第五曲 しがらみ
祥は弘子さんからブリドリ参画に対する返答を待った。
弘子さんは子供の様にうつむいてベースを両手でぎゅっと抱きしめ考えている。これから発する一言で自分の人生が全て決まってしまうかのように。
これからの『女神(MEGAMI)』が自分自身の一言によって決まってしまうかのように……
だけれど。だけど弘子さんは意を決したように笑った。
「うん。出来ないよ。私は『女神(MEGAMI)』で、たった1人のベーシストだもの」
「白旗さんが高校卒業するまで『女神(MEGAMI)』のバンド活動が休止されても?」
「うん」
「『女神(MEGAMI)』が休止状態のまま解散しても?」
「うん」
ハッキリと強い言葉で答える弘子さんの意志は固いようだ。
この責任感はどこからくるのだろう……今度は祥が両腕を組んで天を仰いで考えてしまった。ついさっきまでセッションで盛り上がっていた空気が一気に固まってしまい全員立ち尽くしている。
誰一人言葉を発することが出来なくなってしまった。
「さあ……練習の続きしよ!」
弘子さんは場の空気を変えようとポンと手を叩き誰にでも感じ取れる作り笑いをした。
自分のことより皆に対して練習するように促す健気な気使いが余計に同情を誘う。何故そこまで『女神(MEGAMI)』に執着するのか、自分の思いをぶつけることの出来ないバンドに何の未練があるのか、僕には理解出来ない。
弘子さんから練習を促されたメンバーだったが固い固いゴツゴツとした岩の様に誰一人動こうとしなかった。きっと気持ちは皆一緒で納得がいかないのだろう。
弘子さんとバンドが組みたいのだろう。ベース大好きな弘子さんがバンド活動を行わないことが惜しいのだろう。
それは僕も一緒の気持ちだ。ここで話を終わらせたくない。皆が幸せになる結論を出したい……誰一人、女神(MEGAMI)の先輩メンバーを含めて、誰一人不幸となることのないように……
「ひろぽん。ちょっと聞いて良いですか?」
理津美が、授業中先生に質問するかのように、そっと手を挙げて弘子さんに声を掛けた。メンバーの中で弘子さんと一番仲の良い理津美にとって、弘子さんの行く末は非常に重大な問題なのだろう。
今までだって、バンド活動を休止している弘子さんのことを気にしていたし、今回、祥からブリドリ参加の提案があったことは理津美にとって渡りに船と言うことだったのではないかな。
折角のチャンスを潰すことなんて出来ないと、いつも以上に厳しい目を弘子さんに向けた。こういう時の理津美はとても心強い。
「ん? りっちゃんどうしたの?」
「私は、ひろぽんがバンド活動しないことに納得いかない。ベースが大好きで、むしろベースを愛していて、才能もあって、テクニックもあって、きっと家では毎日毎日長い時間ベースを弾いているのに、高校時代の一番大事な時期を捨ててしまおうとしていることに納得がいかない。私たちだけじゃなくてファン達も、ひろぽんの音を首を長くして待ってるんだよ!」
「りっちゃん……」
弘子さんは、皆から見えない角度に振り返り、うつむいて顔を隠した。僕の場所からは弘子さんの顔を見ることができないけれど、きっと泣いてしまっているのだろう。真っすぐな理津美の気持ちに打たれて、思わず涙がこぼれてしまっているのではないだろうか。
理津美の目からもポロポロと涙がこぼれている。涙を隠そうとせず弘子さんのことを穴が開くくらいに真っすぐに見つめ、自分の思いが如何に真剣であるかを彼女に訴えることが使命であると言うかのように。
「このままじゃ私も引っ込みがつかないよ。ひろぽんが『女神(MEGAMI)』の先輩メンバーに負い目を感じるのはわかるよ。わかってるよ。でも自分のことも考えて欲しい。このままじゃひろぽんの高校生活が終わってしまうよ」
「りっちゃんの気持ちは嬉しいけれど、私は『女神(MEGAMI)』のベーシストじゃなきゃいけないの。無名の素人の私を拾って育ててくれたのは先輩達なの。彼女たちが居なかったら今の私は存在しない。私は先輩たちにお返ししなきゃいけないの。お願い。わかって……」
弘子さんは、顔を上げることなく、うつむいたまま理津美に懇願した。断る弘子さんも辛いだろう……
彼女の言動から、女神(MEGAMI)のベーシストであることが自分の義務であると言い聞かせているように感じた。でも、さっきの演奏でベースを弾いている時の暖かく眩しい太陽の輝きのような笑顔を見たら彼女からライブを取り上げてしまうのは酷だと思う。いつまでもスタジオだけのベーシストでいるような人では無い。
理津美も諦め切れない様子で、頭の中の引き出しを開けまくり弘子さんのことを説得する言葉を探しているようだった。
「ひろぽんはさ? 先輩たちの気持ちを考えたことがある?」
「……え?」
「先輩たちも、自分たちが受験で女神(MEGAMI)の休止している中、ひろぽんがライブを我慢している状況を『良し』と考えていると思う?」
「考えたことない……」
「ずっとバンドを組んできたメンバーだもの。ひろぽんの気持ちはわかってくれるんじゃないかな」
「わからない! わからないよ!」
苦しそうにもだえ頭を抱えてうずくまってしまった。こんな弘子さんを見るのは初めてだ。きっと理津美の気持ちは十分に伝わっているのだろうが、自分の性分から期待に応えることが出来なくて身が裂けるような苦しみを感じているように見える。
これ以上の言葉は、弘子さんを追い詰めることにしかならないように感じた。理津美も何か言いたそうな雰囲気を出してはいたが、殻の中に閉じ籠ったようにうずくまる弘子さんに掛ける言葉が見つからないようだった。
膠着状態が続く中、祥は持っていたベースをベーススタンドに置いて弘子さんに近寄って背中を人差し指で突っついた。弘子さんは、ゆっくりと顔を上げた。また、頬にポツリと涙が流れている。
「白旗さん? もっとシンプルに考えましょう」
「どう言うこと?」
「俺たちだって、首に縄をつけて白旗さんのことをブリドリに引っ張ろうとしている訳じゃないですよ。白旗さんが自分からブリドリに入りたいって思ってくれなければ、俺たちだって嫌ですよ。だから今回は諦めます」
「うん。ありがとう。祥君ごめんね」
「いえ。とんでもないです。もし良かったら、次のライブにゲストとして協力してもらえませんか? 必要だったら先輩メンバーさん達に俺から話をします。むしろ話をさせて欲しい」
祥は弘子さんを誠意のある優しい目で真っすぐ見つめた。この場合、妥協と言う表現が正しいのかわからないけれど、ブリドリ参画から一歩引いたゲスト参加での交渉だったら、弘子さんも少しは受けやすいのではないかな。
それに祥から女神(MEGAMI)の先輩メンバー達に話をしてくれると言うのは絶大な効果がありそうだ。超有名バンドのブリドリ祥から話があれば先輩たちだって門前払いはできないだろう。先輩たちへの交渉がうまくいけば、弘子さんのブリドリ参画への後押しをしてくれるかもしれない。
弘子さんは祥からの妥協案を聞いて立ち上がり、鼻をすすりながら口に手を当てて考えている。すぐに否定しないところを見ると前向きな答えが返ってくるのでは無いかと期待してしまう。
「祥君。ありがとう。でも少し考えさせてくれるかな……了承するにしても、断るにしても、今の不安定な精神状態で答えないほうが良いと思うの。ごめんね」
「わかりました。でもライブまで日が無いので、『なる早』でお願いしますね」
「うん。わかった。今日は帰るね……誘ってくれてありがとう。楽しかった」
ベースをケースに仕舞って荷物を纏め、誰のことを見ることもなくスタジオを後にした。誰かのことを見てしまうと決心が鈍ってしまうと言っているかのように早足で去っていった。
心ここにあらずと言う感じだったけれど、それもしょうがないよな。バンドをやりたい気持ちと先輩のことを裏切りたくないという気持ちがグチャグチャになって整理がつかない状態だろう……そもそも何の前触れもなくバンドに誘われたのだから混乱するなと言う方がおかしい話だ。
「さ、て、と! 弟! 美人先生が居なくなってしまったから、代わりに俺がレクチャーするよ~ん」
場の空気を変えるように祥がポンと大きく手を叩いて僕の頭をクシャっと撫でて肩に手を回した。まだ会って数日と言うのに本当馴れ馴れしい。
周りの皆には祥からのスキンシップが羨ましいと言われるけれど、やられる方としては、たまったものではない。祥が抱き着いてくるたびにドキドキしてしまう自分に戸惑っている。きっと祥だって、困惑している僕を見るのが楽しくて、からかっているだけなんだ。
「や、やめろって! 教えてくれるなら早くしてよ。時間無いんだろ?」
「はいはい。わかりましたよ弟君」
わざと強めに手を振り払うと祥はいたずらっ子のように笑った。何か僕が困っている顔を見るのが、そんなに楽しいのかな……祥に触れられるたびに心臓がドキドキ苦しくなる。心のどこかで彼に触れられることを待っているのかもしれない。
……いやいや僕は何を思っているんだ。ちゃんとしなきゃ。勢いよく頭を左右に振って平常心を取り戻そうと努力した。




