第六曲 弘子さんの葛藤
「翔ちゃん……今日の帰り時間ある? ちょっといいかなあ……」
昨日のバンド練習での負い目があるのか弘子さんは申し訳なさそうに恐々と話しかけてきた。
今日は、日曜日。朝からバイトで弘子さんは、今日も僕と同じ時間帯のシフトに入っていた。
弘子さんの目が少し腫れぼったいな……昨日は色々考えて眠れなかったのかな……
昨日の練習でスタジオから弘子さんが先に帰った後に、祥からベースの基本についてレクチャーを受けた。渡された楽譜にはタブ譜がついていてベース弦を押さえる位置、『何弦何フレット』が一目で分かった。
これは、祥が僕のために一音一音拾ってタブ譜に反映してくれたもので、弾き方についても楽譜に赤字でたくさんのコメントが入っていた。これを作るのに相当な手間と時間がかかっているに違いない。
しかも彼はライブ曲の全曲全パートに対しても同じことをやっているのだろう……彼の負担は相当なものだと思うけれど、それを感じさせないのが凄いところだ。
ここまで祥がやってくれるのだから、僕もやらないわけにはいかない。これでテンションが上がる僕も単純だよな。『人を動かすには自分から』と言う名言を祥が証明してくれているようだった。
スタジオでの練習が終わってからも、家で姉に冷やかされながらベースの練習をした。スタジオに入る前と後を比べると何となく次のライブへのゴールが見えてきて、ほんのちょっぴり気が楽になったと言うのが正直なところだ。
祥から受け取った楽譜の中には、Ba1、Ba2とパートの割り振りがあって、これはバンドの中にベースシストが2人いることを表している。Ba1がメロディライン、Ba2がベースライン。僕はBa2を担当する。
祥は僕のリズム感を買ってくれているから、ベースラインの演奏を担当するってことらしい。まあ、Ba1のメロディラインをやってくれと言われたところで出来ないと思うけれど……
「構わないですよ」
僕は弘子さんのお願いを快く承諾した。きっと昨日の弘子さんツインベース参入の件だろう。もし、違うとしても状況は聞きたいところだ。
「ありがとう! あ、それと出来れば祥君も誘って欲しいのだけれど……」
「あ……ああ! もちろんです! 少し待ってください」
言いにくそうな弘子さんだったけれど、僕にとっては願ってもない話だった。これはもうブリドリ加入の相談で決まりだな。僕は急いで外に出て祥に電話した。
ぴっぴっ……とぅるる~……カチャ
『もしもし……祥? 今日の夜時間ある? 弘子さんから誘われたのだけれどどうかな』
『行く!』
二つ返事かよ。わかりやすいな。祥に場所と時間を告げて電話を切った。
「弘子さん。祥、即答で来るって言ってましたよ」
「はあ! 良かった~翔ちゃんありがとう!」
弘子さん的には『まずは、第一段階通過』と言ったところかな。祥も『なる早で回答ください』的なことを言っていたから昨日の夜寝ないで考えたのだろうな。
弘子さんの顔が一瞬晴れたものの、すぐに表情が曇ってしまった。これは想像だけれど、やはり『女神(MEGAMI)』の先輩メンバーが心に引っかかっているのではないかな……早く解決して欲しいものだ。ブリドリに入るにしても、入らないにしても……お互いのために中途半端な状態が続くのが一番良くない。
バイトが終わり、以前、弘子さんに相談に乗ってもらったファミレスで祥と待ち合わせ。店について中を見回すと既に祥は店に入っていて、一人でホットコーヒーを飲んでいた。
周りの客が『ブリドリの祥じゃない?』、『握手してくれないかな』とコソコソ話しているのが聞こえる。やはり有名人なのだな。
「祥君! 待った? ごめんね」
「全然。来たばかりです。大丈夫ですよ」
祥は4人掛けのテーブルに座っていて、俺を隣に、弘子さんを向かいの席に誘導した。これは自然な流れなのだけれど、いつ手を握って来るのかとヒヤヒヤする。
「白旗さん。腹は決まりましたか?」
いきなり祥が核心に迫る。来たばかりなんだから少し雑談して、お互いにリラックスしてから本題に入れば良いのに。本当、直球だなあ……
「う、うん……」
緊張しているのか、弘子さんは、うつむいて少し震えている。
「白旗さん! 自分のことです。自信を持って言ってください。どんな結論を出ても俺は反論するつもりは無いし、応援しますよ。諦めるかは別として」
祥は冗談交じりに笑う。しかし、それは聞いた側に取っては、とても頼りになる心強い言葉だった。弘子さんは、祥の言葉を聞いて、顔を上げ、祥の目を見つめた。その時の彼女の瞳は、少し潤んで、濡れたガラス玉のようにキラキラと光っていた……
「うん。そうだね。ありがとう祥君」
「僕は、まだ何もしていないですよ。白旗さんの気持ちを教えてください」
祥の言葉に、弘子さんは頷いて意を決したかのように、ゆっくりと話した。
「久しぶりにスタジオでベースを弾いているとき、『時が止まればいいのに』って思ってた。スタジオに入るまではベースを弾かない生活でも全然平気だったのに、実際に弾き始めたら、違う感情が込み上げてきて押さえられなくなってきたの……」
「はい。それでどうしました?」
祥は優しい笑顔で弘子さんを見つめる。
「それで、それから、考えて考えて、たくさん考えて、もう逃げないことに決めた」
「逃げない……どう言うことですか? 具体的に教えてくれますか?」
弘子さんは、一回深く息を吸って深呼吸をした。そして、再び覚悟を決め、小さな声で恥ずかしそうに呟いた。
「次のライブに私も出して欲しい……」
弘子さんは祥から目を逸らし、うつむき、顔を赤らめている。
やったー! 弘子さんが仲間になってくれるんだ!
テーブルの下で祥が僕の手をギュッと握った。弘子さんがバンドに入る嬉しさもあって、思わず祥の手を握り返した。祥は意外そうに僕の顔を見て、でも嬉しそうに優しく微笑んだ。
「歓迎します白旗さん。ところで、俺の助けは必要……ですよね……?」
「う、うん。申し訳ないのだけれど『女神(MEGAMI)』のメンバーに話をする時に協力して欲しいの」
「はい! よろこんで!」
祥は冗談交じりに、どこかの居酒屋みたいな掛け声で弘子さんの要望に応えて見せる。おどけた祥の姿に緊張が解けた様で、シャボン玉が弾けたように口に手を当てて微笑む弘子さんの姿は、1枚の絵のようで、儚くて、とても綺麗だった。




