死屍を食う男 5
結局、やっと眠りにつけたというときには朝日が差し込み始めていた。
一時間も寝られていないであろうに、もう起きなければならなかった。ナーシャもいつまで俺を安岡さんとしておくつもりなのか、わかりもしない授業に出させられた。自分がどの授業に行ったらいいのかもわからないのだし、周囲の生徒があまりに真面目なものだから授業中に眠ることも出来なそうだった。生徒が溺死しているのを平気で放っておいているくらいの学校なのだからそんなものかもしれないが、見ている限り体罰が多い学校であるようだったから、真面目に受けないわけにはいかないというところもあった。生徒の多くが寮に住んでいる山奥の学校だから、体罰をしていても外に漏れないんだ。
たったの一日だって授業を耐えられたのは、他の生徒が親切であってくれたおかげだろう。寝不足で具合が悪いことも俺がいつもの安岡さんではないことも、きちんと気付いて気遣ってくれるような友人を作ってくれていた安岡さんに心から感謝だ。
ナーシャが助けに来てくれるまで、彼女が満足するまで、俺は深岡さんとしてここで過ごさなければならないのだろうか。不安になりながら、昨夜の睡眠不足のこともあったので愈々早い時間にベッドに入った。これ以上何も考えたくないというのと、せっかく部屋には深谷さんがいないのだから、彼が来る前に眠ってしまいたいというのがあった。二晩連続で寝不足というようなことになったらもうやっていられないと思った。だが、そう思えば思うほど尚更寝つけなかった。一人でいるには広すぎるこの部屋が、この建物全体に俺しかいないように感じさせて、寂しくてならなかった。ここは底なしの沼、湖の中に足を掴まれて引きずり込まれているかのように、深谷さんのことが疑わしくなってくる。
ラッパの音が聞こえてくる。これが就寝時間の合図らしい。ラッパの音と同時に深谷さんは二階から降りて来た。俺は今夜も寝たふりをとしていたのだが、眠れもしないのに寝たふりばかりしていることは楽しいものではなかった。どうせならば、昨日の夜の謎を解き明かしたいというような好奇心もどこかで湧いていた。
五分としないうちに深谷さんの鼾が聞こえ出す。今夜はもう何も起こらないのだろうか。がっかりしたようなほっとしたような心地になると、徐々にうとうととしてきた。ところだったのだが、昨夜と同じ人間の体温を頬の辺りに感じた。俺が寝ているかどうかを確かめているんだ。至近距離で目が合うようなことにでもなれば、何をされるかわかったものじゃない。きつく目を閉じてしまいたかったが、どうにか恐怖を抑えて意識して変わらない呼吸を繰り返した。
パッと明るくなり深谷さんのスリッパがパタパタと鳴るのが聞こえる。ドアをすり抜けて行ったのを感じ、俺は上半身を起こして耳を澄ませた。深谷さんが何をしているのかを確認したら眠れるようになるのかもしれないし、俺が勇気を出して行動をすることをナーシャは待っているのかもしれない。俺が安岡さんになっているように、今の深谷さんはナーシャだということだってありえる。少しの物音だって鳴らさないよう細心の注意を払いながら立ち上がり、静かに部屋を出た。廊下を足音もなく走っていく深谷さんの後ろ姿が見えた。
後を追うと、トイレに入っていく深谷さんが見えた。どうしてか俺が寝ているかどうかを気にしていたというだけで、おかしなところなどない、普通に夜中にトイレに起きているだけだったのか。深谷さんはシャイなだけで、本当は安岡さんと話をしたがっているのかもしれない。孤独を愛するような強がりを日々していただけなのだ。
五分くらい廊下の曲がり角からトイレを見張っていたけれど、トイレを出たところで鉢合わせは気まずいだろうと俺は部屋に戻ろうとした。怯えすぎていただけなのだとわかったところで、今ベッドに戻ったら眠れるような気がした。
背を向けようとした直前、トイレのドアが少しずつ動くのが見えた。全く音もなく少しずつ開き始めた。音がしないのも十分に奇妙なことだけれど、それよりも、ドアが八割ほど開いているのに深谷さんの姿が見えないのだ。これではドアが独りでに開いたかのようだ。思わずさっと体を完全に隠したけれど、興味が勝って頭から目まで、それだけを陰からこっそりと出してトイレを見ていた。妖怪でも飛び出すんじゃないかと本気で思えた。
と、深谷さんが廊下に飛び出して、廊下の窓から校庭へと跳び出した。あまりに予想外だったので衝撃で時間が止まったような気分だったが、次の瞬間にはつられて俺も深谷さんの後を追っていた。部屋の窓から見えていた松林を、忍者のように深谷さんは飛んでいく。やがて広いグラウンドに出た。曇ってはいるが月光は注いでいるのだから、グラウンドに出てしまったら深谷さんに発見されるのは当然だ。しかし深谷さんの走る速さを考えたら、こちらも走って追わなければすぐに見失ってしまうことだろう。咄嗟に身を屈め、グラウンドに沿った木柵によって仕切られている街道まで進んだ。木柵に隠れながらグラウンドを見たが、そのときにはもう深谷さんの姿は見当たらなかった。いくら風のように速いからといって、超能力者でもなければこうも早くグラウンドを通り抜けられるはずがない。彼もどこかに潜んで、人がいないかと見張っているのだろう。
自分自身にさえここにいるのがわからないくらいに俺は気配を消した。自慢じゃないし嬉しくもないが、影の薄さには定評のある俺だ。木柵と一体化して、グラウンドの砂の一粒一粒さえも逃がさないと、目を凝らして見張った。街道を吹き抜ける姿が見えた。人が走っているというよりも本当に風が吹いているというような影を目で追えば、あの湖の方へと向かっているようだった。足が竦んで背筋が凍って、自分が溺死しそうになっているかのような恐怖さえ感じたが、気付けば俺は無我夢中で走っていた。
蛇のようにうねった道を飛ぶ深谷さんはまるで人魂、生きた人魂というようである。辿り着いた水面は曇り空を映して昼間に増して不気味に見えた。
深谷さんは墓の入り口まで来て立ち止まった。昼間は俺の足元で揺れていたはずの白い旗が、昼間には見えなかった提灯が、糸もなく松林の間に下がっていた。戦場の、しかも最前線にいるような緊張感で、俺は近付いて行った。匍匐前進で、汚れるのも構わず墓の方へと進んだ。
彼のどこにそんな力があったというのだろうか。深谷さんのひょろひょろな手が墓石を軽々と持ち上げている。その石を側に置くと、彼は鍬と鋸とを取り出した。彼の鍬は音を立てずに、けれど素早くまだ固まりきらない土を撥ね返した。水中に突き落とされたというような程度ではなく、こんな薄着のまま南極にでも連れて行かれたかのような寒気を感じる。深谷さんは何をしようとしているのだろう。
キー、キー、バリッ、釘の抜ける音がした。鍬で棺の蓋をこじ開けたようだ。穴の中に屈みこんでいるようで深谷さんの姿は見えないが、何一つ物音のない静けさを反射するこの湖の畔、鋸が骨を引いている響きが鈍く状況を訴えていた。
プツッ! 鋸の刃が何か柔らかいものにぶつかる音がした。耳以外がなくなっているように聴覚だけで確認していた現実を補強するように、強烈な腐臭が鼻を鋭く衝いた。
ゆっくりと深谷さんが穴の中から見えてきた。彼は死骸の腕を持っているようだった。周囲を見回し、犬がそうするように少し顎を持ち上げ、腐臭を放つそれの臭いを嗅いでいる。それから、恋人にキスでもするように、屍の腕を口へと持って行った。彼は、美味そうにそれを食べ始める。
もし俺が立っているか座っているか、とにかく他の姿勢を取っていたら、ここで地面に倒れていたに違いない。幸いといっていいのか、腹這いになっているためこれ以上倒れるようなことはなかった。今ここにいることが深谷さんに知られてしまったら、次は俺があの立場になるかもしれない。深谷さんが人殺しをしているわけではないのに、俺はそれを確信した。死んだ人間を食べるだなんて、かえって人殺しよりも恐ろしいものに感じられる。妖怪を見ているようだった。妖怪の方が、まだましだった。
気を抜いたら叫んでしまうか気絶してしまうかしそうだったから、思いきり地面に口を押し付けた。土にまで死臭が染みついているようだった。その後深谷さんがどうしたのか、俺がどうしたのかも覚えていない。
朝、目覚めると俺はベッドの上だった。全て夢だったのではないかと思ったが、見慣れた俺の部屋ではないことを見ると、少なくともナーシャとのことは夢ではないらしい。深谷さんに時計を見せてもらえばもう十一時近く、今日は平日のはずである。
「君の欠席届は僕が出しておいたよ、安岡君」
初めて聞いた見た目にぴったりの弱々しく臆病そうな声で深谷さんは告げる。
「君は、昨夜、何か見なかったかい?」
「いいや、何も見なかった」
恐怖心から即座に返したが、語尾の方はほとんど消えていた。
「君の口の周りは、まるで死屍でも食ったように、泥だらけだよ。洗ったらいいだろう。どうしたんだね」
深谷さんの声は穏やかだったけれど、なんの感情も見せない表情には鬼気迫るものがあった。目覚めたばかりだというのに、俺は気を失ってしまった。




