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ep.30


「わたしの……思っていること……」


 小さく声に出したそれは、少しだけ震えていた。

 エリクは小さく頷く。


「言ってよ。リディが理不尽なこと言うのなんて、いつものことだし、慣れているから。遠慮するなんてきみらしくないよ」


 言っている内容は結構酷いことのはずなのに、エリクの声音が優しいからか、それはするりとわたしの心に染み込んだ。

 そして、自然と口から言葉が出ていく。


「わたし……本当に怒っているわけじゃないの」

「怒ってない?」


 エリクはきょとんとした顔で、不思議そうに聞き返して、わたしはそれに頷いた。


「うん……怒っているんじゃなくて〝悲しかった〟の。エリクが……ちゃんと言ってくれないから」

「……」


 エリクは目を見開く。

 わたしはそんなエリクの顔が見られなくて、俯いた。やっぱり、呆れられてしまっただろうか。子どもみたいだと思ったかな。

 でも、一度口に出した言葉はもう戻らない。


「エリクがわたしにちゃんと言ってくれないから、ちょっと拗ねただけなの。子どもみたいでごめんなさい……」


 謝ったら少しだけ気持ちが楽になった。

 これなら一度眠れば、起きたときにはいつものわたしに戻れそう。


「街ではしゃぎすぎたみたい。わたし、少し寝るわ」


 そう言って立ち上がろうとしたわたしの手を、エリクは引っぱって、またぽすんとソファにお尻をつける。

 なにをするのかとエリクに文句を言おうとすると、なぜか目を塞がれた。


「ちょ……エリク?」

「……本当に、きみは予想外なことばかり言って……」

「な、なに……?」


 エリクの手で目を塞がれたせいで、なにも見えない。その反対の手でしっかりと両手首を掴むという器用なことをしている。そういう器用さ、本当にいらない。


「ぼくはこれでも〝王子〟だから、リディに言えないことはたくさんある」

「……うん、知っている」


 知っていて、こんなふうに拗ねたのは、わたしの我儘に他ならない。これは、わたしがもう少し大人になればいいだけの話だ。

 まあ、それが難しいのだけど。


「面倒なことも多いし、嫌になることだってある。だけど……リディがバカみたいに楽しそうに話しているのを見ると、それも吹き飛ぶんだ。だから、言ったんだよ。『笑って、ぼくの傍にいて』って」

「エリク……」


 バカみたいってなによ、っていつもならきっと突っ込んだ。だけど、わたしがエリクのいう『バカみたいに笑う』ことでエリクを元気づけられているなら、それはそれで嬉しく思った。


「この先もリディには言えないことがたくさんあると思う。でも……言えるようになったらちゃんと言うから。リディは苦手かもしれないけど……それまで待っていてほしい」


 エリクの言葉に、胸が熱くなった。

 わたしは目を塞ぐエリクの手から逃れて、ちゃんとエリクの顔を見た。

 エリクは真剣な目をしてわたしを見ていた。だから、信じようと思った。

 エリクは意地悪で嘘つきだけど、今だけはその言葉を信じようと──ううん、〝信じたい〟と思った。


「……本当に、言えるようになったら言ってくれる?」

「その指輪に誓って、約束するよ」


 エリクはわたしの指に嵌められたままの指輪に触れて、言い切った。


「……わかった。エリクが言ってくれるのを、待ってあげる」


 そう言って、にこりと笑うと、エリクはほっとした顔をした。


「……良かった。本当に、リディのご機嫌取るのも一苦労だよ……」


 ブツブツと文句を言い出したエリクに反論しようとすると、ぐう、とわたしのお腹の虫が大きな音をたてた。


 そういえば、お昼ご飯食べてなかったんだった……安心した途端、お腹が空くなんて、我ながらなんて現金なお腹なのだろう。


「リディはどこへ行ってもリディだねえ」


 呆れたように呟いたエリクが立ち上がり、どこかに向かって歩き出す。


「どこ行くの?」

「きみのお腹の虫を静めるために、食事を用意してもらうんだよ。少し遅いけど、お昼にしよう」

「うん!」


 元気よく頷いたわたしにエリクは少し笑い、部屋に置いてあったベルを鳴らして人を呼び、食事を用意してもらうように頼んだ。


 そして運ばれてきたサンドイッチと、デザートのスコーンやタルトをパクパクと食べると、お腹も満たされて元気が湧いてきた。


「そういえば……ユーグはどこに?」


 スコーンにたっぷりのジャムをつけながらエリクに聞くと、エリクは「ああ……」と少し面倒そうに呟いた。


()()()()()()()()で外している。夜には帰ってくるんじゃない?」

「ふうん……」


 ちょっとした用事、ね……。

 たぶん、ユーグの前職(?)関係の仕事なんだろう。もしかしたらエリクが頼んだのかもしれない。


「お菓子いっぱいあるから、ユーグにも手伝ってほしかったのに……残念。頑張らないと」

「あのねぇ……別に残してもいいんだよ」

「そんな勿体ない! こんなに美味しいのに残すなんて! あ、ユーグが帰ってきたときに軽く摘めそうなものだけ残しておけばいいか」

「だから……はあ……言っても無駄か……あとで後悔しても知らないよ」

「後悔なんてするわけないじゃない! こんなに美味しいのだもの」


 美味しいものに罪はない! 摂取した分だけ動けば脂肪になることもないだろう。

 隣国の王宮でどう運動すればいいのかとか、一瞬悩んじゃったけれど、そんなものはあとで考えるなり、エリクに助けてもらうなりすればいい。

 そもそも、少しくらい食べ過ぎたところで、すぐにすぐ太るわけでもないだろうし。たぶんきっと恐らく。


 パクパクとお菓子を食べ続けるわたしをエリクは呆れた目をして見たけれど、それ以上はなにも言わなかった。たぶん、言っても無駄だと判断したのだろう。


「よく食べるね、リディは」


 一人で食べ切るにはやはり量が多くて難しかったけれど、だいぶ少なくなったお菓子を乗せた皿を見てエリクは感心したように呟いた。

 お茶を飲んでいたわたしはティーカップを戻して、ふんっと胸を張る。


「わたしがよく食べるのではなくて、エリクが食べなさ過ぎなの! だからもやしなのよ」

「はあ? ぼくはもやしじゃない」


 わたしの言葉にカチンときたのか、エリクがムッとした顔をして睨んできた。


「もやしよ! 肌が白くて細っこいもの!」

「それだと、たいていの人はもやしになるけど」

「そんなことはないわ。父さまはもやしではないし、エリクのお兄さまだって違うもの。他にもたくさんもやしではない方はいるわ」

「……じゃあさ、きみが最近仲良くしているローランって人はどうなの?」

「ローランさま?」


 エリクから出てきた名前に目をぱちくりとする。珍しいな、エリクから人の名前を聞くなんて。

 そんなことを思いながら、ローランさまの姿を思い浮かべる。


 ローランさまは元々病弱だったこともあって、エリクよりも体の線は細く、肌の色も白いけれど、どちらかといえば青白いという印象だ。健康的な印象は薄いかもしれない。


 その点、エリクは引きこもりがちだからなのか、気をつけているのかは知らないけれど、同じように白くてもローランさまとは違い、健康的だ。

 ローランさまが儚げな印象に対し、エリクの印象はといえば、やっぱりもやしだった。健康的なもやし。


「ローランさまは……もやしじゃないわ。やせ細ってるいるけれど、エリクとは違うもの」

「……なにそれ。結局、リディがもやしにしたいのはぼくだけってこと?」

「いいじゃない、もやし。わたしは好きだわ」


 シャキシャキした食感がたまらなく好き。味とかあまりしないけれど、あの食感は癖になる。


「……そんなの好きって言われても嬉しくない」


 拗ねたように呟いたエリクに、わたしはにんまりと笑う。


「じゃあ、違う〝好き〟ならいいの?」

「は……?」


 怪訝そうな顔のエリクに、わたしはニコニコと笑いながら言う。


「わたし、エリクが好き」

「……は」


 珍しくエリクがぽかんとした顔をした。

 それに気を良くし、さらに言う。


「エリクが好き。エリクのその顔も瞳の色も、ちょっと意地悪なところも、たまに優しいところも、全部好き」

「な、なに言っているの、リディ……」


 あら、エリクが動揺している。なんて珍しい。

 この場にユーグがいないのが残念だ。いたらこの先、エリクのこの珍しい様子のことをネタに二人で楽しめたのに。


「エリクはわたしの大切な、家族みたいな存在よ」


 そう言ったわたしに、動揺していたエリクからすっと表情が消えた。

 ……え、なに? わたし、なにか間違えた?


「……まあ、そうだよね。リディだしね……」

「な、なによ……バカにしているの?」


 どうして今の流れでバカにされなくちゃいけないのかかわからないけれど! わたしはエリクに好きって言っただけなのに!


「別に? リディらしいなと呆れただけ」

「なんで呆れるのよ……」


 そこは嬉しく思うところじゃないの? 違う?

 家族に好きって言われた嬉しいものだと思うのだけど……。


「ぼくはリディのこと、家族だなんて思ってないよ」

「え……」


 エリクの言葉にずきんと胸が痛む。

 そうなんだ。家族みたいに大切だと思っていたのはわたしだけなんだ……。


「それに、ぼくはもやしじゃない。今から証明してあげようか」

「え?」


 胸の痛みに気を取られていたわたしはエリクの言葉に反応するのがわずかに遅れた。

 証明ってなに、と聞くよりも前に、エリクが素早く動く。


 とんっと背中になにかが当たり、視界が大きく動き、天井が見えた。しかし、それもほんのわずかな時間で、わたしの視界はすぐにエリクでいっぱいになる。

 エリクは冷めた目をしてわたしを見下ろしていて、それでやっと、わたしはこの状況を理解した。


 ──わたし、エリクに押し倒されている。


「ぼくがもやしなら、簡単に退かせるよね。ほら、ぼくから逃げてご覧よ」

「そ、そんなの無理……」


 だってわたしの両手首はエリクの手によっていつの間にか拘束されているし、足だってあまり動かない。こんな状況でどう逃げ出せというのか。


「なんで? もやしから逃げるのなんて簡単でしょ?」

「で、できないから無理なの!」


 そう言ったわたしに、エリクはくすりと嫌な笑い声を溢す。


「できないんだ? じゃあ、リディはもやし以下ったことになるのかな」

「え?」


 エリクがもやしだとすると、もやしに勝てないわたしはもやし以下になる……? もやし以下ってなにがあるのだろう。


 うっかり現実逃避をするように考え込んだわたしに、エリクはうっすらと笑う。


「なんかいろいろ考えているみたいだけど……ねえ、リディ。この状況、わかっている?」

「この状況って……?」

「ぼくに押し倒されているってこと」


 ぐっ、と言葉につまる。

 わからないふりをしたけれど、本当はとっくの昔に理解していて、考えないようにしていた。


 しかし、エリクから実際に言われて、状況を嫌でも理解しなくてはならなくなって、とっくに悲鳴をあげていた心臓の鼓動が加速する。


 わかっている。本当は、わかっていた。

 この状況が、わたしにとってはよくないものだってことくらい。

 これが──貞操の危機だってことくらい。


 でも、相手はエリクだ。きっと怖いことなんてしない。エリクはわたしが本当に嫌がることはしない。

 そのはず、なのに。


「……エリク、退いて」

「いやだと言ったら、どうする?」

「エリク! ……お願いだから……」


 きっとわたしが無神経なことを無意識に言って、エリクを怒らせたんだ。だから、エリクはわたしのお願いを聞いてくれないのだろう。


「……あのさ、そんな顔したら、逆効果だから」

「え?」


 そんな顔ってどんな顔?

 そう問いかけようとしたわたしに、エリクは見たことのないような、艶やかな笑みを浮かべ、背中がぞくりと粟立つ。


「そんな──物ほしそうな顔、しちゃだめだよ」

「は……?」


 そんな顔していない!

 と反論しようとすると、エリクの顔が近づいてきた。


 昨日と似たシチュエーション。ああ、なんでこう、わたしは二度も同じ過ちを犯すのだろう。だからバカにされるんだ。


 そう後悔するのとは違う、微かな高揚感みたいなものが湧いてくるのを感じる。

 なにこれ。いったいどうして……?


 エリクの顔が目と鼻の先になって──わたしは咄嗟に目を閉じて、その瞬間に構えた。


 柔らかい感触が口のすぐ横に感じる。

 それはすぐに離れて、それと同時くらいにわたしの手の拘束も解かれた。


「……ぼくはリディのことを家族だとは思えないけど──大切な女の子だとは思っている」


 エリクは耳元でそう囁き、離れる。

 目を開けて体を起こしたときには、エリクは背を向けて部屋の外に向かって歩き出していた。


「エ、エリク……どこ、行くの……?」

「ちょっと用があるんだ。すぐ戻るから、リディは部屋にいて」


 そう言ってエリクは部屋を出ていく。

 パタンと閉まるドアの音に、わたしはヘナヘナとお行儀悪くソファに倒れ込んだ。


 ……なに、いまの。それに、エリクの言葉の意味は……。


 考えると、頭が沸騰しそうになる。

 きっとわたしの顔は真っ赤になっているに違いない。


 なんでだろう。相手はあのエリクなのに。

 どうしてこんな、胸がざわざわするんだろう。


 どうして──キス、されなかったことを残念だと、思ってしまったんだろう。


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