第九曲 人生うまくいかないから面白い
「よお!」
看護師さんの案内で集中治療室の中に入ると、そんな場所に似つかわしくないほどに元気な声で祥が僕に挨拶をした。もちろん、酸素マスクをしているので声が籠っていると言うのはあるけれど僕にとってそれは想定外の出来事だった。
もちろん、良い意味での想定外だっ!
祥は看護師さんに目配せをして、口から酸素マスクを取ってもらい、そしてベッドの背中部分を起こしてもらった。
「し、祥……大丈夫なのかっ?!」
「だーいじょうぶ! 元気元気っ! 何でこんなところに押し込められているのか不思議なくらいだぜ!」
「そ、そうか……良かった……」
蓮花さんから『今夜が山場』と聞いていたこともあって、尋常じゃないくらいの不安感があったのだけれど、祥の姿を見てその気持ちは一気に払拭された。
「奇跡としか言いようがないですね。あんな事故にあって普通なら即死しても不思議ではないのですよ。担当医師も驚いていました。これも高倉さんの人並外れた精神力の賜物かもしれないですね」
看護師さんは笑顔で、首を振りながら信じられないと呟いた。
「って、言うことだから、こんなところ早く抜け出して、また弟と一緒に演奏したいぜ」
「うんうん! 僕も早く祥と演奏したい!」
「おお……? 今日は珍しく弟の反応が良いじゃないか。たまには事故にもあってみるものだな」
冗談交じりに笑う祥。冗談が言えるくらいだから、きっともう大丈夫なのだろう。
「ライブ……大丈夫かな?」
「……ん? 何を言っているんだ?! 大丈夫に決まっているじゃないか。必ずライブは遂行するし、成功させる。妹バンド『シュトルツ』のデビューライブでもあるしな」
そうだった。
祥の事故騒ぎで、すっかり忘れていたが、理津美、玲子、直美……そして弘子さんがメンバーのバンド「Stolz」のデビューライブでもあったのだっけ。
そういう意味でも必ずライブをやらなければいけないな。
「うんうん。そうだね。祥も早く退院できるといいね」
「俺は、大丈夫。今からでも歩いて帰れるぜ」
「全く、何言っているんだよ? 無理に決まっているじゃないか!」
怒る僕を見て『あははっ』と笑って見せる祥は、本当に事故にあったのかと疑うような元気な姿だった。これも彼の強さなのかもしれない。
「速攻退院して見せるさ。ギターの腕がなまっちまう。それまでは曲作りに専念するさ」
「まったく……災難だったな……中々上手くいかないもんだね。事故に鉢合わせするなんてついてないな……まったく……」
僕が溜息交じりに呟くと、祥は『そんなことないさ』と言う風に、首を振って、ふふっと悪戯に微笑んだ。そして、僕の中には無い『ありえない言葉』を言い放った。
「ついてないなんて発想は俺には無いよ。だって、『人生うまくいかないから面白い』んだぜ? 良いことばかり起きていたら成長なんて出来る訳が無い……人は失敗から何かを学ぶもんだろ?」
--人生うまくいかないから面白い
僕に祥の言葉が心の中に突き刺さった。
前に祥は『どんどん失敗しろ。失敗して人は成長するんだ』みたいなことを言っていたけれど、その言葉の根本はここにあったのか。
祥の前向きさに敬服するばかりだ。まだまだ祥から学ぶことはたくさんありそうだと、しみじみ思う。
祥は続けて言う。
「それに……事故に鉢合わせしたことも『ついていない』なんて、これっぽちも思ってなんかいないぜ? だって俺が、あの時、あの場所で、あの子を助けることが出来なければ、『彼の人生は終わっていた』かもしれないんだ。むしろ俺は、『あの少年を助けることが出来てラッキー』くらいに思っているのさ」
「!!!!」
「それに、ある人にとっては、ついていないことでも、ある人には良いことかもしれない。人にとって尺度が違う。それに良いことばかり求めていたら、新しいことにチャレンジ出来ずに、その分成長が止まってしまって勿体ないぜ? って俺は思う」
「…………」
祥の言葉に僕は何も言い返せなくなってしまった。
祥の懐の広さ……計り知れない。まだ十六年とちょっとしか生きていないけれど、少なくとも僕の出会った人の中で祥と同じ発想が出来るヤツは居ない。
自分の命を投げうってでも見知らぬ少年を助けることを最優先する……仮に僕がその場に居て、祥と同じことが出来るかと言えば、『出来ない』と即答できる。これは情けないことだけれど事実なのだ。
目の前の惨劇に動くことが出来ずにオロオロして、事故後も動けずに見守ることしかできないだろう……祥と出会ってから思考が変わった自覚があるとは言っても、そんなに急に人格を変えることなんてできない。
結果的に祥は助かったのだから、祥の行動は間違っていなかったと言えるかもしれない。だけれど、命を落としてしまったら『名誉の負傷』なんてこと言っていられないのだ。
僕が無言になって悶々《もんもん》と考えこんでいると、祥が上目遣いで言いにくそうに口を開いた。
「弟……? お願いがあるんだけれど……」
「な、なんだよ……?」
「もっとこっちにきてくれよ」
「う、うん……」
僕は座っているベッド横の丸椅子とともにピッタリと祥の横に近づけた。
すると祥は真剣な顔をして、僕の手をギュっと握り、そして僕の目……瞳の中の、またその奥をまさぐる様にジッと見つめた。
僕は祥の綺麗な瞳に吸い込まれそうになり、思わず目を背ける。
「あたま……撫でてくれないか……?」
「ちょ、ちょっと、ダメだよ……みんな見てるよ……?」
すると、部屋の中に居た蓮花さんと看護師さんは気を利かせてくれたのか、そっと外に出て行った。もちろん、仮にも祥は集中治療室に在室している重症患者なのだから、部屋から出ていってもガラス越しには見ているだろう。
「大丈夫だよ。こんな時くらい……いいだろ……?」
--ファサ……
言い終わると祥は僕の胸に、そっと頭を預けた。
祥の匂いがする……
僕は、腫れ物を扱うかのように祥の頭に手のひらを乗せ、ぎこちなく、でもゆっくりと丁寧に、手を動かした……
--ピッピッピッピ……
部屋の中は、とても静かで、心電図モニタからの単調な音だけが鳴り響いている。それは、祥と僕の二人だけの世界を演出してくれているようだった。
祥は僕の胸に埋もれたままの姿勢で、優しく呟いた。
「さんきゅ。弟……愛友って言葉じゃ足りないくらい愛してるぜ……」
「ばか……こんな時に何言ってるんだよ」
祥からのいきなりの告白に思わずドキドキと鼓動が高鳴る。この僕の心臓の音、祥……気付いてるよな……
祥が退院したら、もっと祥の力になろう。僕の出来る限りのことをしよう。もっともっとベースの腕を磨いて、祥のバックアップも進んでしよう。
退院して暫くは祥の家までの送り迎えで、僕の肩を貸してあげて一緒に歩くんだ……だって、入院していると足の筋力が衰えて歩くのもままならないって言うし、完治するまで僕が祥の足になるんだ。
これだけ僕のことを思っていてくれているんだ。
今度は僕が……祥のことを助ける。
きっと祥は喜んでくれるよな。
そうだろ……? 祥……
--ピッピッピッ……
--ピーーーー
……え?
急に心電図モニタの音、リズムが変わった。
僕は焦って心電図モニタに目線を移す……すると、ついさっきまでモニタ画面に綺麗な波形を映していた線が、真横に一直線に伸びていた。
……そして
『デジタル数字に「0」が刻まれていた』
……嘘だろ?
--バタンッ!
勢いよく扉が開き、蓮花さんと看護師さん、そして担当医師が慌てた様子で集中治療室に入ってくる。
「弥勒寺様、失礼します」
蓮花さんは、祥を僕から引きはがし祥のことをベッドに寝かせて心臓マッサージを始めた。
「祥さま! 戻ってきてください! 祥さまっ!! 祥さま!! お願いですから!! お願いですから!!」
蓮花さんは、半ば涙声で叫び、両手で祥の胸を激しく押し続け必死に人工呼吸を行ったけれど、何が起こったのか僕には全く理解できなかった。
……いや、『正確には』理解したくなかった。
だっておかしいだろ?
さっきまで、あんな元気に冗談まで言っていた、祥の心臓が止まるなんてありえないだろ。
「すみません。AED取り付けます!」
看護師さんは、手際よくAEDを祥の胸に装着すると、機械を作動させた。
--ドンッ!
AEDが作動し祥の身体が大きく揺れる。
「高倉さーん! 高倉さーん! 聞こえますかーっ!!」
看護師さんも必死に祥に呼びかける。
だけれど、祥は眠ったように何も反応しなかった。
--おい……もう冗談は十分だよ。ホント性格悪いな。わかったから、わかったからいい加減に目を開けてくれよ……
だけれど、僕のそんな思いは祥に全く通じていないようだった。
僕は為す術がなく祥のことを見守るしかなかった。神に祈るしかなかった。こんな一大事の時に、僕は何もできない、これほど無力な自分に嫌気が差したことは無い。
--ずるいよ!
--僕に告白をするだけしておいて、そのまま逝ってしまうなんて許さないからな!
--このまま死んだら祥のこと嫌いになるぞっ!
--…………
--もし神様がいるなら祥を助けてください--
だってこんな終わり方ないだろ? おかしいでしょ? だって祥はまだ僕と同じ高一なんだよ? まだまだこれからだろ?
ありえないだろ……
そ、そうだよ!
僕と祥は高校卒業したらアメリカに行くんだよ。
それで、たくさん苦労して、たくさんケンカして、
そして……そして、たくさん、たくさんイチャついて……
有名になって全米制覇するんだよ。
歴史に残るバンドになるんだよ。
そうだろ……祥?
祥っ!!
そして……
--看護師さんが蘇生作業を止めて祥の傍を離れた。
入れ代わりに担当医が祥の呼吸、頸動脈、そしてペンライトで瞳孔を確認し……
--手のひらで、そっと祥の目を閉じた。
担当医は姿勢を正し、一呼吸置いて、重々しく口を開いた。
--三時五十三分……死亡確認しました。ご臨終です。




