005.日常の崩壊2
予告通り投稿いたしました。
表情は窺えない。
その人物はゆったりとした足取りで、司書との距離を詰めていく。
両者の距離が五メートルにも満たないものになると、司書は、はっと息を呑んだ。
司書の黒に近い茶髪とは対象的な白に近い金髪。
それが彼の知る人物と非常に似ていたためである。
背中を汗がしたたり落ちる。
外の空気は冷え切っているというのに、司書の体は燃えるほど熱くなっていた。
たまたまここを通りがかっただけであってほしい。
司書は深く外套に顔を埋め、願った。
距離が三、二、一……と縮まっていく。時間がゆっくりと流れて気がする。一秒が何時間に感じられる。胸は尋常ではないくらい脈を打つ。向かってくる足音も、やけに澄んだものとして耳に入ってくる。
ついに司書との距離が〇になった。
しかし、その人物は司書に何かを言うわけでもなく、何をしてくるわけでもなかった。
少しずつ足音が遠ざかっていく。
司書はほっ、と胸を撫で下ろそうとする──が、その人物が何かを呟くのが聞こえ、司書は再度、ピンと緊張の糸を張った。
瞬時、司書の足元から白い四本の腕が伸びてくる。それを飛び上がり、回避。そして空中で回ると、攻撃をしかけてきた人物の方を向くように着地した。
白い手は司書を掴もうとまだ空を掻いている。やがて、ぴたりとその動きが止まった。
司書と彼と対峙している人物の間にある白い四本の腕。
これから始まる戦いに気づくのは誰もいなかった。
人々は笑い声に溢れ、酒をあおっている。
風が吹き抜け、砂塵を巻き上げる。
数十秒の沈黙。
先に動いたのは、司書の前にいる人物だった。
「起きろ、ミカエル」
その低い声に反応して、再び白い腕が動き始める。白い腕がさらに伸び、手が建物の外壁を掻く。
外壁が削れ、パラパラと破片が落ちる。
ズズズと音をたて、地面から異形の輪郭が現れた。
四本の腕を持ち、左の二手には光る円盤、右の二手には棍棒を携えていた。全貌を現したいま、その大きさは司書をかるく上回る。しかし、顔のつくりは人そのもので、ミカエルを出現させた人物と同じ碧眼を宿していた。
魔術師と契約した霊──使霊。
使霊であるミカエルは予備動作もなく、司書の背後をとり、掴んだ。そして、上空に放り投げると、投げられた司書のもとまで一瞬で移動する。完全に不意をつかれた司書は何も出来ない。小さく口元を動かして、何かを呟いた──ようにも見えた。
ミカエルの棍棒が、司書の腹に振り落とされる。あまりの痛みと衝撃で、呼吸ができなかった。
地上に叩き落とされた司書の身体は跳ねる。
「ぐはっ」
嗚咽と共に、司書は胃酸をぶちまけた。
彼が落ちたのは、人気のない広場。
幸か不幸か彼の墜落に気付く者はいなかった。
よろよろと司書は立ち上がる。あれだけ威力のある攻撃を受けておきながら、彼の骨は一本も折れていなかった。ただ、吐く息は荒い。
地に手をつき、呼吸を整える。
油断した、完全に。自分を攻撃しないわけがないのだ、彼が。
ドスン、と音がし、地が揺れる。恐らく彼の使霊が着地したのだろう。それに遅れて、司書の耳に声が入ってくる。
「アルマさん、弱くなりましたね」
顔を上げ、司書ことアルマは苦笑を浮かべた。
「お前が強くなっただけじゃないのか、ルーン。それにしてもまさかお前に会うとはな。つけていたのか?」
「たまたまですよ。いつも私が利用する道を貴方が利用しただけです」
「偶然が生み出した戦闘というわけか。いや、偶然じゃなくて必然かもしれないな、これは。白魔術師に背いた俺に対しての。なんだ? 俺を殺せとでも命令されたのか?」
「そうです」
ルーンは、碧眼がぎらつかせ、
「──だから私は貴方を殺します」
ミカエルがゆっくりと迫ってくる。
やるしかないのか。
いやでも戦わなければいけない現実に呆れながらも、アルマは自らの持つ使霊の名を唱える。
「ケルブ……俺に力を貸してくれ」
地面に丸い線が描かれ、そこから光が放出される。光の中から背中に翼を生やした美形な人が現れた。
翼の長さは一メートルはあろう。
身体には薄い甲冑を纏っていて、肩に橙色の絹をかけている。右手に持つ剣は黄金色に光り輝いていた。
ミカエルが消え、次の瞬間にはケルブの額に棍棒を叩きつけていた。とてつもない轟音が生まれ、衝撃波がアルマとルーンを揺らした。
だが、ケルブは微動だにしない。表情も崩さず、荘厳な雰囲気を漂わせていた。
ケルブは硬い。先ほどアルマの骨が一本も折れなかったのは、その加護によるものだ。ミカエルによって上空に飛ばされた際、アルマは呪文を唱え、身体を硬くしていた。それでもかなりの痛みを受けてしまったのは、やはりミカエルの攻撃が強かったからだ。
ケルブは右手を掲げ、ミカエルめがけ振り下ろす。しかし、遅い。ミカエルはそれを華麗にかわす。だが、かわしきれていなかった。ケルブが攻撃してから五秒。ようやくルーンはその異変に気づいた。
ミカエルの左上の腕が滑るように地面に落ち、光となって消えた。
直後、断末魔のような声が響いた。
音源はミカエルからだった。
速度が遅いように思われたケルブの攻撃は、残像であった。攻撃するときにぶらすことで、残像を発生させる。ただ、それにはとてつもない速度を要す。ミカエルも速いが、ケルブの速度にはかなわないだろう。
ルーンの額に玉のような汗がうかぶ。
「ははっ、やっと本気ってことですかアルマさん?」
「出来れば出したくはないんだけどね」
アルマは、うすら笑いをする。
どうしてルーンと戦わければならないのか、アルマは疑問に感じていた。自分が白魔術師から背いたとは言ったが、間違ったことはしたつもりはない、そう思っているのだ。
「さっさと勝負をつけさせてもらおうか」
アルマの声に応じて、ケルブが動く。左手から赤く燃える炎を出し、ミカエルめがけて投げつけた。ケルブの目の前が一瞬にして火の海に染まる。が、その海はミカエルが左手から投げた円盤によって消え去った。
アルマは意識を集中させ、ケルブで円盤を掴む。しかしミカエルは投げたと同時に、一気にケルブと距離を詰めた。
まず右上にある棍棒で、ケルブの剣を防ぎ、そこから右下にある棍棒で、脇目がけて叩きつけた。一回で終わらずに何度も何度も。
ケルブは左手で応戦しようとする。しかし、それはミカエルの左下の腕であっけなく防がれた。
なら──とアルマは思案を巡らす。無理だとは思いつつも、ケルブを使いミカエルに蹴りを入れる。あっさりと受け止められてしまう。
──だが、アルマの表情は逆に軽いものになっていた。
ケルブの足から木の根のようなものが生えてきて、ミカエルに絡みついた。
攻撃を止め、それを切る。しかし、切れども切れども、生えてくる。
ケルブは翼を羽ばたかせ、離陸した。
夜空に舞い上がったケルブは、どんどんアルマとルーンから離れていく。ある一定の距離まで空に向かって進んでいくと、ミカエルは消失した。
それが、ルーンの魔法が及ぶ範囲であることを指していた。
ルーンの表情に苦渋の色が表れる。
作戦は成功した。単なる一時しのぎに過ぎないが、再びミカエルを召喚するのには時間がかかる。その間に……。
「神に似たるものよ悪を裁く剣となれ!」
アルマが呪文を唱えると、ミカエルは霧散する。アルマの手元には剣が携えられていた。
柄の部は橙色、鍔はケルブの両翼を収縮したような形、剣身は黄金色に輝いている。肉弾戦に持ち込もうとアルマは考えていた。
身体を屈め、ルーンに斬りかかる。ただ、アルマにとって肉弾戦とはどちらかというと苦手の部類に入っていた。
ひょっとすると、負けるかもしれないな……。
『敗北』の二文字が脳内を駆けずり回る。
なにを俺は、馬鹿なことを考えているんだ。
考えを一蹴し、ルーンへと意識を向ける。殺さなければ殺される、そんな状況に迷いが生まれるのはダメだ。生まれた時点でそこが隙となり、形勢が逆転するなんてよくあること。
だから俺は。
俺は……。
アルマはがくりと膝を落とした。
剣が急に重さを増したように感じる。手は信じられないくらいに震えていた。
どうしたんだ俺は。
自分でも理解できない自身の状態にアルマは愕然とした。
動け……。動け。動け、動け動け動け!
必死に自己を鼓舞するが、まるで、精神と肉体がつながってないみたいに、身体は言うことをきかなかった。ついにアルマは手元から剣を落とした。
ドサという重い響きを帯びて。
「え?」
信じられない出来事にアルマは声を漏らした。すぐさま剣を拾うが、足が笑って前に進もうとしない。
おかしいだろ? 俺ならいけるはずだろ?
肉弾戦が苦手であるといっても並の人よりアルマは強かった。それはルーンが相手でも同じことがいえる。実力ではルーンより勝っているのだ。アルマは。よって、彼に『敗北』なんて考え自体出てくることがおかしいのだ。
故に彼は、ルーンとは別の何かに『敗北』を感じていたということになる。
すたすたとアルマの下に向かってくる足音。
無論、ルーンのものであった。
ルーンは腰に隠してあった短刀を取り出し、アルマへとつきつける。
「アルマさん、貴方の負けです」
誤字脱字等ありましたら感想にて教えていただければ幸いです。