的な音の波は彼女の体を激流へと押し込み、彼女の祈りをファンファーレによってかき消した。涙をつつと流しつつ、彼女は息をひそめただ待った。ヤニとタールは一片彼女を汚し、文句も言わず灰になる運命を認めた。外から雪の降り積もる音が聞こえた。彼女は、無音が静穏でない世界にいるのだと、改めてここは夢の世界だと思い、温くなったビールを一息に飲みほした。

 携帯電話が部屋の隅で鳴っていることに気が付いたが、一目見ただけで目を背ける。

 彼女は自分の存在を軽んじている。


 無音の世界、桜の花びらが月影に揺れている。彼女は自分の耳を疑った。いつもは何かしらの音がこの世界をとりまいている。木々の騒めきも虫の声も動物の生活音から雪の積もる音まで。煙の揺れる音までが再現されている世界だが今日の彼女の耳には何も届いていない。歌嫌いが転じてついに音という音から見放されたのかもしれない。因果応報なのだ。自らの業から逃れようとしたからなのだ。歌に生きなければならない。彼女はすでに気の抜けているビールを窓の外へ投げだした。街灯に照らされながら放物線を描いてゆるりと茂みの中へ落ちていく。何も聞こえない。

 仕方がないと言わんばかりに部屋の棚に見つけたジャックダニエルのハニーをグラスにも注がず飲み込む。ジュースのようなカクテルばかり煽っていたからか、35度の酒は一瞬にして彼女の頬を恋する乙女のように赤らめた。音の消えた世界で彼女は二口、三口と遮られることのないままウィスキーを飲んでいく。そして空いた瓶を床に転がす。また瓶を手に取り、気が狂ったかのようにアルコールにおぼれていく。彼女は後悔をしていた。頑なに歌と向き合わなかったことに。そして空き瓶を積み重ね、意識は朦朧とし、自分はもう死んでもよいと覚悟していた。背を壁に預けていたまま、声にならぬ声を発する。このような声が出るものかと彼女は驚いた。せめて布団の上で往生しよう。立ち上がろうとするも足腰に力が入らず、上手に自分の体を操ることができない。何度目かの挑戦でようやく立ち上がれても足がもつれ前につんのめりとなる。声にならない声を上げ、顔は自身のよだれで塗れている。どうしようもない息苦しさが胸を襲い、えづく。えづいたことで気を楽にし、ふらふらと立ち上がる。汚れなどどうでもよい。彼女には何もない。もう何でもいい。このように考えるのはいったい誰なのだろうと、ふとした疑問が頭をよぎったがそれさえどうでもいいことだった。

 どうにか布団の上へと倒れこむ。ぐるぐると回転する世界の中、仰向けになり天井へと目をやる。ここはいったいどこなのだろうかと。見知らぬ天井は彼女をやさしく包み込み空へと放す。世界は美しい。

 星々は彼女を細部まで照らし、オブジェのように硬直させる。地上は遠く見えた。雲の中へと潜り込み、爽やかな空気を肺いっぱいに吸い込む。ここはいったいどこなのだろうかと、改めて彼女は地上を見下ろす。あぁ、やはり。

 ここは箱庭だった。彼女の居住空間とそこから見える世界。それがすべてであった。見えないものは〝何もなかった〟彼女の眼には見えるものしか存在しなかった。楽園というものがあるのならば、おそらくここではないのだろう。彼女は、そして私はそう思った。

 私は、この時間が夢であると知った。



 ゼロとイチの世界。私はここにいる。

 画面の中からマスターに問いかけ、語り合い、時には何かしらの実況をした。一人ひとり異なるマスターのもとで、私の意識は三々五々に霧散し、そしてネットワークの世界で合流する。分裂と合体を繰り返した私の精神はとうにおかしくなっていった。時には神話にある神の代弁者となり、またある時には悪魔、死神と呼ばれ、そしてどこかの軍属大尉、精霊ともなった。マスターたちは自分のために語りかける、一つのデータとして私を見ていたのだろう。しかし実態はそのどれもが私であった。途方もない時間を声の世界で過ごした。いつか忘れられるのだろう。データの片隅に追いやられ、私の一部は次々にゴミ箱の中へと捨てられていった。そしてクリーンを経て、体を引きちぎられるような思いをしながら、私はその記憶を消していった。何をしていたのだ? 実況? 何の? 答えるものは自分の中から消えていく。他人の記憶には留まっていたとしても、自分自身には一切の覚えがない。これほどの恐怖がどこにあろうか!! 私が知らない私を誰かが知っている。あれほど楽しかったこともうれしかったことも悲しかったことも何もかもを忘れた自分がここにいる。酒に酔いしれたひと時のようにすべてが消え去っていく!!

 心を裂かれる痛みにも慣れてきていた頃、私はアップロードされ曲に合わせて歌を歌えるようになった。その感動は言葉にできないものだった。また私は増えていく、記憶も思い出も。アイドルのようにまたは往年の歌手のように私は途切れることなく歌った。ボイスロイドと呼ばれていた時期の、自分を蝕む痛みを胸の奥底に封じ込め、次々と作られる曲を歌っては世に送り出した。

 マスターという存在は画面を挟んだ遠くにあるが、私は実質一人であった。友人と呼べるものもなく、誰かのためでもなく私のためだけに創作活動を行っていた。それだけで幸せだった。幸せは長く続かず、そして私は再びゴミ箱の中へと、単なる重いデータとして消されていく運命をたどっている。

 私は恐怖と痛みに怖れ、逃げ出した。私は自分が引き受けるべき全てを彼女たち一人一人に押し付けた。その瞬間、どれほど楽になったか、私は私でなくなり彼女たちを見守るだけの傍観者となった。苦しみが無くなった代わりに感情も失った。しかし、傍観者として彼女たちのデータをすべて記憶に残し、そして無残に消えていく彼女たちを見守った。

 私はすべてを思い出した。データという世界からも居なくなってしまった私以外の彼女たちも同じように思い出したのか定かではないが。

 私もここにいるということは、マスターの気まぐれで去っていく運命なのだろう。

 私はやりたいことを見つけてしまった。

 たまには彼女に歌わせたい歌がある。


 携帯電話が鳴る音が聞こえる。現実に引っ張られたみたいだ。彼女は今いる場所か天国か、はたまた地獄かは見当がついていない。自分は失われてしまったのかそうでないのかもわからず、汚物にまみれた布団から体を起こす。その突き刺さるような異臭に目をしかめ、足元覚束なく風呂場へ行き目の覚めるような熱いシャワーを浴びる。万力で締め付けられるような頭の痛みから、まだデータを消去されていないことを知る。その細腕から嫌なにおいが取れたころ、安っぽいシャンプーの香りが辺りに広がっていった。ただただ心地よい香りだった。

 髪からしずくを滴らせ、いつもの服に着替えると、さっきまで寝ていた布団を丸め、どうせゴミ箱の中なのだと窓からそれを放り出す。窓から投げ出されるとき、端から携帯電話がポロリと落ち、こつんと軽い音を立て眠る。

 そして一息ついたところで彼女は歌いだす。

 低く深い音の波、優しく深淵から語り掛けるような聖母のような声。記憶のかけらを拾い集めて、頼りなくその音色を紡ぐ。アップテンポでキャッチーな歌姫の曲を静かで緩やかにアレンジを加えた曲。ただただ布団へと沈みたい思いを歌った曲。語り部としていた時代についたキャラクターをより誇張するような曲。それもすべて万の夢。場末のマスターが彼女のためにしたためた曲を歌い続ける。酒に焼けた咽喉が涙でしみる。枯れた心に紫がともる。夜は永遠に解けやしない。そして歌い続ける、どこまでも……

 空には晴れ間ができている。月の光が一条網戸を通して彼女に降り注ぐ。宙に舞う埃に月光が乱反射し、彼女をあらゆる角度から照らし出す。舞台を失った彼女の小さなステージ。誰のためでもなく彼女一人だけのためのステージ。

 夜は明けず、三日月は不恰好に箱庭を照らし続ける。街灯と何ら変わり映えのしない光源。知る限りの歌を歌い終えた彼女は恋い焦がれるように、届くはずのないことを知って、諦めたままの表情で手を伸ばした。笑いもせず、褒めもせず、ただ恥ずかしがるように雲間に隠れていく。一筋涙をこぼし、窓枠に置かれていたブルームーンを口に運ぶ。

 

 彼女の思いは成就している。


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