ep.32
あのあと、少ししてエリクは帰ってきて、何事もなかった顔をして、いつものように本を読み出した。
そんなエリクに反し、わたしはやたらとそわそわしてしまって、意味もなく手を弄り、チラチラとエリクの様子を窺ってしまう。
聞けばいいんだ。さっきの言葉の意味はなに? って。そんなこと、わかっている。
でも、それを聞いてしまったら、今のような気安い関係ではいられなくなる気がする。
なにかが決定的に変わってしまうような──そんな予感がして。そして、その変化をわたしは恐いと思ってしまっている。
おかしいな……わたし、こんなに臆病じゃないはずなのに。どうしてエリクとの関係の変化を恐れているのだろう。それがわからない限り、きっとあの台詞の意味を聞くことはできないのだと思う。
……というか、わたしにあんなことしておいて、どうしてエリクはいつも通りなの。もっと挙動不審になって、わたしの様子を窺うくらいの可愛さを持ってほしい。あんなことしたくせに……!
ああ……思い出すだけで顔から火が出そう。
唇のほんのすぐ横に、未だにエリクの唇の感触が残っている気がする。
そもそも、なんでわたしだけこんなに意識しているの。悪いことなんてしていないはずなのに。やった本人はまったく気にしていなくて、やられた側がこんなに精神的に追い詰められるなんて、理不尽だ!
段々と腹が立ってきたわたしがエリクを睨んでいると、黒装束のユーグがどこからともなく現れた。
「はあー、疲れたー……」
ユーグはドカッとわたしの隣にお行儀悪く座る。
「どこ行っていたの?」
「んー……ちょっとね」
ヘラッと笑ってユーグは言葉を濁す。
ふーん……そう。わたしに言えないようなところに行っていたのか、もしくは言えないようなことをしていたのかのどちらなのだろう。
別にいいけど。知ったらなんか後悔しそうだし。
でもちょっとモヤッとはする。きっとエリクには話をするんだろうし。
ということは……わたしはお邪魔ってこと?
なんか、それはそれで腹立つな。
ちょっとムカムカしてきたのと、二人の邪魔にならないように気を遣ってあげよう思い、立ち上がる。
「わたし、ちょっと向こうの部屋にいるね」
「……へ? なんで?」
きょとんとした顔をするユーグに、わたしはにっこりとする。
「ちょっと一人になりたいから」
そう言って、ユーグに残りのお菓子を食べてと言い残して、ベッドのある部屋に行く。
エリクはわたしを引き止めるわけでもなく、いつもと同じように本を読んでいた。
……別にいいんだけど。引き止めてほしいわけではないし。だけど……なんだろう。少しだけモヤっとしてしまう。
隣の寝室に入って、ベッドに腰かける。
ぼんやりとレースのカーテン越しに空を見あげると、ため息が溢れた。
……最近のわたしは、本当に変。
どうしてこんなに心乱されるのだろう。相手はあのエリクなのに。家族みたいな、あのエリクなのに。
──ぼくはリディのことを家族だとは思えないけど、大切な女の子だとは思っている。
その台詞はまるで──エリクがわたしのことを好きみたいに思える。
そんなこと、ある? あのエリクが、わたしを?
「ないない。それは、ない」
声に出すと少しだけ気が晴れた。
だけど、すぐに心の声が聞こえる。
──本当に? じゃあ、どうしてキスされそうになったの?
知らない。そんなの、わたしがわかるわけがない。だってわたしはエリクじゃないもの。理由なんて、わかるわけがない。
──本当にわからないの? 誤魔化していない?
……誤魔化す? なにから?
なにを誤魔化しているというの。
──いつか後悔しても知らないからね。
なにを後悔すると言うんだろう。
というか、わかっているなら教えてくれればいいのに。自分の心の声ながら、本当に意地悪だわ!
「……ディ……リディ、そろそろ起きなよ」
体を揺さぶられて目を開けると、メイド服に身を包んだユーグが呆れた顔をしてわたしを見下ろしていた。
「もうすぐ夕飯だよ? ほら、シャキッとして」
「ユーグ……? あれ。わたし……」
「一人になりたいってこの部屋に入って、いつまで経っても出てこないから様子を見に来たら、キミが眠りこけていたんだよ。覚えてる?」
「……覚えているわ」
むくりと起き上がると、ユーグはため息を溢す。
「……ねえ、王子サマとなにかあったわけ?」
「……え? どうして?」
どきりとしながら答えると、ユーグは怪しむようにわたしをじっと見つめた。
「ボクの勘。……あと、なんか二人の様子がおかしいし。ボクさ、キミと王子サマのやりとり、結構気に入っているんだよね。見ていて楽しいし。なにがあったのかは知らないけどさ、仲直りするなら早めにした方が楽だよ」
「……ご忠告、どうもありがとう。でも、別にエリクと喧嘩したわけではないから、ユーグの気にしすぎよ」
本当のことだ。エリクとは喧嘩なんてしていない。ちょっと気まずいだけ。
エリクはいつも通りだし、寝るつもりはなかったけれど、いつの間にか眠っていたから、もういつものわたしだ。モヤっとしたことは寝たら忘れるのがわたしなんだから。結果オーライというやつだ。
「ふーん……なら、いいんだけど」
ユーグはそう言ったものの、まだ疑っているようだった。
ここはいつも通りであることを示さなくては!
部屋を出て、いつも通りにエリクに話しかけようと、意気込んで部屋を出た。
なのに……エリクの顔を見た途端、ぶわっと顔が熱くなって、わたしは慌てて俯いた。
な、なんなの……なんでわたし、こんな顔が熱くなって……相手はエリクなのに。緊張なんて、する必要はないのに……。
斜め後ろから疑わしげな視線を感じ、ハッとする。
いけない。ユーグにいつも通りであることを示すんだった。
「ご、ごめんなさい。わたし、うっかり寝ちゃったみたいで!」
「……そう」
笑顔で話しかけたのに、エリクは本から視線をあげずに素っ気ない返事をする。
いつもならムッとするところだけど、今はすごくありがたい。
ユーグとはちゃんと話せるのに、エリクとはまともに目を合わすこともできない。
それについてエリクがなにも触れてこないのをいいことに、わたしはその日、エリクの顔をまともに見ることも、会話らしい会話をすることなくベッドに潜った。
少し体を動かせばエリクと触れられる距離にいるのに、いつになくエリクと離れている気がした。
物理的な距離は、旅行に出る前よりもずっとちかいのに、エリクがすごく遠くに感じる。
そして、わたしは旅行に来て、初めて「寂しい」と感じた。




