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ミゼルコリアの双封珠  作者: 早匂 素花
■ 2 : ルビナの街
7/16

3

 再び風の気と触れ合い始めたフウセイアを眺めていたジーナの耳に、こつこつと硬い音が届いた。先ほどジーナも利用した、神殿裏口の呼び出し金具の音だ。

 金具は何度か間を空けながらも、繰り返し打ち鳴らされている。

 神殿の誰かが対応する気配はない。リーラによれば来客中で忙しいということだし、裏側にはまだ人が戻って来ていないのだろうか。

 しばらく待ったものの、金具の音は鳴り続けていた。

「表に回ったら誰かいると、伝えてあげるべきかしらね」

 ジーナは薪から腰を上げて、建物の中に入り軽い足取りで裏口に向かった。

「神殿の人は皆さん表側にいるので、正面に回っていただいた方がいいですよ」

 そう言いながら裏口の扉を押し開き、外に立っていた人物を目にしてジーナは硬直する。

「やはり、あなたでしたね。ユーフェルジーナ殿下」

「……サリュウ!」

 “闇”避けの魔術陣が刺繍された濃紺のマントを身に着けた焦茶の髪の青年は、見慣れた渋面でジーナを見下ろしていた。

 慌てて引き戻そうとした扉は、サリュウのがっしりした手と靴先で留められる。

「なぜあなたがここにいるの? もしかして、この街にも“闇”が現れたの!?」

「いいえ、そうではありません。神官長殿の護衛で参っただけです。そして偶然、この神殿に殿下と風馬らしき組み合わせが入っていったという情報を耳にしたのです」

 両手で扉が開放されるのに抵抗していたジーナだったが、サリュウの背後にまだ数人の魔術兵団が控えているのを見て、この場では勝てないと判断する。

「悪いけれど、まだあなたに捕まるわけにはいかないわ!」

 勢い良く扉を放して、素早く身を翻す。建物の中を通って裏庭に向かおうとしたジーナの背を、サリュウが追う。

「そちらに逃げても無駄です!」

 その意味を吟味している余裕はなかった。

 裏庭に走り出て、ぐるりと見回す。

 異変を察知していたのだろう。フウセイアは建物のすぐ近くに戻って来ていた。

「サリュウが来てるわ。逃げましょう!」

 首を下げたフウセイアの手綱を掴み、あぶみに足を掛ける。身体を乗り上げようとしたとき、ジーナに新たな声が掛かった。

「お待ちください、巫子姫」

 落ち着いているが若々しい声に、ジーナは身を竦めた。

 眉を思いっきりしかめて、そっと振り返る。

「視察に来た神官長って、あなただったの。エランゼイル」

「思いがけず貴女のお姿を拝見できて、とても嬉しく思います」

「わたしにとっては、嬉しくもなんともないわ」

 ジーナの拒否の言葉にも、現れた青年は穏やかな笑顔を保ったままだった。だが、その茶色の瞳は笑っていない。

「……あの、神官長様がジーナとお知り合いだというのでご案内したんだけど、何かいけなかったかしら……?」

「リーラ」

 青年の隣にいた少女が、おそるおそる切り出した。自信なさげな様子に我に返って、ジーナは息を吸い直す。

「そんなことないわ」

 リーラは何も悪くない。恐らく、この上辺だけは良い神官が、善良だが自己評価の低い少女をうまく言いくるめて、ここまで連れてこさせたに違いないのだ。

「この人は、確かにわたしの知り合いよ」

 言いながらジーナは、フウセイアのあぶみに掛けていた足を外した。手綱も手放して、改めて青年に向き直る。

 紫色の神官服は、高位の神職の証。艶やかな濃い金髪と茶の瞳は、王族に近い有力家系のもの。だが、その血筋だけでは、これほど若くして神官長の地位には昇れない。優しげな顔をしているが、この青年はそれを可能にするほどの知識と実力、そして気概の持ち主だ。簡単に逃げられる相手ではない。

「神官長のあなたがわざわざお出ましとは、ご苦労なことね」

「さすがに私自ら巫子姫を捜しに参ったわけではございません。視察に来て偶然に貴女をお見かけしたというのは本当です」

 そして追ってきたサリュウたち魔術兵団も裏庭に辿りついた。出口である裏門のあたりも既に固められている。彼らは、フウセイアが飛び上がるのを警戒して、捕縛のための封珠を構えていた。

< 強行突破するか? >

 頭の中にフウセイアの声が届く。しかしジーナは小さく首を振ってそれを断った。

 フウセイアなら不可能ではないが、できれば無用な争いは避けたい。

「エランゼイル。あなたなら、わたしが巫子に相応しくない理由がわかるでしょう。そんなわたしをいつまでも追いかけるよりも、より適した巫子を探した方がいいと思うの」

「貴女のお力に癖があるのは存じています。けれども、貴女が巫子であることは確かなのです。その身に宿されたものが、それを証明しています」

 エランゼイルの目が、ジーナの胸元あたりをじっと見据える。その視線を遮るように、ジーナは服の上から手で胸元を押さえた。

 布の下に硬い感触がある。普通の封珠よりもふた回りほど大きい、まだ透明な玉。

 自分自身の気を封珠に注ぐことすら満足にできないというのに、ここに神の澱を封じるなんてことができるとは、ジーナにはとても思えなかった。

「わたしには、この身の玉を活かすことはできないわ。それよりも“闇”を排除して回る方が、この国のためになる。それに、“闇”を追っていれば、彼を捕まえることもできるはず……!」

「ロイエルセルト殿のことは、神殿が対応すると申し上げたはずです。巫子姫はお気になさらなくてもよい」

「そんなことできるわけないでしょう!? あの方はわたしの……」

「たとえご血縁だろうと魔術の師だろうと、今の彼は邪な望みを抱いて、この国に害をなそうとしている叛逆者です」

 ロイエルセルトが国からどう看做されているかなど、わかりきっていた。ジーナ自身も頭ではそう思っていた。けれども、神殿の権力者からはっきりとそう言い切られて、ジーナの心は衝撃を受ける。

 奥歯を噛み締めて、ジーナはエランゼイルを見返した。

「……だからこそ、わたしのこの手で、あの方を捕まえたいのよ」

「それは、貴女の使命ではございません」

「エランゼイル!」

 平行線を辿る会話に、ジーナは目を強くつむった。

 そのとき、背後の魔術兵団の気配がざわついた。

「あ、あれは……っ!」

「まさか……」

 不審に思って兵士たちの仰ぐ視線の先を追い、ジーナも目を見開いた。

「“闇”!」

 神殿の裏門の上、屋根よりも少しだけ高い空中に、黒い染みのような何かが浮いていた。

 どろりとした真っ黒なそれは、こぼれ落ちるようにじわじわと範囲を広げている。重苦しい曇天の下に、黒い霧の蓋を重ねるかのようだ。

「総員広がれ! 封珠用意!」

 素早く行動に移ったのはサリュウだった。鋭い声で部下に指示を飛ばす。

「貴方たちは早く屋内へ!」

 エランゼイルは、成り行きを呆然と見ているだけだったリーラや神殿の人々を下がらせる。

「みんな表側から逃げて! 神殿周辺の人たちも避難させて!」

 慌てて逃げ惑う人々に、ジーナも声を掛けた。その間にも、黒い霧はどんどんと広がっていく。

(こんな神気脈の濃い神殿のすぐ近くにも現れるなんて!)

 魔術兵団に加わって自分も“闇”を排除すべく、首飾りの封珠に手を伸ばしかけたとき。ジーナの耳許で、封珠飾りが細かく揺れ始めたのを感じた。

「……!」

 慌てて左耳を押さえて、ジーナは中空の“闇”に目を凝らす。その“闇”の中心部が、どろりと渦を描きながら膨らみ始めた。縦長の楕円になったそこが、音もなくぱくりと割れて——

「あれは……っ!?」

 その場の人々が驚愕の声を上げる。しかしジーナだけは唇を噛んでその光景を見守っていた。彼女だけは、これと同じ状況を体験していた。

 すべてを飲み込み、生命力を吸い尽くすはずの真っ黒で不吉な霧。

 その中から悠々と現れる、一人の青年。

 白の長衣に、白っぽい髪と瞳。初めて目にする人が、誤認するのは無理もない。

「……ミゼルコリア神?」

「——いいえ、違います」

 ジーナを気にして逃げ遅れていたリーラが、空を見上げて呆然と呟く。

 それをジーナよりも先に否定したのは、この光景を初めて目の当たりにしたはずのエランゼイルだった。

 人々がそれぞれの想いを抱えて見上げているなか、“闇”から出てきた青年は、明るい灰色の瞳を細めて微笑んだ。

「私の花嫁をあまり困らせないでもらおうか。エランゼイル」




 名指しされた神官長は、僅かなあいだ息を飲んだものの、すぐに口を開いた。

「……お久し振りですね。ロイエルセルト魔術師長殿」

 異様な状況にも関わらず、動揺をほとんど感じさせない受け答えをするエランゼイルは、さすがと言うべきか。

 その態度に、ロイエルセルトは面白そうに唇の片端を引き上げた。

「私はもう魔術師長の職は辞しているよ」

「貴方の後任はまだ決まっていませんから。それより、私からも言わせていただくなら、ユーフェルジーナ様は貴方の花嫁ではございません。ミゼルコリア神の巫子姫です」

 中空から見下ろすロイエルセルトと、地面から見上げるエランゼイルの視線がぶつかり、冷たい閃光が走ったかのようだった。

「私が神の力を手にすれば、私のものになるだろう」

「……いいえっ! あなたの大それた望みはわたしが阻止してみせます! ……そして、もし万が一あなたの野望が叶ったとしても、わたしはあなたのものにはならない!」

 黙ってロイエルセルトとエランゼイルのやりとりを見ていたジーナだったが、そこで我慢できずに叫ぶ。

「相変わらずつれないことを言うものだ、ユーフェルジーナ」

 ロイエルセルトの整った頬に悲しそうな色が浮かんで、ジーナの胸がきり、と軋む。その表情は、所詮は見せかけでしかないのはわかっているのに。先ほど思い出していた懐かしい過去の中の彼と、たまさか重なってしまった。

「今のあなたと、親しげな会話をする道理はありません」

 過去を振り払うように、ジーナは“闇”の中に浮かぶロイエルセルトを見据える。

 そんな彼女の態度に、ロイエルセルトはふっと笑いをこぼした。

「*****!」

 そこに、複数の呪文を唱える声が割って入った。

 同時にいくつもの封珠が投げ上げられる。

 いち早く我に返ったサリュウの指示で、魔術兵団が“闇”に対抗するべく行動を開始していた。

「“闇”が神殿の敷地の外に出る前に抑えろ! 可能なら魔術師長殿も捕縛する!」

 投げられた封珠が“闇”の端に触れて、複数の色の光を眩く散らす。それに押されて、“闇”の動きが鈍る。いくつかの封珠が、輝きを強めてロイエルセルトの近くまで到達する。

「小賢しい。その程度の力でどうするつもりだ」

 ロイエルセルトの片腕が、すっと広げられた。自分の封珠を取り外すことも、呪文を唱えることもなく、ただ何かを念ずるように軽く瞳を閉じる。

 それだけで、彼に届きかけていた魔術兵団の封珠が光を失い、勢いをなくして真下に落下していく。合わせて、鈍っていた“闇”の動きも再び活発になりだした。

「わたしがやります!」

 ロイエルセルトの力を前にして戦意が折れかけていた魔術兵団の前面に、ジーナは走り込む。

「殿下! 危険です!」

「お前の技巧が通じると思うか」

「技量ではあなたには敵いませんが、気の大きさでは負けません!」

 首飾りから封珠を二つ外して両手に持つ。

「**!」

 ここは神気脈の濃い場所だ。短い呪文でも、大量の気が集まってくる。

 風の気を中心に、土と火と水の気も寄り添い、そこにジーナの気を織り混ぜて放出する。“闇”に向けて投げた封珠を追って、気の束が強烈な白光となって駆け昇っていく。

 ジーナの髪と同じ白金の光に触れた“闇”は、たちまち後退して拡散する。黒い霧に阻まれることなく、光はロイエルセルトのもとに伸びていった。

「強引な気なのは変わらないな」

 ジーナの光はロイエルセルトの身体を取り囲んだように見えた。

 行方を見守っていた人々は、捕縛を期待して喜びかけ。けれども当のジーナだけは厳しい顔を崩さない。

「***!」

 低い声音の呪文が響いて、ロイエルセルトの手から数個の封珠が放り投げられた。

 足元から冴えた白さの白銀の光が立ち上がって、彼を包みかけていた白金の光がするりと外される。

「正面から真っ直ぐに押し切るだけが攻撃ではない。まあ、それがお前の性格らしいが」

 愛でるような口調に、ジーナは拳を握る。

(やっぱり、技巧ではロイエルセルト様には敵わない……!)

 だからこそ圧倒的な気の量で押し切ろうとしたのだが、それは通用しなかった。

(諦めるのはまだ早いわ)

 散らされた気を呼び戻すために、再び短く呪文を唱える。

 周囲に拡散していた気が、その呪文に惹かれるようにジーナの元に向かおうとする。

 異変はそのときに起こった。

 白金の光を嫌って後退した“闇”が、その光に集い始める。指向性のないはずの“闇”が何かを目指すことは珍しい。

 “闇”の中にいるロイエルセルトがいち早くその変化を察した。彼の余裕が初めて崩れて、端正な眉根が寄せられる。

 だが、夢中だったジーナはそれに気付かなかった。次の攻撃をするために意識を集中する彼女の元に、気がいっせいに集う。そしてそれを追うように、黒い霧も吸い寄せられていく。

「……ユーフェルジーナ!」

 ロイエルセルトに名を呼ばれて、ジーナは目を見開いた。

「な、なに……っ!?」

 そして、ようやく危機を察する。

 引き戻している気に絡みつくように寄ってくる“闇”は、どろりとしているのに営利な刃物のような鋭さを感じた。

「***!」

 咄嗟に身を守る呪文を唱える。

 ジーナの前面に光の壁が広がる。

 戻ってきた気がその光に加わって、壁の厚みが増す。

 光の壁を通過して、自分の身体に残りの気が満ちる。

 辿り着いた“闇”が壁に当たり、弾ける。

 間に合った、と思った。

「!!」

 弾けた“闇”が光の壁に貼り付いて、そのまま光に潜り込んでくる。

(消えない……?)

 ジーナが疑問を浮かべたとき、胸元が大きく脈打った。

 心臓があるはずの位置とは異なる衝撃に、ジーナはその場所に手を伸ばす。

 服の下で、硬い玉の感触がある。

 いつもは肌と同じ温度のはずの玉が、うっすら熱くなっている。

 その空の封珠に向かって、光の壁の裏側から何かが一気に流れ込んできた。

「っきゃあっ……!」

 悲鳴が口からこぼれ出た。

 白金の光をまとったジーナ自身の気に混じって、まったく異質なものがある。

 ぞわり、と肌の表面が粟立つ。

 封珠は熱いのに、それ(・・)は冷たく、重く、暗い。

 おぞましい感覚が、胸元から身体中に溢れそうになる。

(何なの、これは……!)

(……もしかして、“闇”!?)

 胸元の封珠に手をあてて身体を折り曲げ、気持ち悪さを押さえ込もうとする。魔術で対抗したくても、それだけで精一杯だ。

 だというのに、封珠に向かって、さらに“闇”が入り込もうとしている。

 息が詰まる。

 手指の先が冷たくなる。

 “闇”に対する恐怖が頭をもたげる。

 それは身を守る魔術を弱めることにつながる。

 ジーナの前面にあった光の壁が、輝きを薄くする。

 それに反比例して、光に潜り込む黒い霧の量が増える。

 胸にのしかかる“闇”の重みに、膝がくじけそうになった。

「ユーフェルジーナ!」

 ふいに、身に掛かる重圧が消えた。

 ふわりと何かに身を包まれた感覚に、ジーナは顔を上げる。

 自分の気と良く似た、けれどそれよりも白く冴えた白銀の気が、彼女の全体を柔らかく囲んでいた。

 そして、その向こうには、流れる艶やかな白銀の髪。

「……ロイエルセルト様」

 そこには、いつの間に“闇”の中から出て来たのか、白い青年の姿があった。

 常とは異なる、真剣な灰色の瞳に、ジーナは状況を忘れて、しばしロイエルセルトを見上げていた。

「******」

 引き結ばれていた薄い唇から、呪文が漏れ聞こえてくる。

 ジーナの胸の中にわだかまっていた黒く重い霧が、すうっと引き抜かれていく感覚があった。

 “闇”が抜けていくにつれて、身の内の冷たさは消えていき、熱を持っていた胸の封珠も肌の温もりに戻っていく。

 ロイエルセルトに助けられたのだ、ということはすぐにわかった。

(でも、なぜ……?)

 彼の真意を知りたくて、ジーナは背中を向けてしまったロイエルセルトの前に身を乗り出し、そこで目を見開いた。

「ロイエルセルト様っ!」

 ジーナから引き抜かれた“闇”は、ぬらぬらとロイエルセルトの胸元に向かい、そこで彼の身体の中に入り込んでいた。

 軽くはだけた上着の隙間から、硬質な何かが光を弾く。

「……ミゼルコリアの、封、珠?」

 “闇”が向かっていたのは、ロイエルセルトの肌に埋まった、大きな玉だった。

 それはジーナの胸元にあるのと同じ、透明な玉。

 だが、その内側には、黒々とした霧が焔のように渦巻いている。

(どうして、ロイエルセルト様の身にも神の封珠があるの!?)

 目に映ったものに、ジーナの頭の中は激しく混乱した。

 そんな彼女の前で、ロイエルセルトは静かに“闇”を取り込んでいく。

 眉は歪み、口元は噛み締められている。彼にとってもけっして楽な行為ではないはずだ。だが、ジーナのように頽れることなく、ジーナを守りながら立ち続けていた。

 やがて、ジーナの中にあった“闇”が、すべてロイエルセルトの胸の玉に収められた。

 それと同時に、周囲にあった白銀の光も消えていた。

 中空にはまだ黒い霧の塊が残っているが、広がりも縮まりもせずに留まっている。

 神殿の裏庭に、しばしの静寂が訪れていた。

「ロイエルセルト様……なぜ、あなたが……あなたの胸のそれは、」

 ようやく口を開いたジーナを、けれど遮るようにロイエルセルトは振り返る。

「お前はもう“闇”に近付くな。神殿の中で大人しくしていろ」

 灰色の瞳が、じっとジーナを見据える。

 以前にも同じようなことを言われたが、そのときと違って、彼の瞳はひどく真っ直ぐだった。

 ロイエルセルトの長い手が、そっとジーナの髪に伸ばされる。

 白金の髪を一房摘んで、それがゆっくりと彼の口元に運ばれる。

「お前を、神には渡さない」

 どういう意味だ、と問うことはできなかった。

「巫子姫をお守りいただきありがとうございました。ロイエルセルト殿」

 落ち着いた声音が、二人の間に割って入る。

 神官長を目に留めて、ロイエルセルトは握っていたジーナの髪を放した。

「お前に礼を言われる筋合いはない」

「巫子姫の身を案ずるのは、私も同じですよ」

 微笑むエランゼイルに、苛立たしげにロイエルセルトは踵を返そうとして、だが続く言葉に動きを止めた。

「その身の封珠に、もう澱を取り込み始めてしまわれたのですね。その御髪にもいささか闇の気配が見られるようですが……」

「……え?」

「余計なことは言うな!」

 厳しい声に、近くにいたジーナの方が身を竦めた。

 だが、エランゼイルの言葉が気になって、改めて眼前の白銀の髪に目を凝らす。

 そして気付いた。

「ロイエルセルト様。その、髪の色は」

 幼い頃から馴れ親しんだ艶やかに輝く白銀の長い髪。よく見ると、その白銀に灰色が混じって、記憶にあるよりも暗い色味になっている。

 以前、彼に“闇”の中に引き込まれたときは、単に周囲が暗いからそう見えるのだと思っていた。けれども、曇天とはいえ陽光の下でも、それは変わらなかった。

「エランゼイルが言ったのは、どういうことですか……?」

 神官長の言葉の正確な意味は、ジーナにはわからない。ただ、不穏な内容だ、ということは理解できる。

 ロイエルセルトは、自分が知らない何か大きなものを背負っているのではないか。

 そんな疑念が急速に沸き上がってきた。

 胸元で握りしめていた両手を、ロイエルセルトに伸ばす。

 だが、ジーナの手が彼の衣に触れるよりも早く、ロイエルセルトは身を翻してしまった。

「ロイエルセルト様!」

「お前は、何も知らなくていい。静かに待っていろ。私の花嫁」

 内面を窺わせない硬い声だけを残して、ロイエルセルトの姿が消える。

 慌てて頭上を見上げる。

 彼が出現した“闇”はそのまま中空に漂っていたが、もうその黒靄の中に人の気配は感じられなかった。

「ロイエルセルト様……!」

 行き場をなくした両手を再び握りしめて、ジーナは立ち尽くした。

 先ほど彼に口付けられた髪にまだ彼の名残がある気がして、そっとその上に手を重ねる。

 その髪が、沸き起こった風に乱された。

 事態を見ているしかできなかった魔術兵団の面々が、残された“闇”を排除するべく行動を開始していた。次々に投げ上げられた封珠が、各々の光とともに周辺の気を巻き込み、空中の“闇”を囲い込む。

 この様子なら、幸いにルビナの街に被害を出すことなく、“闇”は退けられそうだ。

 脇からそれを見届けながら、ジーナの頭の中は疑問ばかりが渦巻いていた。

「お身体に障りはありませんでしたか? 巫子姫」

 いつの間にか隣に来ていた神官長を、ジーナはのろのろと見上げる。

「エランゼイル。あなたは知っているのよね。ロイエルセルト様の身にある封珠のことを。他にも……」

「存じ上げています。けれども、今ここでお話しするわけにはまいりません」

「どうして……!」

「私一人の判断ではお話しできません。陛下のご意向を確認しなければ」

「お兄様の?」

「はい。ですから、本当のことをお知りになりたいのでしたら、王都に戻りましょう」

 王都に戻れ——それは、常に言われ続けていたことだ。旅をしている間は、ロイエルセルトを阻止するまでは戻ることはない、と思っていた。だが——

 これ以上、一人で彷徨っていても、何も事態は解決しないだろう。そんな気がした。

 唇を噛み締めて、ジーナは頷いたのだった。




 神殿の正面に立派な馬車が引いてこられた音を聞いて、リーラは籠に荷を詰める手を早めた。

 朝のうちに料理女に頼んで作っておいてもらった堅焼きのクッキー、神殿で作られた薬草茶の茶葉が数種類。冷めても美味しい茶葉を淹れた水筒。

(王妹姫様に差し上げられるような立派なものじゃないけれど、あたしにはこれしか用意できないから)

 詰め終わった中身を確認すると、籠を持って小走りで正面に向かう。

「リーラ!」

 馬車の手前で白金の髪の少女が笑顔で迎えてくれた。

「ジーナ。良かった、間に合って。これ、良ければ持っていって。美味しいって言ってくれたお茶が入ってる」

「ありがとう」

 ジーナに出会ったのは昨日のことだ。だが、それからの短い間に、神官長と話したり、“闇”が出現したり、さらにその中から男の人が現れたり、ジーナの正体を聞いたりと、いろいろなことがあって、もっと時間が経っているような気がする。

 ジーナが現国王の妹姫で、ミゼルコリアの花嫁と呼ばれる巫子だということは、“闇”が撃退されて一段落ついたところで、ジーナ本人から告白された。

 それを聞いた直後、リーラはジーナへの態度を畏まったものに改めた。けれどジーナに今まで通りにしてくれと言われて、ためらいながらも従った。

 巫女頭などはそのことに目を吊り上げたものの、神官長に辛辣に扱われたことが堪えたのか、何も言わない。それどころか、リーラが表に出ることも禁じなくなっていた。

「巫子姫、まもなく出立の時刻です」

「わかっているわ」

 馬車の乗り口脇に立っていた神官長に、ジーナは無愛想な顔を返す。

 二人が知り合いだというのは間違っていなかったけれど、ジーナの元に神官長を案内したのはやはり間違いだったのではないか、とリーラは申し訳ない気持ちになった。

「そもそも、わたしはフウセイアに乗せてもらうから、馬車なんかに乗らなくても構わないのに」

「それは許可できません。風馬に乗ってサリュウたちからお逃げになったことが何度あるとお思いですか。風馬は魔術兵団が引いてまいりますから、巫子姫は馬車にお乗りください」

「あなたと二人きりで馬車に籠っていろ、と?」

「貴女にここでお会いできるとは思っていませんでしたので、王家の馬車の用意ができませんでした」

「そういう意味じゃないわ」

「神殿の馬車も乗り心地は悪くございませんよ」

 分かっていてはぐらかす神官長に、ジーナは深々と溜め息をついている。

「……あの、ごめんね、ジーナ。あたしがあなたのことを教えてしまったから……」

「ううん、いいのよ。エランゼイルに会ったおかげで、わかったこともあったし。一人旅を続けるのも、そろそろ潮時だったんだわ」

 彼女がその身分も役目も捨てて旅をしていた理由までは、リーラは聞かなかった。ただ、昨日の騒動で目にしたあの白い青年が関係しているのだろう、ということは想像がつく。

 知り合って間もないが、ジーナが責任感の少ない人物でないことは、リーラにもわかっていた。それでも旅に出させるほどの何かが、あの青年との間にはあるのだろう。

 乾いた風が馬車の回りを吹き過ぎる。

 風になぶられて、ジーナの白金の髪が舞う。隙間から、左耳に提げた封珠の飾りが揺れるのが見えた。白銀の焔を閉じ込めたその封珠は、“闇”の中にいた青年を思い起こさせる。

 出現した“闇”は排除されたものの、ルビナの街も荒れているのは変わらない。風も土も乾燥しているし、作物も家畜も元気がない。“ミゼルコリアの花嫁”が選ばれたのだから、もう少し辛抱すればこの状況は改善すると、人々は思っている。リーラもそう思っていた。けれど。

 実際に“闇”を目の当たりにして、さらにそれに対抗するジーナの姿を見て、リーラには疑問が湧き出ていた。

 あんなに膨大でおぞましいものに、たとえ選ばれた巫子とはいえ、華奢な少女であるジーナ一人で立ち向かえというのは無理な話ではないだろうか。ジーナを守ろうとしていたあの青年の行動の方が、正しいのではないだろうか。

「さて、もう行くわ。ルビナ神殿には迷惑を掛けたし、リーラにもお世話になったし、ごめんなさいね」

 物思いに沈んでいたリーラは、慌てて首を振った。

「ううん! そんなことない。それに、あたしはジーナに会えてすごく良かった。あたしの髪や目を肯定してくれて、とても嬉しかった」

「だって、本当に外見と“闇”は関係ないから。巫女の修行、頑張ってね」

「うん。ありがとう。ジーナは、色々と大変そうだけど、その、頑張り過ぎないでね」

「え?」

「えっと、その。ジーナには、やらなくちゃいけないことがたくさんありそうだから。でも、それを全部ジーナ一人で背負い込まなくてもいいと思う。たぶん、ジーナを手伝ってくれる人は、いると思うの。あたしも、何もできないけど、それでも何かできることがあるなら、ジーナの背負ってるものを手助けしてあげたいよ」

 思っていることを上手く言語化できなくて、リーラはしどろもどろになりながら説明する。それをジーナは、大きな黄玉の瞳を丸くしながら聞いていてくれた。

「そんな風に言ってくれたのは、あなたが初めてだわ」

「ジーナ……」

「わたしはまだまだ大丈夫だけど、本当に困ったときがあれば、リーラに相談するわ。ありがとう」

 そう言って笑ったジーナの顔は、何か堅い芯を内に秘めながらも、吹っ切れたような爽やかなものだった。

 小さく手を振って、ジーナは軽い足取りで馬車に乗り込む。手を貸そうとしていた魔術兵団の青年は取り残されていた。

 その後に神官長が乗り込んで、馬車の扉が閉められる。御者の掛け声とともに、すぐに馬車は動き始めた。その前後左右を、待機していた魔術兵団の騎馬が固めて、一行は街道を去っていく。

(ミゼルコリア神……あなた様が花嫁にと見定めたあのジーナに、どうか幸せをもたらしてくださいますよう)

 神殿の前の道まで出て見送りながら、リーラはそう胸の内で祈っていた。

 

 

 

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