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ep.35


 それからすぐに夜会はお開きになった。

 あの騒ぎではそうなっても仕方ないと思う。


 私も伯爵さまの指示で部屋に戻り、苦しかったドレスを脱ぎ捨て、普段着るワンピースに着替える。


 あんなに苦しくてたまらなかったのに、ドレスを脱いでも開放感はなかった。

 お腹だって空いていたはずなのに、わたしの食欲は遥か彼方に飛んで言ってしまったようだ。

 ほんの少し前まで頭の中を占めていたバウムクーヘンも、完全に場外となっている。


「ねえ、エリク」

「なに?」

「あの人、大丈夫かな……?」

「……さあ。応急処置はしたし、大丈夫なことを祈るしかないね」


 素っ気なくいうエリクはいつもと様子が変わらない。

 ゆったりとソファーに腰かけて、優雅に本なんて読んでいる。


 この余裕はどこから生まれるのかしら。目の前で人が血を吐いて倒れたというのに、動揺しているそぶりすらないなんて。


 けれど、そんな変わらないエリクにほっとしているわたしがいる。

 エリクを見ていたら大丈夫なような気がしてきた。

 きっとあの人はなんとか命を繋ぎ止めて、すぐに元気になる。

 都合の良い考えであることは百も承知だけど、そう思わないと平常でいられなかった。


 エリクの前にあるソファーに座ってぼんやりとしていると、エリクが顔をしかめてため息をついた。

 そして本を閉じるとわたしの腕を掴んだ。


「……もう寝よう、リディ。明日、伯爵が詳しい説明をしてくれるはずだから」

「でも、眠くない……」

「ずっと起きているつもり? ぼくはもう寝るよ」


 そう言うなり、エリクはスタスタとベッドのある部屋に向かって歩き出す。

 一人になるのはなんとなく怖くて、わたしは慌ててエリクの後を追う。


「ま、待ってよ……!」


 エリクの腕を掴むと、表情の読めない顔でわたしを見つめる。


「寝る気になった?」

「眠くないけど、一人になりたくないから、ベッドに入る……」

「賢明な判断だね」


 エリクは少しだけ口元を緩め、わたしの頭をぽんぽんと叩くとベッドに導くように手を引く。


「おやすみ、リディ」

「おやすみなさい……」


 しっかりと間を開けてベッドの両端で眠る。

 昨日とは違う意味で落ち着かなくて、意味もなく寝返りを繰り返す。


 目を閉じれば、先程の光景が蘇る。

 真っ赤に染まったドレス。叫ぶ人々。なにかが壊れる音──。


 そんな、思い出したくない光景が鮮明に浮かんできて、眠れない。

 あんなことがあって普通に眠れる方がきっとおかしい。


 ちらりと横を見ると、エリクはわたしに背を向けていた。

 なんでかな。人の体温が無性に恋しくて、わたしはエリクの背に手を伸ばす。

 けれど、一人分以上のスペースを開けて寝ているから、この手がエリクの背に触れることはない。


 わかっていてやったことだ。だけど、その事実を確認すると無性に寂しくなって、よくわからない衝動に駆られたわたしは境界線だと自分で並べた枕を飛び越えて、エリクの背に抱きつく。


 エリクは寝ているかな。

 寝ていたならそれでいい。その方が寝ぼけちゃったとかなんとか言えるから都合がいい。

 もっとも、エリクにはブツブツと文句を言われるのだろうけれど、それくらい甘んじて受け止めよう。


「……リディ?」


 少し掠れたエリクの声に、びくりと体が震える。

 どうしたの、と尋ねるエリクになんて答えようかと悩んで、それらしい言い訳を考えたけれど浮かばなくて、結局わたしは素直に答えた。


「……さみしい。こわい……」

「……」


 子どもみたいなわたしの言葉に、エリクは黙り込んだ。

 呆れらたのかもしれない。でも、これはわたしの本心だ。

 さみしい、こわい。誰かに縋らないと、誰かの温もりを感じないと、安心できない。


 エリクがゆっくりと振り返る。

 前髪に隠された左右で色の違う瞳がわたしをじっと見つめ、優しく抱きしめた。


「大丈夫だよ、リディ。ぼくはここにいるから」

「……うん。勝手にいなくならないでね……」


 いつかみたいに、と言う台詞は呑み込んだ。

 けれどエリクには伝わったようで、小く苦笑いをして「もういなくならない」と答えた。


 子どもをあやすみたいに優しくエリクに背を撫でられていくうちに、ゆっくりと瞼が下がる。

 エリクに抱きしめられると、とても安心できる。ここがわたしの居場所なんだって錯覚しちゃいそうなくらい。


 ──でも、エリクはきっといつか、違う誰かをこうして抱きしめる。


 そう思うと胸がちくりと痛んで、どうしてだろうと考えている間に、わたしは夢へと旅立っていた。




  〇●〇●〇●〇●〇●〇●




 翌朝、目が覚めるとエリクはもういなかった。

 きっともう起きて、いつものように読書をしているのだろう。エリクはなにがあっても変わらない。

 本を読んでいるエリクの姿を想像し、くすりと笑う。


 寝たらだいぶ気持ちは落ち着いた。

 エリクが一緒だったからだというのもあるけれど、基本的にわたしは寝たらスッキリする性質だ。


 落ち着いた、とはいえ恐怖がなくなったわけではない。やっぱりまだ不安だし、正直怖い。

 でも、エリクが大丈夫だよって言ってくれたから。だからきっと、大丈夫。そう信じている。


 気持ちが落ち着いたら、ぐうとお腹の虫が盛大に鳴き始めた。

 なんてゲンキンなわたしのお腹……そういえば、昨日からまともに食事とれてないのだった……。


 支度を整えて部屋を出ると、案の定エリクは読書をしていた。

 しかし、いつもならわたしが来ようと本から顔をあげないエリクが、今日は珍しく顔をあげた。


「おはよう、エリク」

「おはよう。……その様子だと、大丈夫そうだね」


 ボソリと小さく呟いたエリクは再び本に視線を落とす。

 どうやらエリクなりに心配していたようだ。

 素直に心配していたって言えばいいのに!

 ……まあ、素直に言ったらエリクじゃないか。


 ニヤニヤとしてエリクの隣に座ると、露骨に嫌そうな顔をされた。

 それを気にせずニコニコしながら、そういえば寝る前にエリクのことを考えていた気がすることを思い出した。


 なに考えていたんだっけ。思い出せないな……。


 ぐう、と再びわたしのお腹の虫が鳴り、エリクは呆れた顔をする。

 誤魔化すようにわたしはヘラッと笑う。


「エリク、わたしお腹空いちゃった! 朝ごはんにしよう?」

「……本当、リディはリディだね……」


 呆れたように言いながらも、その台詞のあとに「わかったよ」とつけ加えるエリクはいつもよりも優しい。

 いつもならきっと「自分で頼めば?」とかなんとか言ったはずだ。


 エリクはすぐに朝食の用意を頼んでくれて、それからいくらもしないうちに温かな朝食がずらりとならんだ。


 焼きたてパンに、野菜たっぷりの一口サイズのサンドイッチ。コンソメスープとマッシュポテト。こんがり焼けたソーセージに、新鮮な野菜のサラダ。

 デザートには昨日のバームクーヘンが並んでいた。わぁ、嬉しい!


 ルンルン気分で美味しそうな朝食をパクパクと食べていると、エリクは感心したように呟く。


「……よく朝からそんなに食べられるね……」

「だって、昨日からまともに食べていないのよ? 昨日の分もしっかり栄養とらないと! エリクもちゃんと食べないと大きくなれないわよ」

「もう成長期は終わってるよ……」

「まだ成長するかもしれないじゃない! わたしは諦めていないわ」


 もう少し、背が高くなるとドレスをきれいに着こなせるし、もう少し胸が大きくなれば背中からお肉をかき集めなくて済む。

 わたしはまだ、成長したい!


「……リディは本当に前向きだね」


 そう感心してエリクは言った。

 ……たとえ苦笑いを浮かべていたとしても、呆れているのではなくて、感心しているのだと、わたしは信じている。



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