第三曲 ベースの先生
店舗の奥、突き当りの黄色い鉄扉に大きく「A」の文字表記がある。ここがAスタか。重厚な雰囲気に早くも圧倒されているのが自分でもわかる。
店舗からここまで歩いてきてAスタの他にB、C、D、Eの扉が見えた。全部で5つのスタジオがあるってことかな。一番先頭を歩いていた祥がAスタの扉を開ける。
ギィー……
ゆっくりと鉄扉が開く。部屋は防音だろうから扉が重くなっているのだろう。祥が開けた扉の隙間から室内を覗き込んだ。
「おお! 早いね。ちびちゃん達」
「やっほー祥くん!」
「ちびなんて酷い!」
「チビとか言わないでくれる? 殴るよ?」
祥に続いて僕も部屋に入ると、チビトリオがパイプ椅子に並んで座って待っていた。それにしても祥からの呼びかけの答え方に3人それぞれ個性があって面白いな。スタジオの中はとても広くて、8人が入っても、まだまだ余裕がある感じだ。
中にはドラムセット、キーボード、スピーカー……じゃなくてアンプって言うんだっけ……あとマイクスタンドが設置されている。かっこいいなあ……バンドやっている人は、こう言うところで練習していたのか。
「あ~! ひろぽんだ~!!」
珍しく理津美がはしゃいで弘子さんに飛びついた。いつものクールキャラが嘘のようだ。弘子さんは飛びついてきた理津美の頭をヨシヨシと撫でている。
「理っちゃん。弘子さんと仲良いの?」
「仲良いとか軽い表現使わないでくれるかな。ひろぽんは私の師匠なのだから!」
僕に対しての対応の厳しさは変わらないのだな。弘子さんに抱き着きながら僕に毒づいている。人にとってキャラを使い分けるとは全く酷い話だ。祥が僕らのやり取りを見て微笑み手をポンと叩いた。
「さ、て、と。じゃあ、まずは新メンバーの弟君にベースを授けよう。拓人持ってくれてありがとう」
「あいよ~! 弟ちゃん。ほいっ」
ボーカルの拓人は楽器を弾くことが無いのにギターケースを担いでいたことを不思議に思っていたのだ。それは祥のベースだったのか。
ベースを自分自身で用意しなければいけないかもとドキドキしていたけれど、ちゃんと祥は考えてくれていたみたいだ。
「ありがとう! 開けていいかな?」
「もちろんだ。俺が前に使っていたものだけれど最近使っていないから弟が使ってくれたらベースも喜ぶよ」
ワクワクしながらギターケースからベースを取り出す。子供がクリスマスプレゼントをもらった時のような感覚だ。ベースを持った印象は『でかい、重い』の一言だった。
弘子さんのベースを見せてもらった時も思ったが大きくて重いな。持つだけでも大変そうだ。
ベースの色は本体のふち周りが黒くて中央にいくにしたがって3段階で色が薄く、茶色にむかってグラデーションになっていた。かっこいいなあ……ベースに見惚れている僕に祥が解説してくれる。
「そいつはFONDERと言う楽器メーカーのジャズベース。色は見た通り3カラーサンバーストで飽きのこない色だと思う。初心者からプロまで幅広く使われているベースだよ。」
「へえ……かっこいいな」
「翔ちゃん、見せて見せて~」
弘子さんが後ろから覗き込んだ。ベースを見る弘子さんは仕事中と違って本当に嬉しそうだ。ベースを手に取って上から下まで隈なく眺めている。
「へえ~ジャズベかあ……このベース高いよ絶対。10万オーバーは堅いんじゃない?ピック弾き? それとも指弾き?」
「安くはないけれど値段は内緒です。弟には基本指2本弾きでやってもらうつもりです。白旗さんも指弾きですしね。先生と一緒のスタンスの方が教えやすいですよね。」
「先生……そっか……うん。そうだね。教えやすいね。翔ちゃんを私色に染めちゃっていいのかな?」
「はい。煮るなり焼くなり好きにしちゃってください。早速で申し訳ないですけどベースのチューニングからいいですか?」
「OKだよ。よろこんで」
祥は弘子さんに僕のベース教師をやることについて承諾することを前提に話をしていた。弘子さんが祥の言葉に反論しなかったことが了承したってことなのだろう。
僕は2人が外国語を話しているみたいで何を話しているか全然意味が分からなかったけれど、弘子さんが教えてくれると言うことだけは分かった。
……と、言うことは弘子さんが毎回練習に付き合ってくれるってことなのかな。ベースを教えてくれる時に優しい弘子さん性格が変わって怖くなるとかないよな。
祥は僕のことを弘子さんに任せると、同じく新規メンバーの理津美に既にセッティングされているキーボードを使って練習をするように促した。
理津美は鞄から楽譜を譜面台にセットして準備に入る……理津美はいいよな。経験者だし楽譜も読めるだろうからスグに弾けるようになってしまうのだろうなあ。
何となく理津美の方を眺めていたら、弘子さんは僕の方を向いて、ニッコリと微笑んで声をかけた。
「じゃあ、翔ちゃん。チューニングしようか。」
「チューニング?」
「ベースを使う前に音程がずれていないか確認するの。ヘッドにあるペグを回しながら弦のテンションを調整して正しい音程に合わせる。音程の合わせ方は色々あるけど初心者としては、このチューナーを使ったチューニングが簡単だよ。」
「あの……たくさん専門用語が出てきて良くわからないんだけど……」
「ごめんごめん。じゃあ、説明するより、まずはやってみようか。ほら、ベース持ってて。」
弘子さんは自分のギターケースから長方形の箱型の機械とコードを出した。機械には自動車の速度メーターのようなものが付いていて、僕の持っているベースにコードを取り付けて繋いだ。弘子さんは鼻歌を歌いながら流れる様に上機嫌でセッティングを行っている。
「よし。準備完了! 1弦ずつ音程を合わせていくよ。見てわかるとおりベースにある4弦の太さは、段々太くなっていっていて一番細い弦を1弦と呼ぶの。それで太くなるにつれて2、3、4弦になるんだよ。」
「本当だ! 弦が少しずつ太くなっているね」
「で、まずは一番太い4弦からチューニングしようか。この機械は『チューナー』と言って、メーターとE、A、D、Gの文字の下に4つのLEDランプがついているのわかる?まずは4弦を指で弾きながら上のほうにあるネジみたいなやつ、ペグって言うんだけど少しずつ締めていって音程を合わせていこう。まずはチューナーのEランプがつくまでペグを締めてね。4弦は一番下のペグだよ。で、右手の人差し指と中指で順番に4弦を弾いてね。」
「う、うん……」
弘子さんはジェスチャーでベースのチューニングをするポーズを示してくれた。弘子さんの動作に合わせて俺もゆっくりとペグを回していく。って、何回転も回しているのに全然ランプがつかないな。機械壊れてないか……?
弘子さんから特に何も言われないから、まだなのだろう。それとも初めての経験だから時間が長く感じているだけかな?それに左手で回しながら右手で弦を指2本弾くのも大変だ。
ペグを何回か回していくと、やっとチューナーのEランプが点灯した。
「ついた!」
「よーし! 本番はここからね。次はメーターの針が0にあうように微調整しよう。0の左に針がある場合は、弦が緩いからペグを締めて、針が0より右にきたら、締めすぎだから緩めよう。」
「え? まだ終わらないの? 結構手間がかかるんだね」
「もう少しだよ! 慣れたらスグにできるようになるよ」
「そんなもんかなあ……あ! 針が右に振れた! 今度は左! 中々難しいなあ……でも面白いね」
うわあ! すごいすごい!
ただの四角い箱なのに音階をチェックすることが出来るのか。これは初心者の強い味方だな。
これだったら、慣れたら1人でも出来そうだ。
「何か懐かしいなあ……翔ちゃん見ているとバンドを始めた時のことを思い出すよ。じゃあ、私もチューニングしようかな」
「え? 僕、弘子さんのチューナー使ってるんじゃない? 時間かかりそうだし返すから先にチューニングしていいよ」
「ああ……私チューナー使わないから大丈夫だよ」
「どういうこと?」
「音を聞いたら音階わかるから」
すごい。ベースを弾いただけで音階がわかるのか。憧れるなあ……僕の隣で弘子さんは楽しそうにチューニングを始めた。
そして、理津美と話していた祥は、一段落ついたのか僕らの方にやってきた。
「白旗さん。どうですか~?」
「問題ないよ~順調順調!」
弘子さんは祥からの問いにチューニングしながら答えた。話しながらでもチューニングできるとか凄すぎるな。
「ところで白旗さん。一緒にバンドやりません? ブリドリのメンバーとして」
「ふぇっ?!」
どぅいーん……!
動揺した弘子さんによって、ベースのペグが一気に締められた。




