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第七曲 姉さんと癒し効果


 --ギターを始めて一ヶ月経過


 僕がバンマスになり、ギターを始めてから、一ヶ月が過ぎた。


 もう、大変すぎて死ぬかと思った……いや、もう死んでいる。ギターを舐めていた訳では無いけれど、覚えることが多すぎて、もう勉強よりもややこしい。


 ピックで弾くのって、こんなに大変なのか。


 --ピックを下から上へ振り上げて弦を弾く『アップピッキング』、上から下へ弾く『ダウンピッキング』、ダウンピッキングとアップピッキングを交互に行う『オルタネイトピッキング』


 なんだよこれ?!

 もう意味が分からない。左手でコードを押さえるだけじゃなくて、右手で行うピッキングまで色々なバリエーションをこなしながら、リズムを保たなければならないなんて聞いてない。祥は当たり前の様に弾いていたけれど途轍もなく難しいじゃないか!


 --だって翔ちゃんから言い出したんじゃない。


 理津美にSNSで愚痴ったとき、冷たく正論で突き放された。まあ、確かに言い出しっぺは僕だし自業自得だけれど、少しぐらい同情してくれたっていいじゃないか。弱音を吐く相手を間違えたと思ったけれど後の祭りだ。


 頭ではわかっているのだけれど、身体が上手く動いてくれない。バンマスになった『あの日』以来、みんなと一緒にスタジオ練習には入らずに、ひたすら家で自主練を行っている。


 もう引きこもりの再来だ。だって、今のレベルじゃあ、みんなの練習の邪魔にしかならない。


かけるちゃーん。どーお?」


 姉さんは、部屋のドアを半分開けて顔を出し、『コンコン』とノックした。


「もう泣きそう……」


「あはは……翔ちゃん、気持ちはわかるけれど、ちょっとは休みなよ? 最近ほとんど寝てないでしょ? 目の下にクマができてるよ」


 思わず本音を出す僕に、姉さんの笑いも引きつる。いやもう弱音だって吐くさ。今思えば、ベースを始めた時は期限が一ヶ月だったけれど、その代わり担当曲は一曲だけだった。それに弘子さんがリードベースだったから何とか誤魔化すことができたのだ。


 それが、今回はギターで十二曲もこなさなければならない。あの時の自分……なんて無茶なことを言ったのだろう……弘子さんと半分ずつ担当とか言っておけば良かったと深い後悔に襲われることもしばしばだ。


 今にも倒れそうな僕の姿を見て姉さんが心配そうに言う。


「はあ……翔ちゃんは真面目だなあ……少し私の胸の谷間で休んだら?」


「何それ? 意味が分からないが……?」


「ほら、女の子の胸の谷間に顔を埋めると、癒し効果が絶大だって偉い先生の研究結果が出ているんだよ。だから」


「『だから』何だよ! 意味がわかんねえよっ!」


 どんな時でも姉さんは姉さんだな。でも祥が死んで僕が落ち込んでいた時は気を使ってくれたのか部屋に入ってくることは無かった。その代わりに、心配する友達たちのフォローをしてくれていたらしい。


 そこら辺に関しては姉さんに感謝……かな。


「まあ、冗談は別として、必要以上に無理をしても身にならないってこと。休息して体力を少しでも回復した方が効率が良いんだよ。……それっ!」


「……うわっ!」


 姉さんは部屋の中に走り込み僕に向かって正面からダイブした。あぐらをかいていた僕はそのまま後ろに倒れる。姉さんは、満足気に僕のことをギュっと抱きしめた。


 --ハァハァ……


 姉さんの熱い息遣いが耳の近くで聞こえる。髪からはシャンプーの良い香りが漂う。


 --チュッ


 姉さんは僕の頬に優しくキスをして再び強く抱きしめた。


「まったく……一生懸命な翔ちゃんも大好きだけれど、あまり心配かけないでよね」


「う、うん……」


 そうなんだよな。

 最近、姉さんには心配を掛けっぱなしで、それに加えて、ゆっくり話すことも出来ない状態が続いた。あの姉さんが僕に接触しない日々が続くなんて彼女自身思うことがあったのかもしれない。


「今日は、ゆっくり休みなさい! 命令だよ! ほら、ベッドに寝て! 早く!」


「え? え?」


 僕は姉さんに抱きかかえられてベッドまで移動させられた。僕は力尽きていることもあったけれど、姉さんの、その力は驚くほどで『火事場の馬鹿力』を感じさせるほどに、あっという間に布団の中に寝かされた。


 そして、姉さんは当り前の様に僕の横へ、すっと滑り込む。


「そうそう、今日は大人しく眠りなさい。そうしたら明日は元気百倍翔ちゃんだから、ね?」


「ちょっと……やめてよ……出ていってよ……」


 抵抗しようとしても、疲労感一杯でうまく力が入らない。そんな僕を尻目に姉さんは僕の上に覆いかぶさって、優しく頭を撫でた。


「よしよし。ミス慶蘭大学の私が添い寝してあげるんだから感謝しなさいよ。うふふ」


「そんなの知らない……よ……」


 僕は口で嫌がりながらも、姉さんの心臓の鼓動を聞きながら、頭を撫でられていた。それは、体中がフワフワと浮遊している感じでとても心地よい気分だった。


「ふふふ……もう寝ちゃった。よほど疲れていたのね。ゆっくりおやすみ……私の王子さま」


 姉さんの言葉が聞こえたかどうかの記憶が定かでは無いくらいの速さで、僕はあっと言う間に眠りの世界に落ちて行った。



--ギターを始めて二ヶ月経過


 姉さんから適度な休息は必要だと言う助言は、あながち冗談ではなかった。定期的に休息を取ることによって、僕は集中力を取り戻し効率的にギターの習熟度が順調に上がっていった。


 いやいや、休息と言っても姉さんの胸の谷間で休んでいると言う意味ではないから誤解しないで欲しい。


 ピック弾きも何とか慣れてきて各コードの抑え位置も身体で覚えられてきているのではないかと思う。


 うん。人並みの少し下くらいにはテクニックも上がってきているかな。まだまだ祥には敵わないけれど、それでも良いと思ってる。



『僕は、いつまでも祥の背中を追っていたいんだ』



 それから、何日かして弘子さんと理津美から、タブ譜入りの楽譜が届いた。時間の無い中、音符が読めない僕のために、二人協力してタブ譜を作ってくれたのだ。



 --これで言い訳出来なくなったわね。



 なんて、理津美は憎まれ口を叩いていたけれど、彼女たちの協力には、とても感謝して言葉では言い尽くせないほどだ。こう思うと、僕は皆から支えられているんだなと心から実感した。


 何回も指先の皮がめくれて、僕の手は見るも無残になっていたけれど、最近になってやっと指の皮が厚くなってきたようだ。これはギターをやって見なければわからなかったことだし、一生懸命練習してきた証と思うと自分でも誇りに思う。


 姉さんのお陰で練習と休息のバランスも何となくわかってきたし、ライブまで後一ヶ月。全力で行ってギリギリ間に合うかどうか。


 さあ、ラストスパートだ!


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