001.日常
魔歴、121年。
春、夏、秋、冬と目まぐるしい速さで変わっていき、ルーシーはあの時から十一度目の冬を迎えようとしていた。
風が吹くと、丸裸になった木々はさわさわと揺れる。
真冬の風はまるで刃のようだった。鋭く、冷え冷えと乾いていてルーシーの白い肌を刺激する。
彼女は空を見上げた。
すると、はら、はらと白い雪が一つ、二つ。眠るように、静かに、ルーシーの頭から生えた毛皮の耳にへと落ちる。雪は彼女の体温で溶け、染み入ってくる冷たさが耳をピンと立てさせた。そして、にっこりと笑う。
「雪だ! また雪が降ってくる!」
彼女はおだやかに降り始めた白く冷たい結晶に喜び、飛び跳ねた。跳ねるのを止めると、雄叫びを上げ、この光景を祝った。これは別に今日始まったことではない。毎日のように起きている出来事だ。
その証拠に、木々に囲まれているこの山一面は真っ白に染まっている。それでも彼女は喜んだ。
ルーシーは足跡を残しながら、真っ白の大地を駆け抜ける。彼女の左右に分けた三つ編みが揺れた。しばらくして、一度大きく跳躍。ルーシーはそのまま自由落下し、雪にダイブした。彼女はこの遊びが大好きなのだ。
雪に埋まった顔を抜き出すと、気持良さそうな笑みを浮かべる。
「あはは! ルーシー、楽しい!」
また駆け出すと、派手に転んで、仰向けになった。肩で息をして、黒に塗りつぶされた空を見つめる。
きょうもででこないんだね。
ルーシーは黒目がちの星屑をちりばめたような一双の明眸を残念そうに伏せた。
「どうして月は見えないの?」
と、独りごちるルーシーに小柄な影が落ちた。
「こんな季節だからな。雲が隠しちまってるんだろう。でもルーシーは雪が好きなんだろ?」
「うん! つめたくてーふわふわでーすっごくすっごくすきなんだぁ」
「そうかそうか。ならいいんじゃないのか?」
「そうだね! カイトがいうならルーシーもそう思えてきた!」
本来、感情などあるはずのない可愛らしい熊の人形、カイト。
左目には黒の眼帯、首には橙色のマフラーを巻いている。
「じゃあ月が出てこなくても平気か?」
カイトは少し声音を下げて言った。
純白の雪が、泣くようにルーシーの髪に落ちて、消えた。ルーシーは答えることができなかった。元気よく立っていた毛皮の耳もすっかりしおれてしまっている。
そんなルーシーの周りを取り囲む樹木が仄かに発光し、夜闇に明かりを生み出していた。
「なぁルーシー知ってるか?」
「ん? なにが?」
しばらく黙っていたカイトに唐突な問いを投げかけられ、ルーシーは首を傾げた。意味が分からないとでも言いた気に。しかし、カイトは言葉を続ける。
「世界にはな、信用してはいけないものが二つあるんだ。一つは絆。もう一つは人の言葉。別にアイツが悪いって言ってるわけじゃねぇ。世界がそうなっているんだ」
「ふぅん」
ルーシーはやはり意味が分からず、視線の先を天然の絨毯へとやった。
ふかふかして気持ちいい。触れると冷たいが、どこか温もりがある。
母親の胎内にいるような、あの人に抱き締められているような感覚にルーシーは襲われた。
瞼がとろんとしてきて、今にもここで寝てしまいそうである。
先ほどのカイトの言葉にあったアイツとは、ルーシーの主人。──人である。
ルーシーの主人は、皆から「司書さん」と呼ばれていた。本当の名前は別にあるのだが、それは職業に起因するものが大きい。
司書とは、書物を特定の場所に保管する職業である。重要書物も多く取り扱うことができるため、社会的地位はかなり上といっていい。
ただ、ルーシーの主人は他の司書とはちがっていた。
彼は、己に備わっている魔法という力を知覚した魔術師なのである。
カイトが動けているのもこの司書の力によるものだ。
しかし、釈然としない気持ちをカイトは表情にたたえていた。
「確かに俺がこうしていられるのはアイツのおかげだ。だがな、そのせいで見たくねぇものや聞きたくねぇものを沢山経験しちまった。できることなら、俺は人形のままが良かったんだ」
言葉は、鋭い刃物となって空気を震わせ、虚空へと静かに溶けていく。
彼の眼からは、涙が流れないが、悲壮観漂う表情を顔に貼り付けていた。
不意にルーシーの耳にザクッ、ザクッ、と雪を踏みつける音が届いた。音に反応して、反射的にビクリと犬耳のような耳が震える。期待が内心から溢れ出し、ルーシーからは嬉々とした表情が窺える。
また、思わず撫でたくなる毛並をした尻尾をしきりに上下に振っていた。
◇◇◇
ようやく家へとたどり着く。
黒い外套を身に纏った青年は白い息を洩らし、帰路へと向かっていた。彼の家は人里離れた山奥にある。街からはかなり距離はあるが、慣れてしまえばなんてことはない。
青年は長身のわりには痩身であった。しかし、ただ痩せているというわけではなく、肉は引き締まっていて無駄がない。足取りもどこか力強さを感じさせる。
薄暗い、光る木々の明かりだけが頼りの道を青年は歩いていく。
すると、彼はほの暗い闇の中に、人影のようなものを見つけた。
次第におぼろげだった輪郭は濃くなっていき、その姿が誰であるか認識させる。
青年は精悍とした表情を崩した。
「ルーシー見つけた」
「司書さぁぁぁぁぁん!!」
ルーシーは司書のもとに走っていき、抱きついた。ただし勢いがよすぎたため、ルーシーが司書を押し倒す形となった。その反動で、カイトはルーシーから振り落とされる。
愚痴を喚いて、カイトは気に食わない表情を司書へと向けた。
ルーシーはカイトなど気にも留めずに、司書の頬を舐める。
びくりと身体が反応する。
だが、表情にはださない。何かが変わってしまうような気がするからだ。
司書はごまかすかのように、外に向かってはねた銀色の髪を撫でやる。
嬉しそうにルーシーは瞼を下ろした。
しばらくすると、司書から身体を離し、雪をすくう。すくったものを丸くして、ルーシーは自分の前にやった。
透けるような白い肌は、陶器のようにあでやかで、かといって病的な白さではなかった。
ウルフカットで、左右には長い三つ編みが垂れ下がっている。襟足は太ももまであり、自由気ままにはねていた。
骨っぽい模様と羽をモチーフにした装いとフードを合わせ、カーキ色の丈の短いズボンを穿いている。どこか伝統めいたものに気軽さを合わせたような服装は、活発なルーシーには異様なほど合致していた。
水面のように揺れる大きな眼には確かな眼力がある。まるで、意志の強さを示すかのように煌めいている。
それに放っておけないというか擁護したくなる魔性にも似たものを感じ、司書はなんともいえない気持ちになった。
恋愛的なものなのか、はたまた性的なものなのか。
その感情の正体を今の彼には分からなかった。
まるで司書の心のように木々もざわめいていた。
「いっしょにあそぼ?」
「あ、あぁ……」
「おいおいアンタのせいで、この俺様が振り落とされたんだぞ! ……む、無視するなぁ!」
「うるさいよカイト」
「ルーシーもルーシーだ!」
わあわあと喚き散らすカイトを二人は笑いあって見つめている。
楽しげで、思わず頬を緩ませてしまう光景。
笑いながら司書は思った。
あぁ、幸せだ。
今、この瞬間が。なによりルーシーが笑っていることが。
こんな世界は間違っている。
今の世界が正しいものであるはずがない。
この子を絶望の色で染め上げた、獣人排斥の世界が。
何があっても俺はルーシーの希望であらなければならないのだ。
彼女の笑みを絶やさないためにも。
◇◇◇
こんな日々がずっと続けばいいのに──平和を願う者であれば、誰しも同じような言葉を口にするだろう。
だが、いつまでも平穏無事な日々は続くはずもなく、あまりにも簡単に崩落していった。
陰謀の影が忍び寄る可能性を、このときの彼らは考えてもいなかった。
運命は、暗がりで身を潜め、静かに機を窺っていた。
一本の木に止まっていた鳥が声を上げて、高らかに飛び立っていった。
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補足。
魔歴とは作中の年号なようなものです。
ご理解のほどよろしく御願いします!