第六曲 蓮花さんの振る舞い
姉さんは自動車を運転しながら、僕に祥の状況を聞いた。
「祥くん……どうしたんだって?」
「詳しくは分からないけれど、僕を送ってくれた後の帰り道に事故にあったらしい。救急車で運ばれて今、緊急手術中だって……」
「そっか……」
……部屋の中で僕のスマホにかかってきた一本の電話。それまでニヤけていた姉さんの表情は一変し、深刻そうな顔をして僕のことを見つめた。
僕から姉さんに『祥が交通事故にあって病院に運ばれた』ことを伝えるや否や、姉さんは一時の迷いも無くスクッと立ち上がり、あっと言う間に出かける準備をし、今、自動車で僕を病院まで送ってくれているのだ。
こういう時の姉さん程、今の僕にとって心強いものは無かった。いつもふざけているけれど、有事の時は瞬時にスイッチが切り替わる。
だけれど、姉さんの運転はいつもに比べて少々、いや、大分荒っぽく、スピードを上げて、車線変更をしながら効率よく病院への道を進んでいった。いつも学校で『アイスドール』と呼ばれているのは、終始、このスイッチの入っている姿を先生や友達に見せているからなのかもしれない。
実のところ姉さんはまだ、運転免許を取ったばかりなのだけれど、初心者マークの信憑性を疑うくらい、持ち前の動体視力と運動神経で周りの状況を的確に、そして瞬時に判断して走り続ける。
女子大生にしては珍しく、と言ったら偏見かもしれないけれど、車はマニュアル車……ツーシートのスポーツカーだ。姉さん曰く、家族とか友達を乗せるなら、お父さんのミニバンを借りれば良いし、車の助手席には僕しか乗せるつもりがないから、ツーシートあれば十分とのことだった。
『車の中で翔ちゃんとイチャイチャできるなら、オートマの大きい車買うのだけれどね』なんて言っていたけれど、それは僕が全力で阻止したことで今に至る。
左足、左手で自在にクラッチとギアを連携し、身体の一部の様に操る。もちろん、左手はギアに置かれているから、言うまでもなく右手一本でハンドルを操作している。もし僕が免許を取ったとしても、姉さんの車を借りることは絶対に無いだろう。だって僕がマニュアル車を操れるとは到底思えない。
マニュアル車を購入する時に『運転している時、翔ちゃんと手を繋げないのが難点だけれどね』なんて、冗談とも思えないことを言っていたっけ。
「うん……と。病院の駐車場はあそこかな……」
姉さんは病院の最寄りにあるPマークの看板を見つけ、軽快に病院へと入っていく。
「よいしょ……っと。お待たせ翔ちゃん。着いたよ」
病院の駐車場に着き、駐車スペースに鮮やかなテクニックを駆使して背面駐車をする。ルームミラーを確認しただけで、後ろを見ずに一発入庫が完了しサイドブレーキを引きエンジンを止める。
「香ちゃんありがと!」
--ガチャッ
僕は急いで降りる支度をして自動車のドアを開けると、即座に病院内に向けて走った。姉さんも急いで車のドアをロックして僕の後に続く。今まで僕が姉さんを先導することなんて無かったから、姉さんは少し驚いているようだ。
「か、翔ちゃん落ち着いて! 大丈夫だから!」
「祥が……祥が、僕を待ってる!」
院内を走ろうとする僕を制して、落ち着くように促す姉さん。だけれど、今のこの状況で落ち着けと言うのは土台無理な話だ。僕は、腰に縋りつく姉さんを半ば引きずりながら、祥が居ると聞いている三階の手術室前にある待合室に向かった。
--ガチャリ
ドアを開けて中に入ると、祥のお婆さんと、この前、祥の家に行ったときに案内してくれた使用人の女性が居た。きっと僕に電話をくれたのは、この使用人の女性だろう。病院に早く着くことができたのは、姉さんの機転と、使用人の女性がポイントを押さえ短く簡潔に、状況と病院への誘導をしてくれたことに他ならない。
「あ、あの、祥の容態は?!」
「極めて危険な状態です……状況によっては最悪の結果になる場合もあるようです。……紹介が遅れました。私、高倉家の使用人をさせて頂いております『立石蓮花』と申します」
蓮花さんは、この緊急事態にも関わらず、背筋を伸ばし凛とした態度で僕に淡々と説明、自己紹介をしてくれた。年は二十代半ばと言うところだろうか。
蓮花さんの、その姿は、一見冷たい様にも感じるが、使用人としての仕事を全うしているのだと思うと、その真摯な姿勢には敬服するばかりだ。
ただ……極めて危険な状況……でも、いや、うん。祥なら大丈夫だ。大丈夫。僕と違って祥は、いつも鍛えているから生半可なことで屈するヤツではない。
祥には夢があるのだ。『世界を股にかけるギターリスト』この夢を叶えるまでは人生を終えることなんて絶対に無い。当り前じゃないか。
『俺らとバンド一緒にやってみないか?』
『翔くんはバンドに入るよ? 絶対に、ね。仮に断られても追い続けるからな。地球は丸いんだから!』
『翔くんさ、これから俺は君の事、弟って呼ぶことにしたから!』
『むしろ失敗しろ。失敗して人は成長するんだ。その代わり、失敗しても諦めるな。何とか食らいついてこい』
『弟、一緒にロサンゼルス……行かないか?』
祥の言葉が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。祥と会ってから数か月しか経っていないのに、僕の心の中は、祥で満ち溢れていた。
こんな状況になってから祥の存在を再認識するなんて、もっと祥のことを大切にしておけば良かった。
……いや、今からでも遅くない。祥が元気になったら、元気になったら、もっと大切にしよう。祥と過ごす時間を大切にしよう。
僕は両手をグッと握って、祥のことを深く、深く考えた。
--この世に神様が居るのなら、どうか祥を連れて行かないでください
僕は天を仰ぎ、切に願った。
一方、お婆さんの方を向くと、しわしわの手を両手に組んで神に祈っているようだ。手にはしっかり銀のロザリオが握られている。そう言えば、祥の家はクリスチャンであると聞いたような気もする。
--ブーブー……ブーブー……
スマホのバイブ音が部屋の中に鳴り響く。
「はい、高倉でございます」
蓮花さんはポケットからスマホを取り出して電話に出た。目線は伏し目がちだが、でも電話の相手に対して要領よく要件をヒアリングしているようだ。
「ええ……そうです。はい。……ええ。それでお子さんの容態は……はい。目撃者は……なるほど…………とりあえず状況は把握しました。また進展がありましたら、ご連絡をお願いいたします」
--カチャ
数分で話が終わり蓮花さんは、お婆さんの下に歩み寄った。どうやら、今の電話は警察からで状況の連絡があったらしい。
「大奥様……警察から連絡が入りました。どうやら祥さまは道路に飛び出した子供を助けるために交差点に入り、大型トラックにひかれたらしい……とのことです。子供の方は幸いかすり傷程度で、現在警察で保護者と事情聴取をしています」
「おお……神様! なんてことでしょう! かわいそうに……! 祥……! 祥……!」
大粒の涙をボロボロと流して、首を振るお婆さんの両肩を蓮花さんはグッと支える。一見、義務的に見えるその態度は……しかし、同時に温かさでもあった。
「大丈夫ですよ。祥さまなら、きっと大丈夫です。……先ほど旦那様、奥様に状況を連絡いたしましたところすぐに帰国すると仰られていました。今は、祥さまの無事を祈りましょう」
「祥……祥……」
お婆さんは両ひざを床に着き蓮花さんに身を任せ子供の様に泣きじゃくった。大事な孫の一大事に平静を保つことが難しいのだろう。僕にもお婆さんの気持ちが痛いほどわかるし、今、大声を出し狂いたい衝動を抑えるのがやっとだった。
蓮花さんは、お婆さんを椅子に座らせると、僕のほうにコツコツとヒールを鳴らして、ゆっくりと歩いてきた。
「弥勒寺様……お伝えしたいことがございます」
蓮花さんは僕の目を見つめ、ゆっくりと口を開いた。




